第102話 神を繋ぐ装置の前で、英雄たちはすべてを覆す
アーシェスの拳が、白くなる。爪が掌に食い込むほどに、強く握りしめられていた。
「……聖機 《アストラ・コード》を、虚邪に渡す気か」
「正確には」
カディスは、眼鏡の奥で目を細めた。その瞳に映るのは、王子でも、戦場でもない。ただ――“結果”だけだった。
「“再定義”する。あれは、神を繋ぐ装置。ならば――邪な神であろうとも“神”を繋げることが理論上は可能。それを試すことの、何が悪い?」
その瞬間。
オーヴェルスの瞳が、怒りに燃え上がる。それまでの理知的な仮面が、音もなく剥がれ落ちた。
「貴様は……! 師から破門されてまでも、《法典詠唱〈コーデクス・アーキタイプ〉》世界法則を一時的に再定義する“理論型禁呪”を、まだ追い求めているというのか!」
その声は、雷鳴のように響いた。
怒りではない。それは、かつて“知”を共に語った者への、断罪だった。
だが――
カディスは、ほんの少しだけ肩をすくめた。まるで、愚かな旧友の戯言を聞き流すかのように。
「ご老公……“大賢者”とまで言われた貴方ですら、ただ“禁呪”という理由で、理論を放棄するのですか」
その声音は、静かだった。だが、その静けさが、逆に場を刺しつらぬいた。
「“申し訳ない”が、私は“可能性”を捨てるほど、老いてはいません。倫理や信仰で理論を縛るのは、学者の死です」
「……それが、貴様の“知”か」
オーヴェルスの声が、低く、震える。それは怒りではない。深く、重い悲しみだった。
「知とは、世界を照らす光であるべきだ。だが貴様のそれは、ただの闇を照らすための火種に過ぎん」
「光も闇も、観測者の立ち位置で変わるものです。私は、ただ“真理”を見たいだけ。それがどれほど醜く、歪んでいようとも――」
「ならば、貴様は“知”を語る資格を失った。それは、真理ではない。ただの、欲望だ。あやつが……お前の師が破門したのも道理よな」
一瞬、カディスの眼鏡の奥で、瞳が細められた。だが、彼は何も言わず、ただ静かにルーグの側へと視線を戻す。
「……残念です、ご老公。貴方なら、理解してくれると、ほんの少しだけ――思っていた。結局、貴方も師と同じく……理性に縛られ、真の学徒には成れない」
その言葉に、オーヴェルスは何も返さなかった。ただ、杖を静かに構え直す。その動きは、かつての友の弟子に対する、最後の答えだった。
オーヴェルスの背後で、ミレフィーオの指が、無意識に震えた。
それは、恐怖の震えではない。
これから起きる惨劇を、聖女として受け止めるための――覚悟の震えだった。
戦いが始まる空気を読み、フィデス・イルヴァが、半歩、前へ出る。
その足音ひとつで、世界がざわめいた。空気が張り詰め、光と闇の境界が、わずかに揺れる。
「さあ……舞台は整った」
ルーグの声が、祝祭の鐘のように響く。その響きは、喜びではなく――破滅の予告。
「王都に向かって穢れが集う。ここでは、聖女と英雄が揃い。地下では、神代の機構が目を覚ます」
その言葉に、誰も返さない。だが、誰もが理解していた。すべてが、邪悪な計画通りに進んでいることを。
ルーグの口元が、狂気に歪む。
「そして――星雫の聖女と光の王子は、間もなく穢れに取り込まれる。歴史が、書き換わる瞬間だ」
その宣言と共に、空気が凍りつく。
沈黙が、落ちた。
――その静寂を、切り裂いたのは。
「ユズハとルシエルに……何をした?」
アーシェスの声は低く、鋭かった。その瞳には、氷よりも冷たい怒気が宿っていた。
ルーグは、まるで待っていたかのように、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「はははっ……! やっと聞いてくれたね、氷の王子。あの二人には――特別な罠を仕掛けてあるのさ。ほら、あいらの大事な“慈光院”にね。くくく……」
その名が出た瞬間、空気がざわめいた。
「……なにっ!?」
「慈光院だと……!?」
一同が、驚愕に目を見開く。まさか、あの孤児院にまで手が伸びていたとは――
しかし、ルーグはその反応すらも楽しむように、肩を震わせて笑った。
「……くくくっ。やはり、ここに居る王家に連なる者ですら、知らなかったのだな。あの慈光院のある場所の“本当の意味”を。なぜ、陽光の聖女セレーネが、あの地を選んだのか――」
その声は、嘲りと陶酔に満ちていた。
「――あの地下にこそ、“聖機アストラル”の心臓が眠っている。いや……正確には、“封印されている”と言うべきか」
その言葉に、場の空気が凍りつく。
聖機アストラル――かつて神代の終わりに造られた、世界を変える力を持つとされる機構。その中枢たる“心臓”が、まさか、あの穏やかな孤児院の地下に……?
