第106話 虚邪の巨人、光を拒む闇と、真理を照らす抗う者たち
朝の陽光がやわらかく降り注ぐ頃。
場所は変わり、王都の外れに佇む――慈光院。
澄み渡る青空の下、風は穏やかに木々を揺らし、鳥たちのさえずりが、静かな回廊に優しく響く。
普段ならば。
それは、集まったのではなかったし、呼び寄せられたのでもない。
――最初から、“そこに在るべき形”へと、世界そのものが歪められただけだった。
慈光院の外壁沿い。
朝霧が、不自然な渦を描いて揺らめく。
地面に染み込んだ瘴気が、まるで腐った血のように泡立ち、黒く粘つく“何か”が、じわじわと地表を侵食していく。
ニャルディアの耳がぴくりと動き、その背筋に、ぞわりと冷たい戦慄が走った。
毛が逆立ち、喉の奥から低く唸りが漏れる。
「……来るにゃ。この空気、ただの霧じゃない……」
その瞬間―― 地面が、音もなく隆起した。
土でも、石でもない。黒く濁った瘴気の塊が、地中から這い出し、粘りつくように絡まり、圧縮され、形を成していく。
骨のように軋む柱。筋肉のように脈打つ瘴気の束。そして、無数の顔の名残が、呻き声とともに浮かび上がり、また沈んでいく。
それは、やがて“人の形”を模した。だが、それは人ではなかった。
慈光院の塀をはるかに超える、禍々しき巨人。
頭部には目がなく、胸元にだけ、歪に脈打つ“核”が露出している。その核は、まるで心臓のように脈動し、周囲の空間すら歪ませながら、存在を主張していた。
――虚邪の穢れが凝縮し、信仰の名のもとに捨てられた“祈りの残骸”が、今ここに、形を得て生まれ落ちたのだ。
「……っ、冗談きついぜ……!」
ブレンナが歯を食いしばりながら、巨人を睨みつける。
その額には汗が滲み、手にした大槌がわずかに震えていた。だが、それは恐怖ではない。“見極め”のための集中、鍛冶師としての本能が、敵の構造を探っていた。
「人型ってことは……意思があるってことかよ……!」
返答はない。だが、巨人が一歩、地を踏みしめた瞬間――空気が悲鳴を上げた。
慈光院の石畳に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、その巨体が、ゆっくりと、だが確実に子どもたちの方へと向かっていく。
「させるかにゃッ!!」
ニャルディアが、風のように駆け出した。
塀を蹴り、壁を蹴り、空を裂くように跳躍する。その身はしなやかで、鋭く、まるで一閃の刃。
短剣が閃き、巨人の膝を狙って突き立てられる。黒い瘴気が裂け、粘つく液体が飛び散った。
「――浅い!」
「この短剣、ブレンナ製の良い出来にゃ……でも、邪悪を断つ加護とかないのが残念にゃ」
「……鍛冶師にそんな付加のぞむかぁ!」
「言ってみただけにゃ!」
手応えは、まるで泥を切ったような感触。
肉でも骨でもない、“何か”がそこにある。だが、ニャルディアは怯まない。
その瞬間―― 巨人の腕が、唸りを上げて振り払われ、空気が爆ぜ、衝撃波がはしる。
「ニャルッ!!」
ブレンナの叫びと同時に、ニャルディアの身体が宙を舞う。軽やかだった跳躍は、今や無防備な落下へと変わっていた。
それを庇うように――
「おらァァァ!!」
ブレンナが、素早く前にでて、全身の力を込め大槌を振り抜く。
その一撃は、ただの力任せではない。鍛冶師として、破壊すべき“継ぎ目”を見抜いた上での、一点集中の精密な破砕。
巨人の足元に、鈍い衝撃が走る。
瘴気が弾け、黒い肉塊がわずかに崩れた。
「立て、ニャル! まだ終わっちゃいねぇぞォ!」
ブレンナの声が、戦場に響く。
その背には、子どもたちを守るという、揺るがぬ意志があった。
「効いてるが……! けど……!」
ブレンナが叫ぶ。
巨人の膝に刻まれた亀裂から、黒い瘴気がうごめき、砕けた肉塊が、まるで逆再生するかのように再構築されていく。
「ちっ……再生持ちかよォ!」
その声に、焦りと苛立ちがにじむ。
破壊の手応えが、あっという間に無に帰される。
このままでは、いずれ押し切られる――そんな予感が、二人の背中に冷たい汗を這わせた。
その時だった。
――光が、走った。
アンバーリーフが、静かに一歩、前へ出る。
その小さな身体から、まるで風が吹き抜けるように、清らかな気配が広がっていく。
それは、大地の加護ではない。
もっと根源的で、もっと“真実”に近い何か。足元から、静かに、しかし確かに“清浄な領域”が広がっていく。
言葉はなかった。だが、その存在が放つ意志は、確かに二人の心に届いた。
――恐れるな。ここは、まだ奪われていない。
――光の祝福が、ここにある。
アンバーリーフの琥珀色の瞳が、巨人をまっすぐに見据える。その視線は、幼さを超えた真理のまなざし。
次の瞬間――
巨人の全身に、白銀の紋が浮かび上がった。
それはまるで、存在そのものを“照らし出す”ような光。瘴気が軋み、悲鳴のような音を立てて揺らめく。
「……浄化、じゃないにゃ……?」
ニャルディアが、立ち上がりながら息を呑む。
その目に映るのは、“消滅”ではない。もっと根源的な拒絶――“嘘を許さない力”。
虚邪の穢れが、“人型”を名乗ることそのものを、この光は否定していた。
だが―― 巨人の胸元で、歪な“核”が激しく脈打つ。
その鼓動が一際強くなった瞬間、黒い瘴気が槍のように凝縮され、アンバーリーフめがけて放たれた。
「――ッ!!」
ニャルディアが、咄嗟に跳び出す。その動きは、まるで雷光のように速く、鋭い。
短剣が閃き、黒槍の軌道を逸らす。だが、完全には防ぎきれなかった。
「ぐっ……!」
鋭い痛みをともない肩を裂き、鮮血が宙に舞い、ニャルディアの身体が、再び地面に叩きつけられる。
「ニャル!!」
ブレンナが、怒声とともに駆け出し、巨大をハンマー盾にして、彼女の前に立ちはだかる。
その姿は、まるで鍛え上げられた鋼鉄の壁のようだった。
「立て、ニャル……! そして動け! 止まってるんじゃねぇぞォ……!」
彼女の声が、戦場に響き、その背に、アンバーリーフの光が再び満ちていく。
だが―― 巨人の拳が、唸りを上げて振り下ろされた。




