第9話 戦火の夜に生まれたぬくもりが、王子の心に恋の息吹を宿す
神殿の鐘が鳴り渡った。
澄みきった音は天へ吸い上げられ、やがて大地へと降り返り、空気に見えない波紋を広げてゆく。
聖堂に咲く白い花びらがひとひら舞い、ひかりの粒子のように揺れた。
祈りの香が満ちる空間で、リディアーヌは静かに祭壇へひざまずく。
銀糸の髪は淡い光を帯び、肩を伝うたびに天上から落ちる星屑のようにまたたく。
青銀の瞳は深い湖面のように揺らぎなく、呼吸すら神意とひとつに溶け合うかのよう。
彼女がそこに在るだけで、聖堂の空気は清められていく――まるで月光そのものが、人の姿を借りて降り立ったようだった。
「……大神セラフィードが、再び“選定者”を現世へつかわすとは」
鈴の音のように柔らかく、同時に人の情を超えた冷たさを秘めた声。
手にした王家の命令書をなぞる指先は、白磁の彫像を思わせるほど静かで美しい。
「“保護”とは名ばかり……実際には“拘束”と“支配”。ええ、王家らしい判断ですわ」
ふっと微笑む。
慈愛を湛えながら、祈りよりも鋭い光を宿す――神の代弁者でありながら、神殿の枠すら拒む者の微笑みだった。
肩に舞い降りた蝶の霊――ミルティナが、淡光を震わせながら問いかける。
『主よ……王家と神殿、どちらに御心を置かれるのですか』
「どちらにも与しません。そして――どちらも、見逃しません。わたくしが従うのは神意のみ。この身に流れるすべては、ただそのためにあります」
聖堂の光が静かに脈打ち、空気は一層深い静寂に沈んでいった。
まるで神そのものが、彼女の背に密やかに立ち上がったかのように。
だがその奥に、わずかに影が揺れた。
リディアーヌの瞳に、ふっと人らしい色が差す。
「……ミレフィーオ」
土の大地母神の巫女。神聖を最も尊び、真面目で、誰よりも大地を愛した少女。
その名を呼ぶとき、リディアーヌの表情はほんの一瞬だけ母のような柔らかさを帯びた。
「彼女は、ラゼの村で“虚邪の穢れ”に触れたのでしょう。あの子が……無事でいる確率は、決して高くはありません」
袖に隠れた指が、わずかに強く握られた。普段なら決して見せない感情の揺らぎ。
「“虚邪の穢れ”……忌まわしき、底知れぬ闇。あれは大地すら喰らい、魂を曇らせる。人が触れてはならぬ異質そのもの」
青銀の瞳に、深い憎しみでも恐怖でもない、“畏れ”と“覚悟”が混ざる色が落ちた。
「……二度と、この大地に根付かせてはなりません。神々の御前にあれほど不浄なものはない」
ミルティナが震える。
『主……ミレフィーオは……』
「生きていてほしい。あの子は純粋でしたから。……けれど、もし穢れが彼女を飲み込んでいるのなら」
リディアーヌの声は、深い湖底のように静かで酷薄だった。
「――救済も、浄化も、滅びも。わたくしが受け持ちましょう」
その宣告は、祈りより雄弁な“神の代弁”だった。
銀の鐘が鳴り響き、聖堂に光が満ちる。
次の瞬間、その音色は王都全域へ広がり、新たな“神話の夜明け”を告げる鐘声となった。
そのころ。
王都から遠く離れた、静かな辺境の療養所。
朝のひかりがやさしく差し込み、草の香りと小鳥の声が、眠っていた空気をそっと揺らしていく。
柚葉は白い寝具の上で、しずかに目を覚ました。
包帯の下で、かすかに光を帯びる手のひら。
昨日の出来事が、まだ夢の名残のように胸をざわつかせる。
「……ここ、どこ……?」
「もう安心していいよ。ここは辺境警備隊の療養所だ。君は……無事だよ」
その声を辿るように振り返ると――窓辺に立つルシエルが、ひかりに溶けるような微笑みを浮かべていた。
金の髪が朝日を透かしてきらりと揺れ、軽装の肩にふわりと落ちる光が彼の輪郭を淡く縁どる。
「助けてくれて……ありがとう」
「いいや、礼を言うのはボクの方だ。君がいてくれたから……あの夜、救えた命がある」
やわらかな声。
けれどその奥には、真っ直ぐな想いがしずかに宿っていた。
「……どうして、あたし……あんな力が……?」
「それはね……君が“選ばれた理由”に、そっと触れたからだと思うんだ」
ルシエルの言葉は、朝のひかりよりも優しく、それでいてどこか“未来”の匂いをまとって響いた。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、二人のあいだをすべる。
その風に触れただけで、柚葉は胸の奥がきゅっと熱くなるのを感じた。
あの時――彼の腕に抱きとめられた瞬間。
怖くて仕方がなかったはずなのに、胸の奥が不思議に温かくなったあのぬくもり。
それが今も、そっと息づいている。
ルシエルの横顔を見つめているだけで、胸の奥で何かがひっそりと芽吹いていくのを感じた。
この世界で、自分を待っているものは何なのか。
まだ形にもならないその答えが、きらきらと胸の底で光を散らしていく。
それはまるで――誰もまだ知らない物語が、柚葉の中で静かに目を覚ましはじめたかのようだった。