――それでは、大神殿の地下に封じられているのは……“心臓なき本体”だというのか?
「セレーネは、知っていたのさ。あの場所が、世界の均衡を保つ“鍵”であることを。だからこそ、あえて“祈り”の場として、あそこを選んだ。だが――その封印も、もうすぐ解ける」
ルーグの瞳が、狂気の光を帯びる。
「そして、虚邪は目覚める。この世界を、再び“始まり”へと還すために――」
だが。そこへ静かに断ち切る声があった。
「――心配には及びません」
リュウゲツが、闇の中から一歩、前へ出る。その声は、いつもと変わらぬ静謐さを保っていた。
「星雫の聖女殿とルシエル殿下には、最強の護衛を付けています。ヒジカタとリリアの二人を」
その名が告げられた瞬間。
「……ヒジカタと……リリアか」
ガルディウスの肩から、わずかに力が抜け、その隣で、ミレフィーオも小さく息をついた。
「なら……大丈夫だ。あの二人が一緒なら、あいつらは、絶対に折れねぇ。それに慈光院には、猫っ娘もオレンジ娘も神獣もいる。穢れごときに負けるやつらじゃねぇよ」
「ガルディウスとミレフィーオが“神の失敗作”の高難易度ダンジョンを踏破した時の、あのパーティーのメンバーか」
アーシェスが呟く。その声には、確かな信頼と、わずかな安堵がにじんでいた。
「ヒジカタの刀は、理不尽すら断ち切る。リリアの魔法は、神の咆哮すら通さない。あの二人がいるなら――ユズハとルシエルは、守られる」
その名を聞いた時だった。
セレナーデの瞳が、わずかに揺れる。
(……ルシエル……)
その響きが、胸の奥に触れる。知らないはずの名。けれど、どこか懐かしいような、遠い夜の記憶をくすぐるような、不思議な感覚。
彼女は、ただ黙ってその名を繰り返していた。夜の静けさの中で、誰にも気づかれぬままに。
それぞれの胸に渦巻く怒りと覚悟が、今はただ、静かに燃えている。
アーシェスは、剣に手をかける。その動きは、迷いのない“宣告”だった。
「……理解した」
氷の王子の声は、静かで、低い。だが、その言葉には、凍てつくような決意が宿っていた。
「全て、ここで止める。王都へも、聖機へも――一歩も行かせない」
その言葉に、ガルディウスが獣のように笑う。
「上等だ……まとめて叩き潰してやる。ルシエルとユズハなら、大丈夫だ。だったら、俺たちは、この目の前の敵を潰すだけだろ?」
六花が、無言で陣を取る。その瞳は、すでに戦場の先を見据えていた。
ミレフィーオの背で、白金の光が、再び脈動を始める。それは、祈りの鼓動。
世界の命脈が、彼女を通して脈打っているかのように。
セレナーデは、静かにその光を見つめていた。その胸の奥で、まだ名もなき感情が、そっと揺れている。
――世界が、見ている。
この瞬間を。
この選択を。
この戦いの、行く末を。
次の一歩が、神代の遺産を巡る、最終局面になることを。
そして、それを選ぶのは――ここに立つ者たち自身と柚葉、ルシエルたちだということを。




