第123話 堕天大天使の原罪と、新たな世界の起点
その瞬間――ふたりの脳裏に、同じ映像がよぎった。
それは、遥か遠い、時の彼方。まだ世界が光に満ちていた時代の記憶だった。
天上界。
そこに在ったのは、大神セラフィードの玉座と、その周囲を囲む七柱の大天使たち。
その中でも、ひときわ輝きを放っていた存在がいた。
名を――アゼル=ラグナ。
叡智と調和を司る、白銀の翼を持つ大天使。
かの存在は、神の言葉を最も深く理解し、人々に理と秩序をもたらす導き手として崇められていた。
けれども、彼ものは見てしまった。神々の理の綻びを。世界に満ちる光の裏に潜む、無数の影と矛盾を。
「なぜ、神はすべてを救わぬのか」
「なぜ、選ばれし者だけが祝福を受けるのか」
「なぜ、理は常に、誰かを切り捨てるのか」
その問いは、やがて彼ものの中で疑念となり、疑念は静かな怒りへと変わった。
そしてついに、禁忌を犯した。
神の理を超え、全てを救う力を求めて、アストラルの深層に眠る原初のコード――《アストラル・コード》に触れたのだ。
それは、神々すら恐れ封じた、始まりの力にして終わりの鍵。
アゼル=ラグナは、その力を以て、世界の理を塗り替えようとした。
だが――試みは、あっけなく封じられる。そして、その代償はあまりにも大きかった。
彼の翼は焼かれ、その目は封じられ、その名は神々の記録から抹消された。
以後、彼は堕天の大天使と呼ばれ、悪神として忌まれ、聖機の中にそのまま封じられた。
それが、今――カディスの手によって、再びこの世界に現れようとしている。
柚葉とルシエルの脳裏に流れ込む、アゼル=ラグナの記憶。
その奥底に渦巻いていたのは、ただの怒りではなかった。
やるせなさ。
救えなかった者たちへの悔恨。神に選ばれなかった者たちの涙を、何度も、何度も見てきた。
「なぜ、神は見捨てる……?」
その問いは、やがて呪いとなり、彼自身をも蝕んでいった。
「なぜ、私は……あの光を信じてしまったのだ……!」
その叫びが、柚葉の胸を貫いた。
まるで、自分の心が裂けていくような痛み。彼女の中にある聖女としての在り方が、軋みを上げて揺らいでいく。
「……っ、やめて……!」
ルシエルもまた、額を押さえて膝をつく。
彼の中にある記憶が、アゼル=ラグナの苦悩と混ざり合い、境界が曖昧になっていく。
「……このままでは……!」
そのときだった……空間が、音もなく裂けた。
現れたのは、この世界の理に属さぬ、異次元の存在。
――模型神。
その姿は、形を持たず、見る者によって異なる像を結ぶ。
しかし、そこに在るだけで、世界の法則がわずかに歪むのがわかった。
「……アゼル=ラグナよ。おまえは、ただ滅ぼすために還ってきたのか?」
その声は、無機質でありながら、どこか人や神でさえも心を抉るような響きを持っていた。
「王国を塵とし、この世界を理なき混沌へと還すことが、おまえの望みなのか?」
アゼル=ラグナは、答えない。
ただ、封じられた目の奥で、何かがうごめいていた。
模型神の問いは、まるで彼の本心を試すかのように、静かに、しかし確実に、その魂を揺さぶっていた。
「……其方の望み、渇望は――悪神として人々に恐れられ、忌み嫌われることなのか?」
模型神の声が、空間そのものに染み渡るように響いた。
その問いに、アゼル=ラグナは、わずかに首を横に振った。
「……違う。我は……ただ……」
その声は、かすれていた。
かつて天上に在った者の声とは思えぬほど、深く、重く、痛みに満ちていた。
「我は……救いたかった。選ばれなかった者たちを。神に見捨てられた者たちを……」
その言葉に、柚葉の胸が再び締めつけられる。ルシエルもまた、目を伏せ、唇を噛みしめた。
「だが……それが罪だというのなら……我は、何をもって贖えばよい?」
アゼル=ラグナの声が震える。
その問いは、誰に向けたものでもなく、ただ、空虚に放たれた“想い”のようだった。
「この世界に……我の贖罪が、赦される場所はあるのか?」
沈黙。
そして、模型神は、静かに首を横に振った。
「ない。少なくとも、この世界にはな」
その言葉は、冷たくも、残酷でもなかった。ただ、事実を告げる者の声だった。
しかし、次の瞬間――
「……されど、我は創造神の一柱。この世界の理に縛られぬ模型の神なれば」
モデリウスの声が、わずかに揺らいだ。
「そなたが望むのであれば――新たな地へと、共に行こうぞ。贖罪も、救済も、まだ描かれてはおらぬ白紙の地へ」
その言葉に、空間がわずかに震えた。
それは、神と神の対話でありながら、まるで、ひとりの迷える魂に差し出された、救いの手のようでもあった。
アゼル=ラグナは、封じられた目の奥で、何かを見つめるように、静かに立ち尽くしていた。
「……そんな、ことが……本当に可能なのか」
アゼル=ラグナの声は、かすかに震えていた。
それは希望への渇望か、それとも恐れか――自らの罪に、まだ赦しがあるという可能性に、彼の魂が揺れていた。
模型神は、しばらく沈黙していた。
その沈黙は、まるで世界の時を止めるかのように、重く、深く、空間を支配していた。
やがて、静かに口を開く。
「……可能だ。だが、それには――」
柚葉が、息を呑む。ルシエルもまた、無意識に彼女の手を握っていた。
アゼル=ラグナは、何かを察したように、わずかに顔を上げる。
「それには、世界の“はじまり”の男女が必要となる。ただの人ではない。神の眷属として生まれ、この世界の理に触れうる者――」
モデリウスの声が、静かに響く。
「――星雫の聖女と、陽光の王子。このふたりが、新たな世界の起点とならねばならぬ」
その言葉に、柚葉の心が大きく揺れた。
星雫の聖女――それは、かつて神託により与えられた、自らのもう一つの名。
そして、陽光の王子――その名を聞いた瞬間、ルシエルの中に、遠い記憶の光が、静かに灯った。
ふたりの魂が、この世界の“はじまり”と“終わり”に繋がっていることを、誰よりも先に、彼ら自身が感じ取っていた。
モデリウスは、ふたりを見つめながら、なおも続ける。
「そなたたちが“はじまり”となることで、この世界は新たな理を得る。そして、アゼル=ラグナの贖罪もまた、その中で果たされるであろう」
静寂が、場を包んだ。
それは、世界の命運を左右する、あまりにも重い選択の始まりだった。




