第104話(前パート) 神の心臓が晒された時、英雄と狂信の最終決戦が始まる
あの中にあるものが、王家の記録にも記されていない“禁忌”であることを。
血の奥底に刻まれた、理屈では説明できない“恐怖”が、アーシェスに警鐘を鳴らしていた。だが、それ以上に――彼の胸を締めつけたのは、別の気配だった。
ほのかに漂う、あの人だけがまとう、忘れがたい香気。
幾度となく、夜の回廊で交わした言葉。王家の者として、聖女として、決して交わることのない立場でありながら、それでも心の奥底で、互いを理解しようとした、あの時間。
「……リディアーヌ……?」
呟いた名は、誰にも聞こえなかった。けれど、彼の中では確かに、何かが崩れ落ちていた。
「やめろ、ルーグ……それを開けるな!」
アーシェスが声を荒げ、踏み出そうとする。
だが、ルーグはその叫びを愉悦の笑みで受け流し――棺の封印を解き、蓋を開け放った。
その瞬間――
空気が、凍りついた。
棺の中に横たわっていたのは、白銀の法衣をまとい、まるで眠るように目を閉じた女性。
「……っ!」
「うそ……」
「まさか……!」
一同が、言葉を失う。
それは、かつての“陽光の聖女”セレーネと並び称された、もう一人の大聖女――白月の巫女リディアーヌ。
聖王国の信仰の象徴にして、ミレフィーオが“母に近い姉”と慕う存在。
その姿が、まるで“捧げ物”のように晒されていた――
まるで眠っているかのように無表情に見えるが――どこか、何かに必死で耐えているような、張りつめた静けさの表情。
その胸元には、禍々しい鈍くよどめく真っ黒な杭が深々と打ち込まれていた。
「……っ……!」
ミレフィーオが、膝をついた。その肩が、大きく震える。
「うそ……です……そんな……リディアーヌ様が……どうして……」
彼女の声は、かすれていた。
普段は誰よりも気丈で、誰よりも強くあろうとする彼女が――今、崩れ落ちそうなほどの絶望に、呑まれていた。
「ふふふ……いい顔だ、大地母神の聖女よ。その絶望こそが、我らの糧となる。さあ、始めようか――“神の心臓”を迎える、最後の儀式を」
ルーグの声が空間に響いた瞬間、場を包んでいた不気味な静寂が、さらに深く沈み込んだ。
そのときだった。
「……ぅ……つぁ……っ……」
微かに、ほとんど聞き取れないほど、かすれた呻き声が響いた。
それは、誰のものでもない――杭に貫かれ、まるで人形のように横たわっていた“彼女”のものだった。
「リディアーヌ様……!?」
ミレフィーオが顔を上げる。その瞳に、希望の光が宿る。
だが、ルーグはそれを見逃さなかった。口元を歪め、喉の奥でくぐもった笑いを漏らす。
「くくくっ……抗っているな。さすがは“神の代理人”と称される大聖女……いや、“心臓の鞘”と呼ぶべきか」
彼はゆっくりとリディアーヌのもとへ歩み寄り、胸元に突き立てられた黒き杭を、愛おしげに撫でた。
「この呪われた神の楔 (くさび) 《アバドン・スパイク》は、魂と肉体を分断し、神の心臓を封じた“鞘”としての器に変えるためのもの。今の彼女は、ただの入れ物に過ぎん。だが――まだ、完全ではない」
彼の瞳が細められる。
「魂が、抗っている。だが、どこまで持つかな? この楔が完全に根を張ったとき、“神の心臓”は目覚め、そして我らが主の本体もまた、完全なる蘇りを果たすのだ」
その言葉とともに、杭が脈動し、黒い瘴気がリディアーヌの胸元からじわりと広がっていく。
ミレフィーオは、震える手で祝福を捧げようとするが、その加護は、またしても空間に吸い込まれていった。
(お願い……どうか、どうか……!)
彼女の祈りは、届かない。だが、それでも――リディアーヌの目ぶたが、わずかに震えた。
ルーグの狂笑が、白金の空間に響き渡った。
光と闇。
信仰と狂信。
守護と再定義。
希望と絶望――すべてが、今、この場所に集約されていた。
白金の空間に満ちるのは、神代の残響。その中心で、教祖ルーグが両腕を広げ、恍惚とした声を漏らす。
「……ああ、壮観だ」
その瞳は、狂気と歓喜に濡れていた。
「英雄、聖女、聖獣、ハイエルフ、大賢者……これ以上ない供物が揃った。さあ、始めよう。世界を書き換える導きを――神の心臓を、我らの理で染め上げるために」
ルーグはふと、わずかに視線を逸らし、思案するように指先を唇に当てた。そして、愉快そうに肩をすくめる。
「……とはいえ、一番厄介な“影の監視者”――あやつリュウゲツは…あえて転移には加えず、あの洞窟に置き去りにしてきたがな」
その声音には、警戒と侮蔑、そしてほんの僅かな“恐れ”がにじんでいた。
「――黙れ」
鋭く、氷のような声が空気を裂いた。
アーシェスが、一歩、前へ出る。
その足取りは静かだが、全身からにじみ出るのは、確かな決意――そして、怒りだった。
(……まだ、生きている……!)
杭に貫かれながらも、わずかに震えるリディアーヌのまぶた。その微かな動きが、彼の胸に一瞬、安堵の光を灯す。
だが同時に、その命が“邪な神の心臓”の器として弄ばれているという現実が、彼の内側に煮えたぎるような憤りを呼び起こしていた。
「聖機アストラル・コードは、世界を守るためのものだ。お前たちの狂気の器じゃない……ましてや、リディアーヌをそんな風に扱っていいはずがない」
その声は低く、鋼のように冷たかった。
だがその奥には、彼女の尊厳を踏みにじられたことへの怒りと、彼女を“人”として見ていない者たちへの、抑えきれない憤りが込められていた。
「守る……? それはただの停滞だ。変化を拒み、崩壊を恐れ、ただ現状に縋るだけの弱さにすぎん」
即座に応じたのは、灰の賢者カディスだった。
その声は静かで、まるで凪いだ湖面のように穏やか――だが、その奥底には、底知れぬ深淵と冷酷な理が潜んでいた。
「世界は、常に“試される”べきだ。神であろうと、人であろうと、例外はない。変化なき守護など、死と同義だ。滅びを恐れるな。恐れるべきは、進化を止めることだ」
その言葉は、理屈としては整っていた。
しかし、そこには“命”への敬意も、“痛み”への理解もなかった。ただ、冷たく研ぎ澄まされた“淘汰”の思想だけが、静かに響いていた。




