第113話(後パート) 勝利の頁が閉じ、災厄の章が開く、その先に待つ中枢祭壇
影は、静かに、しかし確実に、二人を“何か”の中心へと引きずり込もうとしていた。
『……はは……はははっ』
どこからともなく、乾いた笑い声が響いた。
それは音というより、空間そのものに染み込む“歪み”のようだった。
『やはり……やはりだ。星雫の聖女――その器は、想像を遥かに超えて美しい“鍵”だった。そして……聖女に非ずとも、光を宿すその御子。その存在こそが、我が主の復活を確定させる“最後の門”となる』
声の主は、虚邪の教祖――ルーグ。
姿は見えない。だが、その声には、長年積み重ねられた狂信と、常軌を逸した執念が、ねっとりと絡みついていた。
それは信仰ではない。もはや“祈り”の形をした呪詛。
歪んだ願いが、時を超えて熟成し、今まさに、実を結ぼうとしている。
『安心するといい。君たちを“壊す”つもりはない。――ただ、“使わせてもらう”だけだ。その魂も、血も、記憶すらも……我が主の目覚めのために』
「やめ……!」
柚葉が声を上げようとした、その刹那。
ドクン――!
不気味な鼓動が、空間を貫いた。
それはまるで、拒絶の声をかき消すように、すべてを“主のための器”へと塗り替えていくかのようだった。
その拍動に呼応するように――別の詠唱が、空間に重ねられる。
それは低く、冷静で、感情の欠片すら感じさせない声。
だが、その一語一語が、世界の根幹を揺るがすほどの“重み”を持っていた。
『――《法典詠唱・コーデクス・アーキタイプ》』
灰の賢者、カディス。
彼が紡ぐのは、魔導の原初を記すとされる禁書の詠唱。“世界の法則”そのものを一時的に再定義し、あらゆる魔導現象を支配下に置く、究極の知性型魔法。
その声が、静かに、しかし確実に世界を塗り替えていく。
『起動コード:アーキタイプ・ゼロ。理論構築、次元干渉、因果操作、座標固定――全系統魔導演算、並列起動。我、万象の書架にして、理の管理者なり』
空間に、逆位相封印から浮かび上がった文字列が現れる。
それはただの光ではない。
“言葉”そのものが物理法則を侵食し、現実を書き換えていく。
『対象指定――邪神の心臓、ならびに捕縛対象二名。座標確定――大神殿地下・中枢祭壇。転位術式、強制展開。――汝らの存在、我が定義に従え』
詠唱が終わると同時に、空間が悲鳴を上げた。
光と闇が渦を巻き、重力がねじれ、時間すらも一瞬、軋むように止まる。
そして――
柚葉とルシエル、そして脈動する“何か”は、その渦の中心に呑み込まれ、一閃の閃光とともに、跡形もなく消え去った。
それはまるで、“世界”そのものが彼らを別の頁へと書き換えたかのようだった。
「……っ!!」
ニャルディアが、地面を蹴った。その動きは、反射というより本能だった。
「待つにゃ!! 今の……あれは……!」
だが、彼女が駆け寄った先には、もう何もなかった。ただ、空間の歪みが残した微かな残響と、消えた光の名残が、虚しく揺れているだけ。
「……クソ……完全に、裏をかかれた……」
ブレンナが拳を握りしめ、唇を噛む。
その手は震えていた。怒りか、悔しさか、それとも――無力感か。
「拙者の……不覚……!」
ヒジカタが、刀を鞘に収めることも忘れたまま、歯を食いしばり、ただその場に立ち尽くす。
あの刀を手にしてなお、守れなかったという現実が、胸の奥を静かに蝕んでいた。
リリアも、珍しく言葉を失っていた。
唇が何かを紡ごうとして、けれど声にならない。その瞳は、ただ呆然と、今はなにもない空間を見つめていた。
「……そんな……タイミング、完璧すぎ……」
誰もが、理解していた。
“終わった”と思ったその瞬間こそが、最も危ういということを。
それでも――あまりにも自然に訪れた静寂に、誰もが一瞬、気を緩めてしまっていた。
静まり返った慈光院。
祝福の余韻が残るはずだったその場所に、今はただ、ぽっかりと空いた“喪失”だけが残されていた。
助けたはずの場所に――一番大切な二人の姿が、どこにもなかった。
そのとき――
ニャルディアが、はっと顔を上げた。耳がぴくりと動き、瞳が鋭く細められる。
「……待って。アンバーリーフは……どこにゃ?」
その問いに、場の空気が一瞬、凍りつく。
沈黙……誰もが、無意識に周囲を見回す。
「……確かに、姿がない」
ブレンナが低く呟きながら、視線を巡らせる。その声には、焦りよりも、何かを悟ったような静けさがあった。
「先ほどまで、思念は確かに感じていたのに……」
リリアが目を細め、眉を寄せる。そのまま、ゆっくりと口を開いた。
「……もしかして――」
その言葉の続きを、誰もが口にしなかった。
だが、全員が理解していた。
あえて。気づかれないように。誰にも告げず、ただ静かに――柚葉とルシエルに、ついていったのではないか、と。
ニャルディアが、ふっと小さく笑った。その笑みは、どこか誇らしげで、少しだけ寂しげだった。
「……あの神獣なら、やりかねないにゃ。誰よりも静かで、誰よりも強い……そんな子だにゃ」
「無茶だが……希望でもある」
ヒジカタが、静かに頷く。その眼差しには、確かな信頼が宿っていた。
ブレンナは、深く息を吸い込むと、まっすぐに前を見据えた。
「なら、やることは一つ。リーフが繋いだ希望を、無駄にはしないぜェ!」
その言葉に、誰もが頷いた。
――そのときだった。
空間が微かに揺れ、風が逆巻く。
次の瞬間、黒衣の影が音もなく現れる。
「……遅れて、すまん」
虚邪の穢れの洞窟に、ただ一人残されていたはずの男――リュウゲツが、静かに姿を現した。
その衣には、深い裂傷と煤の痕が残っていたが、その瞳は、迷いなく前を見据えていた。
「決戦の地は、大神殿地下・中枢祭壇。あの方たちはそこへ転位された。……急がねば、間に合わん」
その言葉に、場の空気が一気に引き締まる。
「……やっぱり、そう来るか」
ブレンナが低く呟き、拳を握る。
「なら、行くしかないにゃ」
ニャルディアが、耳をぴんと立てて頷く。
「拙者も、今度こそ……守り抜く所存!」
ヒジカタが刀の柄に手を添え、静かに気を高める。
そして――リリアが、そっと一歩前に出た。
その瞳には、揺るぎない光と、その手には、煌めく魔導の紋章。
「……みんな、ちょっと目、閉じてて」
「え?」
「いいからっ!」
リリアが両手を広げた瞬間、周囲に無数の魔法陣が展開される。
それはまるで、花が咲き誇るように美しく、同時に、戦場を照らす祝福の光でもあった。
「――《リリア・スペシャル・バフ・フルブースト・エンジェリック・モード》、発動っ!」
光が弾ける。
その輝きは、仲間たちの身体を包み、疲労を癒し、力を満たし、心を奮い立たせる。
「さあ、行こう。私たちの仲間を、取り戻しに!」
その声に、誰もが頷いた。
遠く――見えない場所で、邪神の心臓はなおも脈動を続けている。
そしてその中心に、捕らわれた聖女と、守護する光の王子がいた。
だが今、彼らを救うための光が、確かに動き出した。




