第93話 聖女の在り方が、夜葬の巫女の存在を揺るがす刻
それにしても――抱えているイルヴァの身体は、あまりにも軽すぎた。
その重さは、まるで夢の名残のようだった。
腕の中で寄り添う聖獣は、ほとんど質量を感じさせない。
かつて金色に輝いていた毛並みは、血と煤にまみれ、その呼吸は、数えるのが怖くなるほどに浅く、かすかだった。
(……だめ……もう……)
ミレフィーオは、理解していた。はっきりと、痛いほどに。
自分の中には、もう魔力が残っていない。
虚邪の結界の中で、邪神の“器”へと吸い取られた聖気と魔力。
大地母神への祈りは、届かぬ空へと消え、癒しの術式は、ただの形だけを残して沈黙していた。
願いも、祈りも、届かない。ただ、腕の中の命が、静かに遠ざかっていく。
それでも彼女は、離さなかった。
その小さな手に残された、最後の温もりを、ただ抱きしめていた。
それでも――その腕の中には、今にも消えそうな命が、確かにあった。
(……それなら……)
迷いはなかった。いや、迷う余地など、最初からなかったのだ。
ミレフィーオは、そっと額をイルヴァの額に重ねる。
その体温は、もはや熱と呼べるほどのものではなかった。
それでも、彼女は微かに笑った。
「……ごめんね……イルヴァ……こんなになってまで、助けに来てくれたのに……」
小さく、震える声が、夜の静けさに溶けていく。
「……わたし……もう……あげられるもの……これしか……ないの……」
胸の奥。
心臓の鼓動、そのひとつひとつに、意識を沈めていく。
――生命力。
魔力でも、聖気でもない。
術式にも祈りにも頼らない、ただ生きている者の中に灯る、最後の“火”。
魂と肉体を繋ぎとめる、原初の光。
(……全部……あげる……)
それは、術ではなかった。
奇跡でもなかった。
ただ――ひとつの命が、もうひとつの命を生かそうとする、それだけの、静かで、確かな行為だった。
ミレフィーオの胸元から、淡い光があふれ出した。
それは金でも白でもない。ただ、彼女自身の命が持つ、やわらかく、あたたかな色。
その光は、そっとイルヴァの傷口へ、浅い呼吸へ、途切れかけた鼓動へと流れ込んでいく。
まるで、夜の静寂に溶けるように、音もなく、確かに。
『……ッ……!?』
イルヴァの身体が、びくりと震えた。
裂けた翼の縁が、ゆっくりとふさがって、乱れていた呼吸が、かすかに、けれど確かに整いはじめる。
だが――その瞬間。
ミレフィーオの視界が、ふわりと揺れた。
世界が、遠ざかるように、静かに傾いていく。
(……あ……)
指先の感覚が、すうっと薄れていく。
足元の大地が、まるで夢の底に沈んでいくように、遠くなる。
それでも彼女は、微笑んでいた。
命が、命へと受け渡されていく、そのぬくもりだけを、胸に抱いて。
それを――夜の巫女は、黙って見ていた。
セレナーデ・モルテフォールは、首をわずかに傾ける。
その仕草には、疑問も、興味も、感情の揺れすらなかった。
「……非効率だ」
夜の底から響くような、冷たい声。
それを続ければ、お前は死ぬ――そう続けた言葉も、ただの事実の羅列にすぎなかった。
警告でも、脅しでもない。そこにあるのは、ただ“理解不能”という静かな断絶。
ミレフィーオは、ゆっくりと顔を上げた。
視界はすでににじみ、輪郭は曖昧になっていた。それでも、その瞳だけは、かすかに光を宿していた。
「……それ……が……?」
かすれた声で、笑う。
命を削る痛みの中で、それでも、どこか優しく。
「……それ……が……どう……しました……?」
セレナーデの眉が、わずかに動いた。
それは、夜の帳にさざ波が立つような、ほんの微かな変化。
「……理解できない」
その言葉には、確かに“困惑”があった。
けれど、それは人の感情とは異なる、理に沿わぬ現象を前にした、夜そのものの静かな拒絶だった。
「お前の命は、交換条件として見合わない。聖獣一体を助けるために、聖女が死ぬ価値はない」
その瞬間――
ミレフィーオの瞳に、かすかな怒りの光が灯った。
それは炎ではなく、静かに燃える灯火のような、揺るぎない意志。
「……価値……?」
息をするだけでも苦しいはずなのに、その声には、確かな芯があった。
「……そんな……計算……」
彼女は、胸に手を当てる。
その奥で、まだかすかに脈打つ命の鼓動を、確かめるように。
「……いりません……」
震える指で、イルヴァの身体を、そっと抱きしめる。
その温もりが、今にも消えてしまいそうで、必死に包み込むように。
「……目の前で……今にも……消えそうな……命が……ある……」
言葉を、一つひとつ、噛みしめるように紡ぐ。
それは祈りではなく、誓いのようだった。
「……それを……助ける……」
「……それが……わたしたち……」
小さく、けれど確かに。
「……巫女で……聖女の……在り方……です……」
――その言葉が。
夜の巫女の胸の奥へ、音もなく突き刺さった。
(……聖女……の……在り方……?)
理解できないはずの言葉。
けれど、なぜか――その響きが、胸の奥でひび割れを生んだ。
知らないはずの“痛み”。
棺の中で、ただ終わりを与えるために造られた存在。
感情も、願いも、持たぬはずの器。
その深奥に、“在り方”という問いが、初めて浮かび上がった。
夜の静寂に、かすかな揺らぎが生まれる。
それは、決して夜が知るはずのなかった、命の光の残響だった。
――その瞬間。
闇が、笑った。
空気が、重く、甘く、腐り始める。
「……フフ……」
低く、愉悦を含んだ声。
影の奥から、二つの存在が、ゆっくりと姿を現す。
一人目は、黒き外套に身を包み、歪んだ信仰の象徴のような笑みを浮かべる男。
虚邪の教祖 《ルーグ・ヴェルミオン》。
「いやはや……実に美しい光景だ」
拍手すらしたくなる、とでも言いたげに。
「命を差し出す“聖女”。そして、それを理解できぬ“夜”。――実に、対照的だ」
そして、もう一人。
影の中から、一歩、前へ出る。
かつて王家の紋章を胸に刻み、今は闇に侵され、黒き魔力を纏う男。
ヴァルガ=ヴァルハイト。
その瞳は、かつての優しさを失い、だが確かに“意志”を宿していた。
「……無駄だ」
低く、歪んだ声。
「聖女が何を語ろうと、命は“鍵”として使われる」
ミレフィーオの身体が、びくりと震える。
だが、それでも――イルヴァを放さない。
ヴェルミオンが、楽しげに目を細めた。
「見給え、ヴァルガ殿。これが“光”の本質だ」
「与え、燃え尽き、それでも悔いない」
闇が、ゆっくりと近づいてくる。
選択の時は、もう終わった。
ここから先は――奪う者と、捧げる者の、真正面からの対峙。
そして夜葬の巫女セレナーデは、まだ知らない。
この聖女候補の言葉が、やがて自分自身の“存在理由”を、根底から揺るがすことを。
闇の中で、星は、さらに深く、動き始めていた。
ガルディウス、ヒジカタ、リリア達が出会う短編となります。お時間のあるときにでも、こちらも読んでいただけたら幸いです。
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