第107話 真理の光はまだ届かず、慈光院に落ちる偽りの影
その質量は、ただの物理的な暴力ではない。瘴気と呪詛を帯びた“否定の塊”が、光を押し潰そうとしていた。
――間に合わない。
アンバーリーフの光が、かすかに揺らぐ。その小さな身体が、まるで風前の灯のように揺れる。
思念が、必死に伝わってくる。
――まだだ。まだ、守れる。
――だけど……このままでは……足りない。
その瞬間、風が爆ぜた。
空気が裂け、瘴気が断ち割られる。まるで“世界そのもの”が一閃されたかのような、鋭い圧。
「――そこまででござる」
低く、凛とした声が、戦場に響いた。
次の瞬間――
巨人の振り下ろした腕が、肘から先ごと宙を舞った。
断面から噴き出す瘴気が、悲鳴のように空間を歪ませる。
白と水色の羽織が、風に翻る。その姿は、まるで嵐の中に現れた一筋の刃。
ヒジカタ・ソウシ。
名を知る者ならば、誰もが息を呑むだろう。その居合は、ただの剣技ではない。
“穢れの流れ”そのものを見極め、断ち切る――理を斬る剣。
「間に合ったでござるな」
音も立てず、静かに刀を鞘へと納めると、その眼差しは、巨人の影へと向けられた。
そこに宿るのは、怒りでも焦りでもない。ただ、揺るがぬ覚悟と、斬るべきものを見据える静謐な意志。
その背後――春の風のように、柔らかな声が重なる。
「もう、大丈夫」
振り返れば、そこに立っていたのは柚葉とルシエル。
光をまとったその凛としたその姿に、緊迫していた慈光院の空気がふわりと和らいだ。
「ルシエル様に! ユズハ様にゃ!」
ニャルディアがぱっと顔を上げ、耳をぴんと立てて駆け寄る。その尾が嬉しさを隠しきれずに揺れていた。
「来てくれたのか……ほんと、助かったぜェ……!」
ブレンナもまた、胸に手を当てて安堵の息を吐く。そっと額に掻いていた汗をぬぐう。
――静かに佇むアンバリーフが、そっと目を閉じる。
“おかえりなさい”
声にはならないその思念が、優しく、あたたかく、二人の心に届く。
まるで、聖域そのものが柚葉とルシエルの帰還を祝福しているかのように――慈光院の光が、静かに、しかし確かに脈打っていた。
そして――
「さぁさぁ、真打の登場だよ。あとは――」
リリアが、軽やかに指を鳴らした。
その瞬間、空間が震えた。
慈光院を覆っていた瘴気が、わずかに後退、光の粒子が舞い上がり、そこに集う者たちの身体を包み込んだ。
それは、ただの強化ではない。心を支え、魂に火を灯す――“希望の加護”。
「――私たちの番だよ」
リリアの声が、静かに、しかし確かに響いた。
ニャルディアの耳がぴくりと動き、身体に満ちていく力に、思わず目を見開く。
「にゃにゃっにゃ!? これ、軽い! 速い! 反応が研ぎ澄まされてるにゃ! こういう付与が欲しかったんだにゃ~!」
隣でブレンナも、拳を握りしめ、ちょいすねながらも唸るように言った。
「……おおぉ、こりゃいい付与だ! お洒落な恰好した嬢ちゃん、ありがとなァ!」
リリアは少しだけ頬を染めて、ふふっと笑う。
「……流石、鍛冶師わかってるじゃん」
「そこの凄腕の剣士さんも――助太刀、ありがとうにゃ!」
ヒジカタは静かに頷き、羽織を翻しながら一言。
「任せるでござる。――ここからが本番でござるな」
そのやり取りに、アンバーリーフの瞳が細められ、内から、再び光が満ちていく。
安堵という名の、温かな想いが、静かに伝わってきた。
戦闘は、まだ終わらない。
そう、慈光院を守るべき者たちが、全員つどった。
斬り落とされた巨人の腕が、瘴気となって崩れ落ちる。
黒い霧が地に溶け、空気に溶け、まるで何もなかったかのように消えていく。
だが――
勝利の気配は、どこにもなかった。
アンバーリーフの光が、かすかに揺らぐ。その琥珀の瞳が、わずかに見開かれた。
――違う。
――まだ、終わっていない。
その思念が、鋭い違和感となって、戦場にいる全員の胸を貫いた。
「……あれ?」
柚葉が、はっと振り返る。その表情に、戸惑いと不安が混じる。
「……子どもたちの声が……しない……?」
慈光院の中庭。
つい先ほどまで響いていた、怯えた叫びや逃げ惑う足音――それらが、まるで幻だったかのように、忽然と消えていた。
「……まさか……」
ルシエルの顔から、血の気が引いていく。その視線が、回廊の影へと吸い寄せられる。
次の瞬間――
そこから、ゆらりと数人のシスターが現れた。
白い修道服に、血のような瘴気の染みがにじんでいる。
その腕には、ぐったりとした子どもたちの姿、まるで眠っているかのように、誰もが意識を失っているように見えた。




