第124話 世界を書き換える法典と、神を要さぬ世界に抗う、最後の大賢者
柚葉とルシエルの身体は、静かに地に伏していた。その表情は穏やかで、まるで深い眠りに落ちているかのようだった。
けれども、彼女たちの魂はいままさに、模型神の導きによって、はじまりの地――精神世界の深奥へと旅立とうとしていた。
急に意識を失った柚葉とルシエルを守るため、仲間たちは即座に布陣を敷いた。
何が起きたのか、まだ誰にもはっきりとはわからなかった。とはいえ、復活しかけていた邪神の動きが同時に止まったことで、ふたりの異変と何らかの関係性があると、誰もが直感していた。
ドルガンの盾が前線を支え、アウロアの矢が空気を張り詰めさせる。ニャルディアの双剣と、ブレンナのハンマーが左右を守り、ヒジカタは不動の構えで、背後の静寂を守っていた。
何が起ころうとも――彼らは、柚葉とルシエルの“沈黙”を決して破らせはしない。
その異変に、最初に気づいたのはカディスだった。
「……なるほど。そういうことか」
彼は、ゆっくりと祭壇の階段を降りながら、まるで答え合わせを楽しむ学者のように、静かに口元を歪めた。
「……異界に逃れるか。この地での神の目覚めを拒み、その代わりに新たな理を描こうというのか」
その声音には怒りの色はなかった。
むしろ、長年の仮説が現実となったことへの、陶酔にも似た熱が宿っていた。
「だが、それは――逃亡だ。神の器を用い、世界の法則を書き換える……それこそ、私が求めた最終観測の核心」
彼の足元に、幾何学と詩文が交錯する魔法陣が浮かび上がる。その中心から、黒銀の光を帯びた書物がゆっくりと顕現した。
封印されし法典詠唱終式―― それは、世界の観測を終焉へ導くために創られた、禁忌の知識の結晶。
カディスはその表紙に指を滑らせながら、まるで愛おしむように呟いた。
「この世界に、神など不要だ。必要なのは、観測と結果――それ以外は、すべて誤差だ」
その瞬間、空気が震えた。
カディスの周囲に、七色の魔力が螺旋を描き、空間そのものが軋みを上げる。
彼の瞳は、冷たく、そして確信に満ちていた。
その先にあるのは、柚葉とルシエル――眠るようにうずくまるふたりと、その静寂を守る者たち。
「さあ、観測を再開しよう。この世界の終わりを、正しく記録するために」
そんな、彼の行く手に、ひとりの老いた大賢者が立ちはだかる。
「……ならば、私は過程を守ろう」
オーヴェルスの瞳が、静かに燃えていた。それは、長き時を生きた者だけが持つ、揺るぎなき覚悟の光だった。
「この世界が、まだ終わらぬために――」
カディスは、わずかに眉を上げた。
「……ご老公。大賢者といえど、光魔法の大家に過ぎぬ。ただの魔術師が、私に立ち向かえると?」
その声は、嘲りではなかった。
ただ、冷静な事実の確認――理に基づく、観測者の問いだった。
だが、オーヴェルスは静かに首を振る。
「……勝つ必要はない。お前の狂気を止めることが出来れば、それでよい」
その言葉に、カディスの瞳がわずかに揺れた。
無言のまま、彼の手にある《封印されし法典詠唱終式》が開かれる。
その瞬間、空間が軋み、世界の法則そのものが書き換えられていく。
それは、魔導現象を支配する究極の知性型魔法。あらゆる属性、因果、存在の定義を再構築し、この場における現実を、彼の理に従わせる。
「――これを、止められますか?」
カディスの問いは、静かだった。そして、その背後にあるのは、世界そのものを塗り替える終焉の詠唱。
オーヴェルスは、ゆっくりと目を閉じ、そして、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……わしは、長いこと生きた。あとは、若い者がこの世を紡いでくれる」
その言葉とともに、彼の足元に、逆向きに回転する魔法陣が展開される。
それは、世界の定義を否定する魔術――《原理逆奏》
その 属性は、反理・逆理・虚構干渉。
定義された法則そのものを否定し、矛盾を力に変える魔術。世界の根幹にある因果律や構造を逆奏させ、あらゆる魔導現象を存在しなかったことに書き換える。
それは、《コーデクス・アーキタイプ》の再定義を否定する、唯一の対抗式。
「――さあ、始めようかの。お主の終わりと、わしの矛盾と、どちらが世界を上書きするか」
空間が、音もなく裂けた。
ふたりの魔導が交錯するその瞬間、世界は、静かに定義の戦場へと変貌していった。
オーヴェルスの足元に展開された《原理逆奏》の魔法陣が、逆巻く螺旋となって空間を侵食していく。
その異質な魔導の在り方に、カディスは一瞬、目を見開いた。
そして――
「……美しい」
思わず、そう呟いていた。
「さすがは、我が師が唯一“賢者の中の賢者”と認めた男……オーヴェルス。その知の頂きに、ついに届いたか」
七色の魔力をまといながら、カディスはゆっくりと法典を閉じる。とはいえ、それは終わりではなく、新たな詠唱の始まりを意味していた。
「それでもなお、惜しい。その知性を以てして、なお理解できぬとは――この実験の、なんと素晴らしいことか」
彼の声には、心からの嘆きと、どこか哀れみすらにじんでいた。
「世界は、観測されることで意味を持つ。ならば、終焉すらもまた、観測されねばならぬ。それが、私の最終観測だ」
オーヴェルスは、静かに首を振った。
「お前の言葉は、知の仮面を被っただけの破壊に過ぎぬ。観測とは、終わりを記すためにあるのではない。未来を紡ぐためにこそ、あるのだ」
その言葉に、カディスの瞳が細められる。
「……やはり、わかり合うことはできませんね」
「わかり合う必要など、最初からない。お前の理を、ここで終わらせる」
その瞬間、ふたりの魔法陣が同時に輝きを放った。
《封印されし法典詠唱終式》対《原理逆奏》
再定義と否定。
構築と崩壊。
世界の理を巡る、究極の魔導が激突する。
空間が裂け、光と闇が交錯し、その中心に、ふたりの賢者が立っていた。
「――始めよう、カディス」
「――記録しよう、オーヴェルス」
そして、世界は震えた。




