第12話 月下の誓い――影刃士と黒髪乙女の守護者
夜半。
エルヴァン伯の別館は、息をひそめたように静まり返っていた。
庭に差す月の光が白い石畳を淡く照らし、水面のようにゆらりと揺れる。
だが――その静寂の奥で、ひとつの影が走った。
黒い風が、夜気を切り裂く。
その瞬間、空気がわずかに歪み、月明かりがかすかにねじれる。
虫の声がぴたりと止まり、夜の森は不自然なほど深い沈黙に包まれた。
風も途絶え、月光だけが冷ややかに屋根を照らしている。
ルシエルは窓辺で、ひそかに息を吸い込む。
金糸のような髪が、夜気にふれた風でわずかに揺れる。
(……この静けさ。生き物の気配が消えている。やはり……来たか)
胸をかすめていた嫌な予感が、ぴたりと形を持つ。
だからこそ、寝支度もせずに警戒していた。その判断は正しかった。
彼は指先で剣の柄に触れ、足音を殺しながら部屋を出る。
月光に照らされる白い廊下を、迷いのない足取りで進んだ。
そして、目的の扉の前に立つと、軽くノックする。
「……ユズハ。起きているか?」
返事はない。
代わりに、中からかすかな「すぅ……すぅ……」という寝息が聞こえた。
ルシエルはほっと表情をゆるめ、静かに扉へ手をかけた。
音を立てないようにそっと、扉が開いていく――。
柚葉は、掛け布団に半分埋もれながら、無防備に眠っていた。
頬にかかった髪がわずかに揺れ、薄い唇がかすかに動く。
「……むにゃ……ルシエル様……あ、だめですそんな近く……距離が、ゼロです……」
「……夢の中でボクと戦ってるのか、君は」
思わず苦笑しつつ、彼は指先でそっと柚葉の肩に触れようと手を伸ばす――その一瞬。
「ひゃああっ!?!? ル、ルシエル様!?!? ど、どうして寝室に――!?!?」
布団をばっ!と持ち上げ防御姿勢。
寝癖全開、頬は真っ赤。
そんな柚葉を前にしても、ルシエルの声音は落ち着いたままだった。
「誤解しないで。君の寝室に無断で入ったのは……理由がある」
「その言い方が一番誤解を生むんですけどっ!?」
「なら、続ける。――外が“静かすぎる”。虫の音も風も止まった。それに……不穏な気配が近づいている」
その一言で、柚葉の表情から一瞬で眠気が消えた。
「……まさか」
「ああ。敵だ。兄上の配下――“あの男”の気配だ」
窓の外を見据えるルシエルの横顔は、柔らかさを残しながらも、研ぎ澄まされた光を帯びていた。
夜の庭は異様なほど静まり返っている。
館の他の部屋からは物音ひとつしない。
「みんな……眠ってる?」
「“眠らされた”んだ。命は奪われていない……まだね」
月光が彼の髪を銀に染め、蒼い瞳が深く光る。あまりの静かな威圧感に、柚葉は息を呑んだ。
「ユズハ、下がって」
「で、でも……!」
「大丈夫。君に指一本触れさせない。それは、ボクが決めたことだ」
その声音は穏やかで、ブレることがなく、揺らぎもない。
抱きしめられたわけでもないのに、不思議な温かさが胸に落ちていく。
「……ルシエル様」
「心配しなくていい。君はただ、信じてくれればいい」
柚葉は布団を抱えたまま、顔が熱くなるのを止められなかった。
――空気が裂けた。
微かな気配だけを残し、天井から“何か”が落ちてくる。
音も風もなく、ただ闇そのものが形を帯びたかのように。
「――来たか」
ルシエルは振り返りもせず、柚葉の肩を抱き寄せて背にかばった。
同時に、銀剣が鞘走る音が部屋の静寂をさく。
刃が放つ光が床を走り、落ちてきた影を真っ二つに断つ――
はずだった。
「へぇ……やっぱ勘がいいな、王子サマ」
月光を割って現れた声は、軽やかで、どこか愉快そうですらある。
「ま、気づくようにわざと“仕掛け”てやったんだ。第一関門くらいは突破してもらわねぇとな?」
闇が人の形を取り、月明かりの下に滑り出る。
薄茶の髪が乱れ、片耳の金のピアスが静かに揺れた。
その男――グレイヴは、影のように立っていた。
「ナイトウォーカー……兄上の影刃士か」
ルシエルの声は静かで、揺らぎがない。
表情は氷のように凛とし、しかしどこか慈悲すら宿している。
「おお? 俺のことをご存知で? さすがは“光の王子”ってやつだ。……第一王子サマ譲りの情報網、健在ってわけだな」
