第103話 禁書が世界を裏返す時、神代の機構は牙を剥く
虚邪の洞窟――崩れた岩壁と瘴気の渦巻く空間に、緊張した空気が場を覆い尽くしていた。
その中心に立つ、灰の賢者カディス。
まるで緊張とは無縁のその瞳は、虚空を見つめるようでいて、世界の“根源”を見据えていた。
「……座標の干渉は不可能。通常の転移術では、届かぬ……特別なアーティファクトでもなければ」
静かに呟くと、彼は一冊の書をどこからともなく取り出した。それは、魔導の原初を記すとされる禁書――《法典詠唱》
カディスが、静かに一冊の書を開いた瞬間――王国側の空気が一変した。
「詠唱を止めろ!」
アーシェスが氷魔術の詠唱をしながら、即座に前へと踏み出し、ガルディウスは魔剣を振りかぶり、ドルガンが盾を前に突き出す。
だが――その刹那。
「……動け、ない……?」
アーシェスの足が、床にぬい付けられたかのように止まった。脚が反応しない。魔力の流れすら、凍りついたように鈍る。
「くっ……これは……!」
ミレフィーオが祈りの言葉を紡ごうとするが、声がノドで止まる。まるで、空間そのものが“沈黙”を強いているかのように。
「……夜葬の帳」
セレナーデが、黒紗の袖をふわりと揺らす。その動きに呼応するように、足元の影が波紋のように広がり、王国側の足元を絡め取るように這い寄っていた。
「これは……あやつの秘術か……!」
オーヴェルスが目を見開く。
「動き」や「意志」といった概念そのものを封じる、夜葬の巫女にのみ許された禁呪――“静寂の結界”。
「くくく……無粋な妨害はご遠慮願おう。これは、我らが“理”を再定義するための、神聖なる儀式なのだから」
ルーグの声が、あざけるように響く中――カディスの詠唱が、静かに、だが確実に進行していく。
ページが風もなくめくれ、空間が震える。
洞窟の床に、色の異なる六つの魔法陣が展開され、紅、蒼、翠、金、紫、白――それぞれが異なる“理”を象徴していく。
「定義を変更――」
カディスの声が、空間そのものに染み込むように響く。
「“場所”とは、中心を失った空間そのもの。座標ではなく、存在の“意味”によって定義されるものとする」
その言葉と同時に、洞窟の岩壁が軋み、崩れた石が空へと浮かび上がる。重力が反転し、土砂が逆巻き、空間がねじれる。
「来たれ、反転の理――」
六つの魔法陣が一斉に輝き、空間の“縫い目”が裂けていく。
その中心に、白金の光が収束し――『裂界召門』が現れる。
その詠唱が終わると同時に、空間が裏返った。
まるで世界そのものがひっくり返るような感覚。足元が消え、視界が光に包まれる。
――光が弾け、空間が再び反転する。
次の瞬間、一同は“そこ”に立っていた。
大神殿地下最深部――だが、それはもはや「地下」という言葉では足りなかった。
円形の巨大空間。天井とも壁ともつかぬ白金の構造体が、幾何学的な紋様を描きながら絡み合い、中央には星の核のような装置が、重力を無視するかのように浮かんでいる。
聖機 《アストラ・コード》。
神代において、“世界と神を接続することを目的に造られた”機構。その内部で、淡い光と濃密な闇が、拮抗するように脈動していた。
「……ここが、“神の本体”の座……」
アーシェスが、静かに呟く。その声には、冷静さの奥に、かすかに戦慄がにじみでていた。
「空気が……違う。重い……いや、深い……」
ミレフィーオが胸元を押さえる。聖女である彼女にとって、この空間は、あまりにも異質だった。
――大地母神の加護が届かない。
足元から感じるはずの“命の脈動”が、どこにもない。この場所は、大地と断絶されている……?
祝福と呪詛が同時に満ちているような、矛盾した気配が、聖女まで昇華した彼女の神聖力をじわじわとむしばんでいく。
「……重力の軸が不安定だ。空間そのものが、断続的に揺れてやがる……!」
ガルディウスが低く唸りながら、足をしっかりと踏みしめた。その瞳は、ただの混乱ではなく、周囲の構造と魔力の流れを冷静に読み取っている。
「この揺れ……意図的な干渉だな。重力場を歪めて、俺たちの動きを制限するつもりか。……だが、そう簡単にはいかねぇぞ」
大地の感覚が狂っている。まるで、立っている場所そのものが“存在”を疑われているような不安定さ。
「……転移直後にこの圧……まるで、空間そのものが“意志”を持ってるみたいだ」
ドルガンが盾を構えながら、周囲を警戒する。
「……静かすぎるわ。何かが、来る」
アウロアが弓を引き絞り、耳を澄ませた。
その時だった。
「ふふ……ふふふふ……」
空間の奥から、乾いた笑い声が響いた。
「ようこそ、神の心臓へ。いや――“心臓なき器”の眠る、空虚なる聖域へ」
白金の柱の間から、ゆらりと現れる黒衣の男。
「そして、お前たちが無事に転移できたことを、心より歓迎しよう――」
虚邪の教祖・ルーグ。
その背後には、闇に堕ちたヴァルガ=ヴァルハイト、灰の賢者カディス、夜葬の巫女セレナーデの姿が、まるで“儀式の始まり”を待つように静かに佇んでいた。
「さあ――幕を開けようか。この世界を“始まり”へと還す、最後の祝祭を」
ルーグが手をひらりと振る。
その合図とともに、虚邪の下僕たちが現れ、黒鉄の鎖で幾重にも封じられた“棺”を運び込む。
その存在が空間に現れた瞬間――空気が、変わった。
重く、冷たく、そしてどこか“神聖”に似た気配すらはらんだ、異様な圧。
それは、ただの遺骸を納めた箱ではない。何かを“封じ”、何かを“隠し”、何かを“呼び起こす”ための器。
「……棺?」
「まさか……」
誰かが呟いたその時、アーシェスの瞳が鋭く見開かれた。
彼には、判ってしまった。あの棺が、ただの“見せしめ”ではないことを。




