第105話 祈りは届かず、それでも剣と理は前へ進む
一方、白金の空間の別座標――そこでも、すでに死闘の火蓋が切って落とされていた。
「ドルガン!」
「応ッ!!」
重盾戦士ドルガンが、咆哮とともに前へと躍り出る。その巨躯が踏みしめるたび、床が軋み、空間が震える。
六花の金獅子の紋章が刻まれた大盾が、地面に叩きつけられた瞬間、黄金の防護陣が展開され、仲間たちを包み込むように広がった。
そして、その前に立ちはだかったのは――虚邪の鎧をまとった、禍々しい教団の下僕。
人の形をしていながら、もはや“人”ではない者たち。
腐鉄の装甲に覆われた肉体からは、瘴気と呪詛がにじみ出し、その眼窩には、理性の欠片すらない“信仰の狂気”が宿っていた。
「……来いよ、化け物ども。この盾、貫けるもんならやってみな!」
ドルガンが盾を構え、地を踏み鳴らす。その姿はまさに、戦場に咲く金獅子の如し。
「聖女殿、後ろを!」
「はいっ!」
ミレフィーオが祈りを捧げる。大地母神の祝福が、仲間たちの足元から湧き上がり、体力、気力、敏捷を底上げしていく――はずだった。
しかし――
(……ダメ。やっぱり、ここでは……思った以上に力が出ない)
祈りは届いている。術式も正確。けれど、どこか噛み合っていない。
まるで、大地そのものが拒んでいるかのように、祝福の力が、空間に吸い込まれていく。
(この空間……やっぱり、グランテルメス様の加護が遮断される……)
焦りが、胸を締めつける。
仲間を守れなければ、聖女の意味がない。それでも、どんなに力が届かなかったとしても祈りを止めることはできなかった。
その上空――魔力の風が渦巻く中、アウロアが静かに弓を引き絞っていた。
その瞳は、ただ冷静な狙撃手のものではなかった。
そこには、怒りがあった。悲しみがあった。そして、どうしても受け入れられない“冒涜”への、深い憤りがあった。
(……セレーネ……)
かつて、娘のように、妹のように、いや、それ以上に――心から愛していた存在。
その面影を、あの女は装っている。だが、あれは決して“彼女”ではない。
あの穢れた姿で、セレーネの名残をかたるなど――許せるはずがなかった。
「――穿て」
アウロアの詠唱が終わると同時に、魔力をまとった矢が、三本、六本、十二本……と倍々に増殖し、夜葬の巫女セレナーデへと、怒りと祈りを込めて降り注いだ。
だが――
「……無粋ね」
セレナーデは、ただ一歩、静かに踏み出す。その動きは、まるで舞うように優雅で、そして冷たい。
闇のヴェールが展開され、矢はすべて、音もなく、光も残さず、虚無へと飲み込まれた。
「死は、拒むものではない。受け入れるもの……」
その囁きとともに、地下空間に“死の静寂”が満ちていく。
音が遠ざかり、色が褪せ、命の鼓動すら鈍っていくような感覚。
アウロアは、唇を噛みしめた。
「……貴様に、彼女の姿を名乗る資格はない」
その声は、怒りに震えていた。それでも、彼女は弓を下ろさなかった。たとえ矢が届かずとも、想いは決して折れない。
アウロアの視線が、再び宙を彷徨う。
セレナーデの姿の奥に、もう一つの影が重なって見えた。
(……リディアーヌ……)
その名を、心の奥でそっと呼ぶ。それは、誰にも言えぬ秘密。本人にすら、決して明かしてはならぬ真実。
――あの棺の中で、神の楔に囚われている大聖女。
その面差しは、どこか自分と似ていた。それもそのはず。
アウロアは知っている。自分の血が、あの少女の中に流れていることを。
遥か昔――
アウロアは、人間の魔術師、光の魔法を極める家に連なる者と恋に落ちた。
その間に生まれた子が、さらに命を紡ぎ、やがてリディアーヌという名の子が生まれた。
アウロアは、リディアーヌの“祖母”なのだ。
だが、ハイエルフであるがゆえに、その姿は今もなお、二十代のまま変わらない。
誰も気づかない。リディアーヌ自身ですら、知らぬまま。
(……なのに、どうして……)
あの子が、あのような形で囚われ、神の心臓の器として弄ばれている現実。
それは、セレーネの冒涜と同じくらい、いや、それ以上に、アウロアの心を焼いた。
「……貴様に、彼女の姿を名乗る資格はない」
その声は、怒りに震えていた。だが、それはセレーネだけに向けられたものではない。
リディアーヌを“道具”として扱う、この世界そのものへの、深い憤りでもあった。
アウロアは、弓を下ろさなかった。
矢が届かずとも、想いは決して折れない。たとえ誰にも知られずとも――この怒りと祈りは、彼女の血に刻まれている。
そして、彼女の矢は再び、静かに、だが確かに、夜の闇へと放たれた。
しかし、想いは届かない。
「――来る、気を付けろ!」
アーシェスが叫ぶ。
セレナーデの足元から、黒い花弁のような魔力が咲き誇る。それは美しくも禍々しい“呪域”――魂を縛り、意志を蝕む死の結界。
その中心へ、フィデス・イルヴァが躍り出た。
「――ォオオオオ!!」
言葉ではなく、咆哮で語る意志。それは、信念そのものだった。
白金の光が、聖獣の身体を包み込む。その輝きは、神聖と怒りが融合した“祈りの炎”。
フィデスは、真正面から呪域へ突入し、その爪で、闇の結界を引き裂いた。
「その想いに、穢れを触れさせないで――ッ!!」
その叫びは、ミレフィーオの声。フィデスの咆哮に呼応するように、彼女の祝福が空間に響く。
神獣の爪が地を裂き、その一撃が、セレナーデの闇を砕いた。
その混戦の只中で――誰にも気づかれぬように、カディスは静かに歩を進めていた。
その眼差しは、ただ一つの存在を見据えている。
聖機 《アストラ・コード》。
「……あと一段階だ」
ささやくように呟きながら、彼は指先を伸ばす。その脳内では、異形の理論式が静かに、しかし確実に組み上がっていく。
神代の残滓と現代魔導の融合――それは、世界の“定義”そのものを書き換える、禁忌の完成形。
だが――
「――やらせん」
乾いた音が、床を打ち鳴らした。
大賢者オーヴェルスが、静かに立ちはだかる。その姿は、まるで知の門番のように、揺るぎなかった。
「知を欲する者として……これ以上の冒涜は、見過ごせぬ」
その声には、怒りではなく、深い悲しみがにじんでいた。
かつて共に学び、理を磨いた兄弟弟子――その一人が育てた才覚が、今や知を歪め、理を壊そうとしている。それを止めるのは、自らの矜持であり、かつての誓いへの応答――そう語るように。
「……邪魔をするなら、排除するだけです」
カディスの声は冷たく、感情の起伏すら感じさせなかった。だがその奥には、狂気にも似た“確信”が燃えていた。
二人の視線が交差した瞬間――
神代と現代。
理性と狂気。
知の系譜に連なる者たち。
そのすべてが、魔力という名の意志となって激突する。
光が、闇が、怒りが、祈りが――地下空間を満たしていく。
聖機は、そのすべてを“観測”しながら、静かに、目覚め始めていた。
これは、ただの戦いではない。世界が、どちらの理を選ぶのかを問う、決戦。
そしてその答えは――まだ、誰にもわからない。




