第113話(前パート) 勝利の頁が閉じ、災厄の章が開く、その先に待つ中枢祭壇
子どもたちの泣き声。シスターたちが捧げる、安堵と感謝の祈り。仲間たちの笑顔と、静かな息づかい。
それは、戦いの果てに手にした、かけがえのない今だった。
柚葉は、そっと空を見上げる。
空はすでに澄み渡り、雲ひとつない蒼穹に、二つの太陽が高く昇っていた。
その光は、慈光院の瓦屋根を照らし、戦いの痕跡すら、やさしく包み込んでいく。
戦いの終わりと、新たな一日の始まりを告げていた。
柚葉は、まぶしそうに目を細めながら、その光を、まっすぐに見つめた。
彼女にとっての“希望”の形で、いまはそれで、十分だった。
戦場に満ちていた聖気が、ゆっくりと薄れていく。
空気は澄み、光の粒子が舞いながら静かに消えていく。その背後では、仲間たちが次々と武装を解いていた。
蒸気が抜け、魔力の輝きが収まり、戦闘の装いが一つ、また一つと静かに解かれていくたびに――そこには、確かに“日常”の気配が戻り始めていた。
リリア以外の仲間たちも、神装、魔装、甲冑――それぞれの装備が、まるで役目を終えたことを悟ったかのように、静かに、そして穏やかに霧散していく。
その光景を見届けながら、柚葉は小さく息を吐いた。
「……ふぅ……」
その吐息には、安堵と疲労、そして祝福の名残があふれていた。
だが――その中で、ただ一つだけ、消えなかったものがある。
ヒジカタの手に残された、二振りの刀。
それは、もともと彼女が装備していた“刀もどき”の剣――質量はあれど、刃は鈍く、まるで未完成の模型のような代物だった。
だが、柚葉が“再現”し、模型神の加護によって再構築されたことで、それはまるで名のある刀匠が鍛えたかのような、本物の魂を宿す日本刀へと生まれ変わった。
そして今――
他の神装や魔装が静かに霧散していく中で、その二振りだけは、まるで“残るべきもの”として、確かな存在感をもってヒジカタの手に残っていた。
ヒジカタは、静かにその一本を抜き、朝の陽光にかざして、うっとりと見つめていた。
「……この刃文……この重み……ああ……尊い……」
その表情は、戦場を駆け抜けた令嬢とは思えぬほど恍惚で、まるで恋する乙女のような陶酔すら漂わせていた。
その隣で、地雷系コスのまま、引きつった笑みを浮かべながら許嫁のリリアがじっと見つめている。
「……ヒジカタ……? 凛とした侍とは……?」
その声に、ヒジカタは一瞬だけ我に返るも、すぐにまた刀に視線を戻し、うっとりと頷いた。
「なればこそ……これこそ、侍魂の結晶にござる……」
「……はぁ……」
リリアのため息が、風に溶けていく。
そんな二人のやりとりを、柚葉は遠くからぼんやりと眺めていた。
蓄積した疲労で、意識が霞みかけているというのに――その光景には、思わず口元が緩む。
「……ふふ……なんか、平和って感じ……」
そう呟いた直後、柚葉の膝がふらりと崩れかけた。
その瞬間――
「ユズハっ!」
駆け寄ったルシエルが、慌てて、けれど限りなく優しく、その身体をしっかりと受け止めた。
まるで、壊れものを抱くように。それを、羽根で包むように。
柚葉の意識は、静かに闇へと沈んでいく。けれどその表情には、確かな安堵と、ほんの少しの笑みが残っていた。
ルシエルの神装もまた、背中の光翼をゆっくりと畳み、その輪郭を粒子へと変えながら、静かに空へと還っていく。
ようやく訪れた静寂。戻ってきた平穏。
――だが、その安堵は、ほんの一瞬だった。
慈光院の地下深くから、不気味な“鼓動”が前ぶれもなく響く。
それは、まるで何かが目覚める前の、心臓の音のように――
ドクン――ドクン――トクーン。
空気が、微かに震えた。まるで、見えない波紋が空間そのものを揺らしているかのように。
慈光院――聖域であるはずのこの場所に、異質な“鼓動”が、じわじわと染み出してくる。
それは音ではなく、感覚だった。
皮膚の下を這うような、心臓の奥を掴まれるような、本能が拒絶する、禍々しい気配。
「……なに、これ……?」
柚葉の唇から、かすれた声が漏れる。
意識の縁を彷徨っていた彼女の感覚が、その異様な気配に引き戻される。
顔は青ざめ、胸元を押さえる手が震える。呼吸は浅く、喉がうまく動かない。
それでも、彼女は確かに“何か”を感じ取っていた。
空気が、重い。まるで、地の底から這い上がる“何か”が、この世界に触れようとしているかのように。
その瞬間、ルシエルが音もなく動いた。
柚葉の前へと身を滑らせ、その身体をそっと抱き寄せるようにかばう。
「ユズハ、下がって。……これは、まだ終わっていない」
その声は静かだった。
だが、その奥には確かな警戒と、何があっても柚葉を守るという、揺るぎない意志が込められていた。
柚葉は、ルシエルの背中越しに、空間の奥――闇の底から響く“それ”を見つめる。
「……これは……」
言葉が、そこで途切れた。
遅かった。
地面に刻まれていた古代の封印紋が、ゆっくりと、しかし確実に“裏返って”いく。
それは、守るための術式ではなかった。
むしろ――
起動するための、逆位相封印。
静かに、だが抗いようもなく、地下の最奥に眠っていた“それ”が目を覚ます。
神々によって封じられた、名もなき存在。
その正体は、邪神の心臓。姿なきまま、音と呪いだけで世界を侵す、災厄の核。
ドクン――!
空間が脈打つように震え、次の拍動と同時に、柚葉とルシエルの足元から、黒い鎖状の影がぬるりと這い上がった。
「え……?」
柚葉の声が、かすれた。
「ユズハッ!」
ルシエルが即座に反応するも、影はまるで意思を持つかのように、二人の身体を絡め取っていく。
冷たい。
重い。
そして、禍々しいほどに“確信的”な動き。
聖女の祝福を使い切った直後――神装が完全に解除された、最も無防備な瞬間を狙い澄ましたかのように。
まるで、すべてを見透かしていたかのような、完璧なタイミングだった。