グレイヴは笑いながら、影をまとう刃を引き抜いた。
脈動する黒が、月光を拒むように揺らめく。
“断罪乃影刃”。
その存在だけで、室内の温度が数度下がったように感じられる。
「ま、隠すつもりもねぇし、面白ぇから言っとくけど――俺の目的は“殺し”じゃねぇよ」
刃を肩に担ぎ、ゆるい口調のまま続ける。
「標的は黒髪の娘。ちょいと確かめたいだけだ。なぁに、痛くはしないさ」
柚葉の肩がびくりと震えた瞬間――
「……ユズハには、指一本触れさせない」
ルシエルの声が部屋の空気を凍らせた。
光が彼の周囲で、まるで意志を持つように揺れ動く。静かな怒りが、透明な刃となって室内を満たしていく。
「……はは。光に愛された王子サマかよ。ますます殺し甲斐があるじゃねぇか」
グレイヴの笑みは冷えた闇に沈み――部屋の影が、ゆら、と歪んだ。
次の瞬間、足元の影が波打った。
まるで生き物のように、床に落ちた影がうごめく。
「っ……ユズハ、下がれ!」
ルシエルの声が鋭く部屋を貫く。
次の瞬間――床に落ちていたはずの影が、ぐにゃりと“盛り上がった”。
影が裂ける。
闇が割れる。
そこから“それ”が、静かに、這い出てきた。
獣ではなかった。
魔でもなかった。
生物という枠に一切収まらない。
形を持ちながら、形を失い続ける“在ってはならぬもの”。
何本あるか分からない腕がずるずると床を擦り、黒い泥のような質感の身体から、眼孔なき“眼”がひとつだけ、柚葉を見据えた。
視線が合った、そう“錯覚した”だけで――
胸の奥が、氷に噛まれたように強張る。
空気が震えるのではない。
理そのものが、拒絶の悲鳴を上げた。
その異形は、存在するだけで世界を歪めていた。
「――断罪乃影刃」
グレイヴが呟くと同時に、影が脈動した。
異形の内部から牙のような刃が次々と突き出し、空間を噛み千切るように飛び出す。
刃は風音も立てず、ただ月光だけを喰らいながら迫ってくる。
「やめ――!」
柚葉の叫びが震えた瞬間。
光が揺れた。
柚葉の前に立ったのは、まるで夜を裂く一条の光のような存在だった。
ルシエルが一歩踏み出しただけで、周囲の闇が後退し、部屋の影がたじろぐ。
金の髪が光を吸い、揺らぎ、銀剣が閃き――次の瞬間、“影の牙”が一斉に弾かれた。
音もなく。
ただ美しく、完璧に。
光と闇が激突し、爆ぜた衝撃がつむじ風となって柚葉の頬をかすめる。
空気が千切れ、床に置かれた高価な花瓶や装飾品が次々と吹き飛び、壁へと叩きつけられた。
「おいおい……ッは、ははっ……!」
グレイヴの肩が小刻みに震える。
笑っているのだ。心底、楽しそうに。
「やるじゃねぇか……やっぱ“ただの王子サマ”じゃねぇな。……ああ、いい……本当にいい……!」
口元が裂けるように吊り上がり、目が狂気に濡れる。
「もっとだ。もっと楽しませてくれよ……! 俺の影に抗えるヤツなんざ、この国じゃほんの一握りなんだ……! なぁ、もっと見せてくれよ、光の王子!!」
片手をひらりと振った。
その指先から、黒い霧が噴き上がる。
それは霧であり、毒であり、呪いであり、影の深層から引きずり出された“意志を持つ闇”だった。
床を這い、壁を登り、空間そのものを侵すように広がる。
だが――
ルシエルの剣がそれに触れた瞬間、霧は悲鳴を上げるように弾けた。
淡い光が刃からあふれ、夜気を押し返す。
「退け。殺しはしないと言いながら――迷わずユズハを狙う。そんな君にも、兄上にも……ユズハは絶対に渡さない」
光の王子の声音は静かだ。
静かだからこそ――絶対だった。
刃が走るたび、闇が裂け、空気が震える。
剣筋は一切の乱れがなく、まるで光そのものが意思を持って舞っているかのようだった。
「くっ……くはっ……!」
グレイヴはその光を目にするほど、逆に震えあがっていた。
恐怖ではない。
快楽だ。
強者との戦いだけが彼を満たす、狂気の悦び。
「いい……いいぞ、王子サマ……! やはり、殺し甲斐がある!!」
彼の声はもはや笑いとも叫びとも区別がつかない。
その背で――柚葉の手が震えていた。
(怖い……っ……でも……)
震えは止まらない。
足もすくむ。
それでも。
(……この人を……ひとりで戦わせたく、ない……!)
その瞬間だった。
胸の奥で――何かが、弾けた。




