第114話 聖機の影が戦場を覆うとき、神話は再び動き出す
柚葉とルシエル、そして――慈光院の地下に封印されていた、脈動する“何か”。
虚邪の神の心臓。
それらすべてが、転移術式の渦の中心に呑み込まれていく。
空間が軋み、光と闇がねじれ、世界の理が一瞬だけ、書き換えられた。
そのとき――
アンバーリーフは、迷わなかった。
柚葉とルシエルの気配が、その渦の中で急速に遠ざかっていくのを感じた瞬間、彼はただ一度、尾を振るだけで、その身を渦の中へと投じた。
誰にも気づかれぬように。
誰にも止められぬように。
それは、命を賭してでも守りたいと願った、“魂の真名”で結ばれた者たちへの、静かな誓いだった。
そして――
柚葉、ルシエル、アンバーリーフ、そして虚邪の神の心臓は、禍々しい閃光とともに、跡形もなく消え去った。
そして――転移が終わる。
三人の身体が、重力のない空間から、一気に“現実”へと引き戻される。
そこは、大神殿の地下。
神々の時代に封じられた、虚邪の本体が眠る、中枢祭壇の最深部。
空気は重く、冷たく、それでいて、どこか“生きている”ような気配をふくんでいた。
巨大な石柱が並ぶ空間の中心――そこに、黒く重々しい“棺”が鎮座していた。
それは、リディアーヌが封じられた呪われた棺。
その内部に打ち込まれた神の楔が、まるで心臓のように、静かに、しかし確かに脈動を刻んでいた。
ドクン……ドクン……トクーン
それは、まだ“目覚め”ではない。
だが、確かに何かを待ち望むような、喜びに似た律動が、棺の内側から響いていた。
そして――
その空間のすぐ傍に、転移の光とともに現れたのは、柚葉、ルシエル、そしてアンバーリーフ。
柚葉は、地に伏したまま動けず、ルシエルもまた、膝をついて肩で息をしている。
魂の真名で結ばれた二人は、今なお互いの存在を確かめ合うように、微かに呼吸を重ねていた。
アンバーリーフだけが、静かに立ち上がる。
その金の尾が、二人の身体にそっと触れ、魂の絆を確かめるように揺れていた。
そのとき――
ドクン……ドクン……ドクン……
棺の中のアバドン・スパイクの鼓動が、突如として、わずかに速まった。
それは、転移によってこの空間に運ばれた“虚邪の神の心臓”――
未だ沈黙を保つその本体が、すぐ近くに存在していることを、アバドンが“感じ取った”からだった。
まだ心臓本体は脈動していない。
しかし、棺の中のアバドンは、その存在の気配に歓喜し、まるで呼応するように、脈動のリズムを合わせ始める。
ドクン……ドクン……ドクン……
それは、静かなる共鳴。目覚めの前の、深い深い呼吸。
『……ここが、終わりの始まりの……地』
アンバーリーフの声なき声が、空間に響いた気がした。
その瞬間――
戦場が、揺れた。
大神殿地下・中枢祭壇。
虚邪教団と王国の守護者たちの激突が続くこの地に、突如として、転移の光が走った。
その光の中心から現れたのは、地に伏した柚葉。膝をつき、肩で息をするルシエル。そして、二人を守るように立つ神獣アンバーリーフ。
「……ユズハ……!? ルシエル……!」
最初に気づいたのは、アーシェスだった。
彼は教団教祖ルーグと刃を交えながら、その光に目を奪われ、思わず声を上げる。
「なぜ、ここに……!」
だが、ルーグは嗤うように口角を吊り上げ、その隙を突いて、呪詛の刃を放ってくる。
「油断したな、“氷の王子”よ。その者たちは、我が主の胎動を導く“鍵”だ。ようやく、すべてが揃ったのだ……!」
「黙れッ!!」
アーシェスが咆哮とともに剣を振るい、ルーグの攻撃を弾き返す。
一方、ガルディウスは、闇に堕ちた叔父にあたる――ヴァルガとお互いの魔剣で激しく斬り結んでいた。
