第116話 光と影が交わる刻、終焉の胎動は始まる
戦場の中心――聖剣を振るうアーシェスと、虚邪の教祖ルーグの激突は、まさに刃と呪詛が交差する極限の攻防だった。
だがその最中、アーシェスの視線が、ふと逸れる。
「……!」
彼の瞳が捉えたのは、左胸を射抜かれ、膝をつく少女――セレナーデの姿。
その顔に、一瞬、見覚えのある面影がよぎる。
(あれは……まさか……)
母――セレーネ。
幼き日に見た、あの微笑み。
しかし、目の前の少女は、明らかに違う。似ている。だが、同じではない。
それでも、心の奥にざわめきが走る。
その動揺を見逃さなかったのは、ルーグだった。
「……どうした、氷の王子。まさか、あの“巫女”に心を乱されたか?」
アーシェスは剣を構え直しながら、睨みつける。
「……お前たちの“巫女”が……倒れたぞ」
その言葉に、ルーグの顔が一瞬だけ強張る。
「……なに……?」
彼の視線が、戦場の端に向けられる。そこには、黒いもやをあふれさせながら崩れ落ちるセレナーデの姿。
「そんな馬鹿な……!“終わらせる者”が……この段階で……!」
だが――
ルーグの顔に、ゆっくりと笑みが戻る。それは、常軌を逸した狂気の笑み。
「くはははっ……そうか、そうか……! これもまた、主の御心……!“器”が壊れたということは――次の段階に進むということだ!」
「……なに……?」
アーシェスの声が、かすれる。
「ばかな……!“巫女”が倒れて、なぜ……!」
ルーグは、両腕を広げ、天を仰ぐ。
「主の復活は、すでに始まっているのだよ、氷の王子。あの娘の崩壊は、封印の“鍵”が外れた証。さあ――次は、“心臓”の目覚めだ!」
その瞬間、祭壇の奥――虚邪の棺が、低く脈動を始めた。
ドクン……ドクン……
それは、まるで“何か”が目を覚まそうとしている音。
アーシェスは、剣を強く握りしめた。
「……まだだ。まだ、終わらせはしない……!」
セレナーデの身体は、地に伏したまま動かない。
左胸を射抜かれたはずのその胸元からは、なおも黒いもやが、じわじわとあふれ出していた。
アウロアは、弓を下ろしながら、その様子をじっと見つめていた。
(……おかしい。あの一矢は、確かに心臓を貫いた。それなのに……なぜ、まだ……)
その瞬間だった。
「ルシエル、下が――!」
アウロアが叫ぶより早く、セレナーデの右胸から、突如として“それ”は放たれた。
黒い光をまとった、槍のような鋭い突起。
まるで光速のごとく、一直線にルシエルの胸を貫いた。
「ぐっ……!」
ルシエルの身体が、のけぞる。
左胸をかすめたそれは、心臓をわずかに逸れたものの、その衝撃は凄まじく、彼の身体を地に叩きつけた。
「ルシエル!!」
アウロアが駆け出し、ドルガンもまた、盾を構えて突進する。
だが――間に合わなかった。
セレナーデの身体が、ルシエルに向かって引き寄せられるように動き、二人の身体が重なり合った瞬間、黒いもやが渦を巻き、彼らを包み込んでいく。
「なっ……!」
アウロアの矢が放たれるが、もやに触れた瞬間、弾かれるように霧散した。
ドルガンの盾も、黒い繭の表面に触れた瞬間、重さを失ったかのように押し返される。
「これは……結界か!? いや、違う……!」
黒いもやは、まるで生き物のようにうねりながら、ルシエルとセレナーデを包み込み、やがて一つの“繭”を形成していく。
その中心で、二人の姿は、ゆっくりと見えなくなっていった。
戦場の向こう――
アーシェスの蒼銀の瞳が、黒い繭に包まれていくルシエルとセレナーデの姿を捉えた。
その瞬間、彼の心に冷たい衝撃が走る。
だが、彼は叫ばない。ただ、剣を構えたまま、静かにその場に立ち尽くしていた。
(……何が起きた? あの黒い繭は……)
思考は止まらない。
感情の波が押し寄せる中でも、彼の理性は、必死に情報を整理しようとしていた。
