第94話 命を捧げ、命に信じられた夜、聖女はここに在る
――その瞬間だった。
ミレフィーオの胸から流れ出ていた光が、ふっと、途切れた。まるで風が止んだかのように、世界が一瞬、静止する。
彼女は目を見開いた。
だが、それは力尽きたからではなかった。
むしろ――その逆だった。
イルヴァの身体が、応えたのだ。
音にはならない、けれど確かに“声”としか言いようのない震えが、空間を満たす。
瀕死だった聖獣の鼓動が、一拍、また一拍と、確かな“意志”を刻み始める。
そのたびに、闇が弾かれた。
虚邪の穢れが、悲鳴のような音を立てて後退していく。まるで、命そのものに触れられることを拒まれたかのように。
ヴェルミオンの唇から、かすかな声が漏れた。
「……なに……?」
その笑みが、初めて歪んでいた。
理解の外にある現象を前に、彼の表情から余裕が消えていく。
イルヴァの身体に、目立った変化はなかった。
翼も、角も、毛並みも――すべてが、以前と変わらぬまま。けれど、その“在り方”だけが、決定的に変わっていた。
それは聖気でも、魔力でもない。
ミレフィーオが与えたのは、「信じる」という、ただ一つの選択。
力ではなく、祈りでもなく、意志の在処。
そして――イルヴァは、それを確かに受け取った。
次の瞬間、大地に光の紋様が走る。
それは術式でもなければ、星図でも、契約の証でもなかった。ただ、ひとつの“信頼”が、世界に根を下ろす音だった。
空間が震える。その中心で、イルヴァが静かに立ち上がる。
そのとき、誰の口からも発せられていない“声”が、空間に満ちた。
耳ではなく、意識の奥底に直接届く、澄んだ思念。
――我は、フィデス・イルヴァ。
それは名乗りではなかった。
存在そのものが、世界に刻まれるような、揺るぎなき肯定。
信じられた者が、信じる者のために立つ――ただ、それだけの真実。
その瞬間、フィデス・イルヴァが地を踏みしめる。その一歩が、世界の理を震わせた。
邪気が、一瞬にして掻き消える。
闇の結界に、ぽっかりと穴が開いた。
夜が、夜であることを忘れるほどの、純粋な空白が生まれる。
「ば、馬鹿な……!」
ヴァルガの声が、かすれた。その足が、無意識に後ずさる。
「聖獣が……進化した……? ありえん……! 信仰も、契約も、加護もないはずの存在が……!」
ヴァルガの声が、怒りとも恐怖ともつかぬ色を帯びる。
だがその言葉に、誰かが応えることはなかった。
ただ、空間に満ちる“思念”が、静かに告げる。
――我は、フィデス・イルヴァ。
信じられし者として、信じる者の側に立つ。
それは、ひとつの命の選択であり、ふたつの心の交差だった。
氷の王子――冷たき理を纏いながら、内に情熱の焔を宿す者。そして、ミレフィーオ――命を削ってでも他者を救おうとする、祈りの少女。
そのふたりの“信じる心”が、ひとつに重なったとき、イルヴァはただの聖獣ではなくなった。
それは、契約でも加護でもない。世界がまだ知らぬ、新たな在り方の誕生だった。
その“空白”に、沈黙していた大地が、静かに応えた。まるで、“信じる”という意志に導かれるように。
世界が、ひとつの命の選択を、そっと肯定したかのように。
深く、遥かな場所――命の根源に触れるようなところから、包み込むような温もりが降りてくる。
それは、母の腕のようだった。
あるいは、夜明け前の静けさに揺れる、柔らかな揺り籠のように。
「……あ……」
崩れ落ちかけたミレフィーオの身体を、見えない何かがそっと支える。その温もりは、確かに“在る”としか言いようのないものだった。
そして、言葉ではない“思念”が、彼女の内に届く。
――我が娘よ。
それは呼びかけだった。名を呼ぶのではなく、存在そのものを抱きしめるような、深く、優しい声。
大地の奥底から響くような、けれど確かに“母”の声。
――おまえの選んだ道を、我は見ていた。
――その痛みも、祈りも、すべてを。
――だから今、我が祝福を与えよう。
――おまえが誰かを信じたように、我もまた、おまえを信じよう。
それは、大地母神――グランテルメスの意志。
祈りを必要としない、契約も、供物もいらない。
ただ、“命を差し出してでも守ろうとした意志”に、世界が静かに追いついた。
ミレフィーオの胸元に、ひとつの光が灯る。
今までの契約紋とは異なる、もっと深く、もっと静かな印。それは、魂そのものに刻まれる、誓いのかたち。
(……あ……あたたかい……)
意識が、ゆっくりと戻ってくる。胸の奥に、確かな感覚が満ちていく。
けれど、それはあふれる魔力ではなかった。誰かを支配する力でもない。
ただ――“在るべき場所に、確かに立っている”という、母なる大地に抱かれた者だけが知る、静かな実感だった。
ミレフィーオは、ゆっくりと立ち上がった。その足取りに、もはや震えはなかった。
瞳は、まっすぐに前を見据えている。迷いも、恐れも、そこにはなかった。
「……ありがとう……イルヴァ……」
その言葉に応えるように、フィデス・イルヴァが静かに首を垂れる。
だが、返ってきたのは、声ではなかった。
――信じたのは、我ではない。
――お前自身だ、聖女。
その思念は、言葉よりも深く、ミレフィーオの胸に届いた。
それは、誰かに与えられた称号ではない。彼女自身が選び、歩んだ道の果てに、自然と辿り着いた“在り方”。
その瞬間、ミレフィーオはもはや“聖女候補”ではなかった。
誰に認められずとも、誰に命じられずとも、ただそこに、“真の聖女”として在った。
その姿を、夜の帳の向こうから見つめる者がいた。
夜葬の巫女――セレナーデ・モルテフォール。
胸の奥が、知らず強く、痛んだ。それは、彼女にとって“痛み”と呼べるものだった。
(……在り方……)
理解できないはずのものが、目の前で、確かな形を持って立っている。
奪うために生まれ、終わりを与えることだけを宿命づけられた自分。
与えることも、信じることも、知らずに在ったはずの自分。
なのに――なぜ、心が軋むのか。なぜ、あの光を見て、胸が焦がれるのか。
(……なぜ……)
その問いに、答えはない。
けれど、確かに芽吹いてしまった。“理解できない”という殻の内側で、何かが静かに、軋みを上げていた。
夜の巫女の中に、夜ではない何かが、微かに灯りはじめていた。
闇の奥で、ヴェルミオンが低く舌打ちを落とす。その音は、まるで闇そのものが軋むようだった。
「……なるほど」
吐き捨てるような声。
だが、その瞳には、まだ諦めの色はなかった。むしろ、深く、冷たく、次なる手を探る光が宿っている。
「だが――“信じる”だけで、終わると思うなよ、聖女」
その言葉とともに、闇が再びざわめき始める。
虚邪の気配が、地の底から這い上がるように広がっていく。
けれど、今度は違っていた。
この場には、ただ祈るだけの少女はいない。命を賭して信じ、信じられた者が応え、そして――それを見届けてしまった“夜”が、確かにそこにいた。
静かに、けれど確かに、世界の歯車が音を立てて回り始める。
星々は、もう元の軌道には戻らない。
運命は、確かに次の局面へと歩みを進めていた。そしてその先に待つものを、まだ誰も知らない。