「……あれは……ルシエルとユズハ!? なぜここに……!」
「見ろ、ガルディウス。お前が守ろうとした光は、今まさに、闇の中心に堕ちようとしている……!」
ヴァルガの声は、人の温もりを失い、冷たい嘲笑に満ちていた。
しかし、その瞳の奥に一瞬だけ、拭いきれぬ“何か”が揺れた。
「……ふん、仲の良い兄弟愛だな。まるで、昔のお前たちの父と俺を見ているようだ……」
その言葉には、嘲るような響きと、どこか遠い記憶をなぞるような、かすかな羨望がにじんでいた。
だが、ガルディウスは一歩も引かない。剣を振るうその腕に、迷いはなかった。
「黙れ……! まだ、終わってなどいない!」
その声は、怒りではなく、確信に満ちていた。
「ルシエルがついている……! あいつは、簡単に折れねぇよ。オレの自慢の弟だ……あいつには、守りたい“誰か”がいる。だから、あいつは強い。誰よりも、ずっとな」
魔剣がぶつかり合い、火花が散る。
そのたびに、ガルディウスの瞳は、より強く、より深く、信頼の光を宿していく。
「ルシエルは、もう“ただの弟”じゃねぇ。あいつは――“光の王子”だ。ユズハを守るためなら、どんな闇だって、あいつは絶対に屈しねぇ!」
その言葉に、ヴァルガの表情がわずかに歪む。
それは怒りか、嫉妬か、それとも――かつて自分も信じた“兄”という存在への、届かぬ想いか。
「……くだらん。兄弟など、信じたところで結局は裏切られるだけだ……!」
「それは、お前が勝手に信じるのをやめたんだろ!」
ガルディウスの一閃が、ヴァルガの刃を弾き飛ばす。
その一撃には、弟を信じる兄としての、揺るぎない誇りと怒りが込められていた。
そして――
戦場の一角。
大賢者オーヴェルスは、灰の賢者カディスと対峙していた。
だが、転移の術式を阻止しようとしていた彼の詠唱は、突如として割り込んできた教団戦闘員たちによって、無理やり中断させられていた。
「くっ……このタイミングで……!」
オーヴェルスは、白銀の刺繍が施された光の法衣を翻しながら、長杖を高く掲げ、襲いかかる教団戦闘員たちを光の奔流で薙ぎ払った。
その動きは老練にして正確、長年の修練がにじむ魔術の光が、空中に淡い軌跡を描いていた。
そして鋭い眼差しは、戦場の一角――転移の痕跡が残る空間に注がれていた。
「……呪われし神の心臓……その本体が、ここに……? まさか……カディスの転移魔術を糧に聖機が、この座標を開いたというのか……?」
老いた声が、かすかに震える。
それは驚愕と、長年の信念が揺らぐことへの、深い動揺だった。
「いや……違う。あれは……“聖”と呼ぶには、あまりに……」
言葉が続かない。
喉元まで出かかった真実を、オーヴェルスは自らの理性で押しとどめた。
“あれ”に対する違和感は、かつて一度だけ感じたことがある。
しかし、その記憶は封じられ、語ることすら許されぬ“光の禁忌”だった。
「……わしとしたことが……転移を防げなかったばかりに……!」
その声には、老賢者、そして光の大家ルミナリア家の長老としての責任と、一瞬の隙を突かれたことへの深い悔恨がにじんでいた。
しかし、もはや転移は完了していた。
柚葉たちは、虚邪の心臓が眠るこの地に、最悪のタイミングで現れてしまったのだ。
そして、聖機――その“本質”が、静かに、しかし確実に、この場に影を落とし始めていた。
そして、棺の中――アバドン・スパイクの脈動は、その“喜び”を隠そうともせず、静かに、しかし確実に、心臓本体と共鳴を始めていた。
ドクン……ドクン……ドクン……トクーン
それは、目覚めの前奏。
世界が、再び呪いに染まる、その序章だった。




