第98話 夢喰い蝶の残影、王都へ向かう闇、試される聖女の意志
――奇跡の余韻は、まだ村に残っていた。
クンナ村。
柚葉の想いが世界に届いたその地は、いまなお、淡く揺らめく光に包まれている。
風車は、静かに、しかし力強く回っていた。その羽音は、この地に根づいた命の律動のように響き、枯れかけていた井戸は、澄んだ水を湛えている。
村人たちの表情には、確かな安堵と、どこか遠くを見つめるような静けさが宿っていた。
この地に満ちるのは、祝福ではない。それは、ある“力”が確かに届いたという証。
そして――その証が、次なる扉を開くという“予兆”。
村の外れ。《聖セラフィード大森林》へと続く獣道の手前で、ルシエルは足を止めた。
風が、わずかに止み、空気が、静かに淀む。
地面に残る、わずかな痕跡。草は踏み倒されていない。枝も折れていない。だが、そこには確かになにかが“通った”気配があった。
目に見えぬ何かが、この地の気づかれぬように、それでも確かに、通り過ぎていった。
「……妙だな」
低く、抑えた声で、ルシエルが呟く。
「魔物にしては、行動が――静かすぎる」
通常の魔物なら、爪痕が残る。瘴気が漏れ、森の精霊たちが騒ぎ立てる。だが、ここにはそれがない。
まるで、森そのものが、何かを“見逃した”ことに気づかぬふりをしているかのような、不自然な静寂だけが、そこにあった。
柚葉はしゃがみ込み、そっと地面に触れた。土は温かく、指先に伝わるのは、確かな命のぬくもり。この場所には、まだ豊かな気配が息づいている。
それなのに――
「……いる、よね」
囁くような声。
断定ではない。けれど、否定もできない。言葉にならない“違和”が、胸の奥を静かに打っていた。
それは、かつて“届いたもの”を知る者だけが感じる、世界の呼吸がわずかに乱れる瞬間。
ルシエルは一瞬、視線を落とし、言葉を選ぶように、短く息を吐いた。
「虚邪絡みの……“残滓”か」
その言葉が落ちた瞬間、空気がぴんと張り詰める。風が止まり、森の音が遠のいた。
柚葉の胸の奥で、何かがざわめいた。
それは、ただの不安ではない。もっと深く、もっと古い――名のない感覚。
ルシエルは、さらに一拍、間を置いた。
「……あるいは」
その声は、わずかに低く、慎重に。
「意志を持った“何か”」
柚葉が顔を上げる。その瞳に宿るのは、怯えではなく、確かめようとする光。
「……人に、近いもの……か、な?」
沈黙が落ちる。けれど、その沈黙は、ただの静けさではなかった。
何かが、こちらを見ている。
まだ姿を現さぬまま、確かに、この森のどこかで。
風が森を渡り、木々がざわめいた。まるで、その言葉に森そのものが応えたかのように。
「……行こう」
ルシエルはそう言って、迷いなく森へと足を踏み入れた。
《聖セラフィード大森林》
外縁部は、聖獣の加護が色濃く残る、穏やかな森だ。陽光が葉の隙間からこぼれ、苔むした地面をやわらかく照らしている。だが、数歩進むごとに、空気はわずかに変わっていく。
音が、減っていく。
鳥のさえずりが遠のき、虫の羽音が消え、代わりに、肌にまとわりつくような“気配”が、空気に混じり始める。
「……古い」
ルシエルが、はっきりと言った。
「相当、古い魔術の残滓だ。今の時代の術式じゃない。これは……もっと、深い時代のものだ」
その言葉が落ちた先。
木々が円を描くように枯れ、地面が淡く変色した場所に――それは、あった。
黒く、濁った光の塊。
いや、“塊”というよりも、無数の何かが寄り集まり、形を成しているだけのもの。脈打つように、静かに、しかし確かにうごめいていた。
柚葉の喉が、ひくりと鳴る。言葉が出ない。けれど、目を逸らすこともできなかった。
「……これ……」
見覚えが、あった。否――正確には、“魂が覚えている”。
胸の奥に、強烈な既視感が走る。記憶の底から、何かが這い上がってくる。
「……同じ、だ……」
ルシエルの声が、わずかに震えた。
「これは……《虚邪の穢れの集合体》」
その名が告げられた瞬間、柚葉の心臓が跳ねた。まるで、何かがその名に反応したかのように。
森が、再びざわめく。風が止み、空が遠のく。
そして、静寂の中に――何かが、目を覚ましかけていた。
「……ミルティナ」
思わず、名を呼んでいた。その響きは、空気に溶けるように消えていく。
《リディアーヌ誓約霊》――“夢喰い蝶”ミルティナ。かつて、己の存在を賭してまで、大聖女へと“想い”を届けた霊蝶。
目の前に蠢く穢れは、あの時と同じ“在り方”をしていた。形を持たず、意志だけが残り、世界の隙間を這うように広がっていく。
その瞬間、柚葉の視界が、ふっと揺らぐ。
黒い羽が舞う。なにかの声が、耳元で囁く。それは、記憶ではない。けれど、確かに“知っている”感覚。
――あの時、ミルティナと共にいた黒蝶の視界。その断片が、まるで夢の残り香のように、柚葉の意識に重なった。
星雫の聖女として目覚めたことで、柚葉の魂は、かつてこの世界に触れた“記録”と共鳴し始めていた。
それは、過去の霊たちが見たものを、感じたものを、まるで自分の記憶のように受け取る力。
「……なぜ、ここに……?」
呟いたその問いに、答えるように――穢れが、動いた。
黒く濁った塊が、まるで胞子のように淡く分裂し、森の奥へ、そして王都の方角へと、じわじわと流れていく。
「……増殖、している……」
ルシエルの顔色が変わった。即座に地形を見渡し、空気の流れと魔力の脈動を読み取る。
「まずいな……このままじゃ、王都に届く」
その声に、森の木々が再びざわめいた。まるで、何かが目を覚ましたことを告げるように。
森の木々が再びざわめいた。まるで、何かが目を覚ましたことを告げるように。
「……これは、拙いな」
珍しく、ルシエルの声に明確な焦りがにじんだ。その瞳が、森の奥――王都の方角を鋭く射抜く。
「この“流れ”のまま王都へ向かえば……」
柚葉が、はっと息を呑む。
「……慈光院……」
言葉が、重なった。
王都の外れにある、小さな孤児院。
セレーネが生前、心から愛し、その遺志を継いだルシエルが、今も守り続けている場所。
親を失った子どもたちや、行き場をなくした者たちが、静かに暮らす、ささやかで温かな“家”。
柚葉にとっても、それはこの世界で初めて“帰る場所”と呼べた、大切な場所だった。
「巻き込まれる」
ルシエルが、低く断じた。その声音には、怒りも、焦りも、そして――決意があった。
沈黙が落ちる。
風が止まり、森のざわめきが遠のく。まるで、森そのものが、彼らの決断を待っているかのように。




