第120話 贄として囚われた魂が、神を閉じる鍵となるまで
ヴァルガの足取りは、もはや自我を失ったかのように鈍い。しかし、歩みは遅いものの祭壇の中心へと向かっていく。
その背には、かつて王国の王子から虚邪の穢れに堕ちたとはいえ、その際に鍛えた武力も、歪んだ誇りも、すでに残っていなかった。
「……ヴァルガ……やめろ……!」
ガルディウスが叫ぶ。
その手には、魔剣《グリム=バルムンク》。しかし、それを振るうことができなかった。
「お前は……父上の弟だろうが……! ルシエルの……アーシェスの、大切な……!」
ヴァルガは振り返らない。
そのまま、祭壇の縁に立ち、黒き繭の脈動に導かれるように、一歩、また一歩と進み――
その身体が、黒い光に包まれた。
「やめろおおおおおおおおおおおッ!!」
ガルディウスの絶叫が、空を裂いた。
だが、ヴァルガの姿は、他の虚邪の教団員たちと同じように、黒き繭の中へと、静かに、確実に――“神の亡骸”の胸元へと、吸い込まれていった。
その瞬間、空間がわずかに震え、繭の鼓動が、ひときわ強く脈打つ。
そこは、底知れぬ暗闇。音もなく、色もなく、ただ“沈黙”だけが満ちていた。
その中心に――ひとつの光が、かすかに脈打っていた。
「……ここは……?」
ヴァルガが意識が浮上する。
そこは、現実とは異なる、どこか懐かしくも不思議な空間だった。空も地もなく、ただ星のような光が暗闇に漂う、静かな“内側”。
その中心に、ひとりの淡く光を帯びた青年が立っていた。
「……ルシエル……」
ヴァルガが名を呼ぶと、その青年――ルシエルはゆっくりと振り返った。
「……あな……た……は?」
その声は、どこか戸惑いと、わずかな怒りを含んでいた。しかし、ヴァルガはその視線をまっすぐに受け止める。
「……すまぬ。わたしは……何も知らず……気づけば、あの者の声に導かれていた……」
ルシエルは黙っていた。しかし、その瞳には、怒りよりも深い哀しみが浮かんでいた。
「……父上から聞かされた。あなたが、父の弟――ボクの叔父だってこと。そして……虚邪の教祖に唆されて、闇に堕ちたって」
ヴァルガの目が、かすかに揺れる。
「父上は……ずっと悔やんでた。冒険者として旅をしていた自分には、あなたの異変に気づいてやることができなかったって……弟を救えなかったって、何度も口にしてた」
ルシエルの声は、静かだった。けれど、その一言一言が、ヴァルガの胸に突き刺さる。
「それに……あなたが王国から抹殺されたのも、虚邪の教祖の企みだったって。あなたを悪堕ちさせて、王国を混乱させるために」
ヴァルガの瞳が、見開かれる。
「……そうか……そういうことか……」
彼の肩が震え、唇がわずかに歪む。
「……わたしは……とんだ道化だな。まんまと騙され、いいように使われて……王国を……家族を……自らの手で裏切ったつもりでいたとは……」
その声には、怒りも、悔しさも、そして――どこか、正気を取り戻したような静けさがあった。
「……虚邪のために生きる必要なんて、ない。あなたは……王国を、家族を、守ろうとしていただけなんだ」
ルシエルの言葉に、ヴァルガはゆっくりと頷いた。
「……違うな。わたしは……まだ、終わってはおらぬ。絶対にやり遂げたい、果たすべき役目をみつけた」
その瞳に、確かな光が戻っていた。
そのとき――ふわり、と。
空間に、やさしい祝福を奏でる歌声が流れた。
「……この声……」
ルシエルが顔を上げる。
そこに現れたのは、透き通るような光の中に立つ、ひとりの女性――セレナーデ。
「あなたたちに、伝えなければならないことがあるの」
その声は、まるで風のようにやさしく、けれど確かな意志を宿していた。
「私は“造られた存在”。虚邪の神を目覚めさせるための、器として……でも、陽光の聖女様が教えてくれたの。“生まれ方がどうであれ、心は自分で選べる”って」
彼女の瞳が、まっすぐにルシエルとヴァルガを見つめる。
「セレーネ様は、最後にこう言ったの。“もし、神が目覚めようとする時が来たなら――この言葉を、心の奥で唱えなさい”って」
二人の意識が、再び現実へと引き戻されていく――
セレナーデは、そっと手を胸に当て、その唇から、静かに言葉を紡いだ。
「――『星の雫は、闇を裂き、光と共に命を結ぶ』」
その瞬間、空間に柔らかな光が満ちた。
繭の内側に差し込むはずのない陽光が、まるで祝福のように二人を包み込む。
ルシエルとヴァルガの胸の奥に、その言葉が深く、静かに刻まれていく。
「……これは、封印の鍵。でも、開くのではなく――“閉じる”ためのもの。そして……あなたたちを、ここから外へ導くための道標」
セレナーデの身体が、ゆっくりと光に溶け始める。
「セレナーデ……!?」
ルシエルが一歩踏み出そうとするが、彼女はやさしく首を振った。
「大丈夫。これは、私が望んだこと。セレーネ様の“陽光の聖女”としての力を、今だけ――ほんのひとときだけ、借り受けたの」
光が彼女の輪郭を包み、その姿は徐々に透けていく。
「私は……あなたの中で生き続ける。私たちは、光と影。どちらかが欠けても、世界は成り立たない」
その声は、やさしく、あたたかく、けれど揺るぎない決意に満ちていた。
「さあ、行って。あなたたちの光で、世界を照らして」
そして――
セレナーデの姿は、完全に光へと還った。
その瞬間、繭の内側にあった“闇”が裂け、まばゆい光の道が、ルシエルとヴァルガの前に現れる。
「ルシエル……!」
「行こう、叔父上。まだ、間に合う」
二人は、光の道を駆け出した。
その背に、セレナーデの祈りが、静かに、確かに、寄り添っていた。