(セレナーデ――あの少女は、虚邪の巫女。だが、ルシエルと共鳴した……? いや、それだけではない。あれは……)
眉ひとつ動かさず、だがその内側では、氷のような思考が激しく渦巻いていた。
「……ルシエル……」
低く、誰にも聞こえぬほどの声で、その名を呟いた。
その隣で、ルーグが狂ったように笑い出す。
「くはははっ……! 始まる……! ついに、始まるぞ……!“光”と“影”が交わり、主の胎動が完全となる……!」
アーシェスは、ちらりとルーグに視線を向けた。
その瞳には、怒りも焦りもない。ただ、深く冷たい静謐が宿っていた。
「……貴様の“シナリオ”とやら、本当に最後まで演じきれると思っているのか?」
その声は、氷の刃のように鋭く、静かだった。
だが、繭はすでに完成し、その表面には禍々しい紋様が浮かび上がっていた。
それは、虚邪の神が目覚める“胎”――新たなる終焉の器。
そして、静寂が戦場を包み込んだ。
黒の繭が完成した瞬間――戦場の空気が、さらに重く、濁った。
その中心、虚邪の祭壇に横たわる棺の中。
封印された大聖女リディアーヌの胸を貫く、漆黒の杭――《アバドン・スパイク》が、黒の繭に繋がるように大きく脈動を始めた。
ドクン……ドクン……ドクンッ!
杭が脈動するたびに、リディアーヌの身体がわずかに震え、やがて棺ごと、ふわりと宙に浮かび上がる。
「……!」
アーシェスの瞳が、わずかに見開かれる。
黒の繭が、まるで呼応するようにうねり、そのままリディアーヌごと、棺を取り込もうと、うごめき始めた。
(……間に合わない)
その瞬間、アーシェスは動いた。
冷静さも、冷酷さも、“氷の王子”という仮面さえも脱ぎ捨てて――ただ、リディアーヌを救うという一心で。
彼は駆け、跳躍し、黒の繭の縁を踏み越えて、宙に浮かぶ棺へと手を伸ばす。
「……っ!」
その勢いのまま《アバドン・スパイク》を、素手で掴んだ瞬間――全身を貫く、凍てつくような寒気。
骨の髄まで凍りつくような、おぞましい感覚。それは、ただの冷たさではない。命を、魂を、存在そのものを喰らう“虚無”の感触だった。
(奪われる……このままでは……)
だが、アーシェスは手を離さなかった。
全身の魔力を、意志を、魂を込めて――杭を、引き抜く。
「……ぬ、ぅぅぅぅ……!」
その瞬間――
リディアーヌの目ぶたが、かすかに震え、閉ざされていた瞳が、わずかに開かれた。
「……アー……シェ……ス……?」
その声は、風のように儚く、それでも確かに、彼の名を呼んでいた。
アーシェスの瞳が、驚きと安堵に揺れる。
だが――
「……忠実にシナリオ通り動いてくれて、感謝するよ、“氷の王子”」
背後から、冷ややかで、どこか愉悦を含んだ声が響いた。
「おかげで、我らが主に捧げるにふさわしい――純粋なるヴァルハイト王家の尊き血を、こうして手に入れることができた」
振り返る間もなく、鋭く黒光りする刃が、アーシェスの背を貫いた。
「……っ!」
鮮血が、空中に舞う。
その赤が、引き抜かれかけた《アバドン・スパイク》に飛び散り、黒き杭の表面を、鮮やかに染め上げた。
「くはははっ……! 見よ、主よ……“鍵”は開かれ、血は捧げられた……今こそ、目覚めの時だ……!」
ルーグの狂気に満ちた声が、戦場に響き渡る。
アーシェスは、貫かれたままの身体で、それでもなお、リディアーヌを抱きしめる腕を緩めなかった。
その抱擁は、冷静でも、理性でもない。
ただ、目の前のこの人を――この命を、絶対に離したくないという、剥き出しの情熱だった。
「……まだ……終わっていない……」
血に濡れた唇から、かすれた声がこぼれる。
その瞳には、なおも消えぬ光が宿っていた。
それは、氷の奥に秘められていた――誰よりも強く、誰よりも優しい、“守りたい”という意志の輝きだった。




