プロローグ
夕暮れのアスファルトは、まだ昼の熱を残していた。靴底にまとわりつく温度が、知らない街のざわめきと混じり合う。ビルのガラスに映った自分の影が、少しだけ小さく見えた。
信号が変わる音に気づかず立ち止まっていると、背後から小さく舌打ちが聞こえた。慌てて歩き出すと、肩をかすめて通り過ぎた人の香水が鼻を刺す。胸の奥に、ざらりとした違和感が溜まっていく。
「……にぎやかすぎる」
声は自分でも聞こえないほど小さかった。
曲がり角に、小さな公園があった。鉄製のブランコが風に揺れ、鎖がぎしぎしと軋む音を立てている。都会の真ん中に、ぽつんと取り残されたような場所。
そこで、視界の隅に動いた影を見た。
ふわり。
猫かと思った。けれど、耳の形が違う。丸く、柔らかそうで、光を受けて透けて見える。
生き物は、砂場の端にしゃがみ込んでいた。真っ白な毛並み。掌ほどの大きさ。こちらを見上げると、黒曜石みたいな瞳がまん丸に開く。
その瞬間、胸の奥が温かくなる。
「……なに?」
思わず声が出ると、小さな体はびくりと震えて砂を蹴った。だが逃げない。足元までとてとてと駆け寄ってくると、靴の先に額を押しつけてきた。
ぬくもりが、じんわりと伝わる。
「おいで」
しゃがみ込んで手を差し出すと、ふにゃりとした感触が掌に広がった。毛の中に埋もれるほどの小さな耳がぴくぴくと動く。
都会に、こんな生き物がいるはずがない。
それなのに、自然に抱き上げていた。
――そのとき、公園の奥から視線を感じた。
振り向くと、街灯の下に一人の女の子が立っていた。
長い髪が夜風に揺れている。制服姿。年は自分と同じくらいだろうか。
目が合った瞬間、冷たい電流が背中を走った。
「……それ、触っちゃったんだ」
彼女の声は淡々としていた。だが言葉の裏に、何かを試すような響きがあった。
「知ってるの?」
「知らないほうがよかったのに」
彼女はゆっくりと近づいてきて、こちらの腕の中を覗き込む。小さな生き物は彼女を見た瞬間、さらに強く胸に顔を埋めてきた。
「こいつ……」
「もう離れられないよ」
彼女の目は街灯に照らされて光っていた。まるで何かを見透かすように。
「どういう意味?」
「ここじゃ話せない」
彼女は短くそう告げ、踵を返す。
「ついてきて」
反射的に足が動いた。抱きかかえた小さな体が、心臓の鼓動と同じ速さで震えている。
狭い路地を抜けると、ビルの隙間に隠れるように古い階段があった。鉄が錆びて赤茶けている。
彼女は迷いなく上っていく。
途中、足音がやけに大きく響くことに気づく。夜風に混じって、遠くでサイレンが鳴っていた。
屋上のドアを押し開けると、一面の夜景が広がった。都会の光は星を飲み込み、空を白く染めている。
彼女はフェンスの前に立ち、振り向いた。
「名前は?」
唐突に問われて、言葉が詰まる。
「……」
口にしようとした瞬間、腕の中の生き物がくぅと鳴いた。その声に遮られる形で、自分の名は夜の街へ溶けていった。
彼女はそれを確認するように、静かに頷いた。
「この街にはね、隠された境目がある」
風が髪を舞い上げる。
「普通の人は気づかない。でも、その子に触れたってことは……」
彼女の言葉が夜空に消える。
不意に、抱いた小さな体が震え、淡い光を放ちはじめた。
掌が温かく染まり、胸の奥まで熱が流れ込んでくる。
「……っ」
息を呑んだ瞬間、街の光が揺らいだ。ビルの輪郭が滲み、夜景が別の色に変わっていく。
「見えてきたでしょ」
彼女の声が耳元に落ちる。
視界の中に、無数の影が動いていた。街の隙間を縫うように、形の定まらない生き物たちが蠢いている。
喉が乾く。声が出ない。
腕の中の小さな存在だけが、唯一確かなぬくもりを持っていた。
「……なんで、俺が」
ようやく絞り出した言葉に、彼女は微笑んだ。
「優しすぎるから」
その笑みは、どこか哀しい影を落としていた。
――そして夜景の奥で、誰かの笑い声が響いた。