第108話 苦悩こそが糧、虚邪の教祖が微笑む聖域の崩壊
「……シスター、さん……?」
柚葉が、震える声で呼びかける。だが、返事はなかった。
彼女たちの瞳は、虚ろで焦点は合わず、まるで“内側の何か”だけを見つめているようだった。
口元が、ゆっくりと動く。
「……あ……ああ……」
その声は、かすれていた。だが、確かに聞こえた。
「……捧げ、もの邪な……神に……祝福を……」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
まるで、遠いどこかにいる“何か”へと捧げる、儀式の一節。その背後に、見えざる“悪意”の存在が、じわじわとにじみ出ていた。
空気が、再び重くなる。
希望の光が差し込んだはずの戦場に、新たな絶望の影が、静かに忍び寄っていた。
その瞬間――
「ッ、止めろ!!」
ヒジカタが、即座に踏み出した。その眼は、すでに“最悪の未来”を見据えていた。
だが――
間に合わない。
巨人の胸元。露出した“核”が、不気味な音を立てて開き始める。
それはまるで、口。いや、“神の胎”とでも呼ぶべき、異形の器官だった。
「くっ……!」
ヒジカタが刀を抜こうとする。
だが、空間が歪む。瘴気が渦を巻き、彼の足元を絡め取るように揺らめいた。
アンバーリーフの光が、強く脈動する。その輝きが、警鐘のように戦場を照らす。
――危険だ。近づくな。
――だめ……干渉できない……!
その思念が、鋭く響いた瞬間――
「やめろッ!!」
ブレンナが叫び、ハンマーを振り上げる。
ニャルディアも、傷を押さえながら跳び出そうとする。
だが、彼女らの動きよりも早く――
シスターたちが、まるで糸に引かれるように、虚ろな瞳のまま、ゆっくりと歩み出した。
その腕に抱かれた子どもたちは、まだ意識を取り戻していない。まるで夢の中にいるかのように、ぐったりとしたまま。
「やめて……お願い、やめて……!」
柚葉が叫ぶ。
だが、シスターたちの足は止まらない。
そして――
巨人の“核”が、完全に開いた。
禍々しい瘴気が渦を巻き、その中心に、黒い虚無のような空洞が口を開ける。
シスターたちは、まるで祝福を捧げるように、子どもたちを抱いたまま、その中へと―― 虚邪の巨人の胸へと、呑み込まれていった。
「――――ッ!!!」
柚葉の喉から、言葉にならない悲鳴が漏れる。
ルシエルが駆け寄ろうとするが、瘴気の壁がそれを阻む。
巨人の身体が、再び膨張を始める。
瘴気の表面に、子どもたちとシスターたちの輪郭が、まるで“刻印”のように浮かび上がった。
助けを求める小さな手。
恐怖に歪む顔。
そして、動かぬ唇。
――生きている。
確かに、まだ。だが、その命は、今まさに“神の器”の一部へと変貌しようとしていた。
「……盾に、しやがった……!」
ブレンナが、奥歯を噛みしめながら呻く。その拳は震えていた。怒りか、悔しさか、それとも――無力感か。
「攻撃したら……中のガキやシスターまで……!」
ニャルディアの耳が伏せられ、尻尾がぴたりと止まる。その瞳に宿るのは、焦りと絶望。
「……そんなの……斬れるわけないにゃ……!」
彼女の声は、かすれていた。普段の軽口も、戦場の冗談も、今はどこにもなかった。
その場に、重苦しい沈黙が落ちる。
有効な一撃は、存在しない。強く斬れば、子どもが死ぬ。弱めれば、巨人は倒れない。それは魔法も同じ。
――完璧な罠。
それは、戦術ではなく“悪意”そのものだった。
そのとき。
どこからともなく、嗤う声が、空間に染み込んだ。
『ふふ……実に、美しい』
それは音ではなかった。だが、確かに全員の意識に、直接“染み込んだ”。
『守る者ほど、壊れやすい。命を盾にされてなお剣を振れるなら――それはもう、英雄ではない。ただの殺戮者だ』
その声は、甘く、冷たく、そして狂っていた。まるで慈しむように、破滅を語る。
『安心しろ。子どもやシスターたちは“まだ”生きている。だが、決断が遅れれば……どうなるかは、想像に任せよう』
声の主――虚邪の教祖、ルーグ。
その存在は、姿を見せずとも、空間そのものに“染み込んで”いた。
『さあ、どうする? 光の英雄たちよ。その手に握るのは、救いか、破滅か。選べ。選び続けろ。その苦悩こそが、我らが主の糧となるのだから』
嗤いが、空間を満たす。それは音ではない。だが、耳を塞いでも、心の奥底にまで届く“毒”。
仲間たちの顔に、苦悶が走る。剣を振るう者ほど、心を抉られる。守る者ほど、選択を迫られる。
そしてそのすべてを、ルーグは“愉悦”として味わっていた。
柚葉の身体が、かすかに震えた。
その瞳は、いまの惨状を信じられないまま巨人を見つめている。だが、その奥で――確かに、何かが揺れていた。
――守りたい。
――助けたい。
――でも……どうすれば……?
子供たちを失うかも知れない恐怖と無力感が、胸を締めつける。
足がすくみ、声が出ない。それでも、心の奥底で、何かが静かに灯り始めていた。
そのときだった。
胸の奥が、熱を帯びた。それは炎ではなく、光でもない。もっと根源的な、“構造”そのものへの共鳴。




