第115話 英雄が撃ち、王子が迷う――偽りの母との邂逅
戦場の一角――虚邪の穢れをまとう夜葬の巫女と、王国の誇る六花の金獅子、アウロアが激しくぶつかり合っていた。
アウロアの放つ矢は、風を裂き、その一射ごとに空間を震わせる。対するセレナーデは、虚邪の加護によって形成された絶対防御に身をつつみ、その身を霧のように揺らしながら、矢を受け流していた。
「……その顔で、セレーネ様を穢すな……!」
アウロアの声には、怒りがにじみ出ていた。その金の瞳が、セレナーデを射抜くように睨みつける。
この少女の容貌が、かつての仲間、セレーネに酷似していることを。
だが、目の前の存在は“彼女”ではない。
虚邪によって造られた、偽りの器。穢れを宿し、終焉をもたらすために生まれた影。
「お前の存在そのものが、侮辱だ……!」
アウロアが矢を番え、魔力を込める。その矢は、空気を震わせるほどの力を帯びていた。
そこに……戦場の只中に、転移の光が走った。
「……!」
アウロアもセレナーデも、一瞬だけ動きを止める。
光の中から現れたのは、柚葉、ルシエル、そしてアンバーリーフ。
ルシエルは、まだ完全に意識を取り戻していなかったが、柚葉を守るように立ち上がり、状況を確認するため周りを見渡した。
そして――セレナーデの姿を見た瞬間、その瞳が大きく見開かれた。
「……母上……!?」
その声は、震えていた。そして、その声は――届いてしまった。
セレナーデの動きが止まり、その瞳が、ルシエルを捉える。
「……ル……シエ……ル……?」
その名を、彼女は知らないはずだった。
しかし、魂の奥底に刻まれた“何か”が、彼の存在に激しく反応していた。
彼女の中で、何かが軋んだ。
奪われ、削られ、終焉を与えられるためだけに生まれた存在――セレナーデ・モルテフォール。
その虚無の中に、初めて“揺らぎ”が生まれた。
そして、その一瞬の隙を――アウロアは見逃さなかった。
「……これで、終わりよ」
放たれた矢は、光の尾を引きながら、迷いなくセレナーデの左胸を貫いた。
「……っ!」
絶対防御は、彼女の動揺とともに霧散していた。
矢は深く突き刺さり、血が舞う。
セレナーデの身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
その瞳は、なおもルシエルを見つめたまま――何かを言いかけるように、唇を震わせていた。
「……母上……!」
その声が漏れた瞬間、ルシエルの中で何かが切れた。
目の前で倒れた少女――その顔は、彼の記憶にある“母”の面影を、あまりにも色濃く映していた。
そして、その胸を射抜いたのは――ルシエルの目には、はっきりと映っていた。
白銀の髪に金の瞳。風と光をまとい、弓を構えるその姿。
「……あれは……六花の金獅子……?」
かつて父レオハートの語る戦の記憶、そして吟遊詩人たちの歌に登場した伝説の名。
精霊魔術と弓を操る、ハイエルフの戦姫――アウロア。
その名を、ルシエルは知っていた。そして憧れに近い敬意すら抱いていた存在。
だが――その“英雄”が、なぜ、母の面影を持つ少女を、射抜いたのか。
「なぜ……撃った……!」
怒りと混乱が、理性を押し流す。
ルシエルは、震える手で剣を抜いた。まだ身体は万全ではない。だが、心が叫んでいた。
「答えろ……アウロア……!」
アウロアは、矢を番えたまま、ルシエルをまっすぐに見つめ返す。
その瞳に、迷いはなかった。しかし、言葉を発する前に――
「やめろ、坊主!」
鋼のような声が、戦場に響いた。
ルシエルの前に、分厚い盾が突如として立ちはだかる。
その盾の主は、戦場の別方向から駆けつけてきた重盾戦士――ドルガンだった。
彼の鎧には、つい先ほどまで斃してきた虚邪の下僕たちの返り血が飛び散り、その巨躯とともに、まるで戦場そのものを背負ってきたかのような威圧感を放っていた。
「レオハートの末っ子……はき違えるなよ」
その声には、怒気と同時に、若者を諭すような重みがあった。
「射抜かれた奴は“敵”だ。お前が何を見たかは知らん。だがな――あれは、虚邪の穢れの戦士だ。あのまま放っておけば、誰が死んでいたかわからん」
ルシエルは、剣を握る手に力を込めたまま、ドルガンの盾越しに、アウロアを睨みつける。
「……でも、あの顔は……!」
「顔で戦場は測れん。お前も、あいつの息子なら――冷静になれ!」
“あいつ”――レオハート。
王にして、ルシエルの父。そして、ドルガンにとっては、かつて共に戦場を駆けたかけがえのない仲間。
その名を出された瞬間、ルシエルの動きが止まった。
剣を握る手が、わずかに震える。
怒りと困惑、そして悲しみが入り混じる中で、彼はようやく、戦場の全体を見渡す余裕を取り戻し始めていた。
そのとき――倒れたセレナーデの瞳が、再びわずかに開かれた。
彼女の視線は、まっすぐにルシエルを捉えていた。
「……あな……た……」
かすれた声が、空気を震わせる。
その一言が、再びルシエルの心を締めつけた。
ルシエルの声は、震えていた。
目の前で倒れゆく少女の姿に、現実が追いつかない。ただ“母上”と呼ぶことしかできなかった。
だが――その口から出た名に、彼自身が戸惑う。
(母上……? 違う。この人は……いったい……誰だ?)
似すぎていた。けれど、確信はなかった。
名前も解らない。
それでも、心が叫んでいた。
セレナーデの身体が、地に膝をつく。
左胸に突き刺さった矢の根元から、血ではなく、黒く淀んだ“もや”が静かにあふれ出していた。
それは煙のように揺らめきながら、空気に溶けることなく、じわじわと広がっていく。まるで、彼女の内に巣食う“何か”が、矢の傷口から漏れ出しているかのように。
それには気を止めることもなく、彼女の瞳はなおもルシエルを見つめていた。
その瞳に宿るのは、怒りでも憎しみでもない。ただ、戸惑いと――どこか懐かしさに似た、響き。
「……なぜ……あなたの顔を……知っているの……?」
かすれた声が、唇からこぼれるが、彼女自身にもわからない問いだった。
ルシエルは、ふらつきながらも彼女に近づく。
「あなたは……誰なんだ……? どうして……母上と、同じ顔をしている……?」
セレナーデは答えない。
答えられない。
彼女の中にある記憶は、断片でしかなく、それでも、ルシエルの声が、姿が、心の奥の“空白”を満たしていくのを感じていた。
「わたしは……“終わらせる者”……そう言われて、生まれてきた……でも……あなたを見たら……」
彼女の声が、震える。
その手が、無意識に宙を彷徨い、まるで何かを探すように、空を掴もうとする。
「この胸が……きしむの……」
その言葉に、ルシエルの瞳が揺れる。
「……母上……じゃない……でも……あなたは……」
彼の言葉もまた、途切れた。心が、魂が、答えを探していた。
そのとき――アウロアが、静かに弓を下ろした。
彼女の表情には、怒りと困惑、そしてわずかな哀しみが混じっていた。
「ルシエル……彼女は、あなたの“母”ではない。だが……あなたの“影”かもしれない」
その言葉が、戦場に落ちたとき――虚邪の心臓が、再び脈動を始めた。
ドクン……ドクン……
それは、まるで二人の魂の共鳴に呼応するかのように。




