第1話「転生先は最強の悪役」
■■は、旧型のフルダイブデバイスを外し、ほうと息を吐いた。
『Legend of Ragnarok』は、数年前に発売された初期型のVRMMORPGである。
次世代の没入体験と高い自由度に大いに賑わい、注目されていたのも、発売当時のこと。現在は矢継ぎ早に繰り出される新タイトルに押され、プレイヤー数は激減する。
しかし、最新のタイトルと比べても見劣りしないクオリティや、魅力的なキャラクターによる根強いファンも多く、■■もその一人だった。
「よし、これで覚悟はできたかな」
病床の真っ白な布団の上にデバイスを置き、優しく撫でる。
■■の人生は『Legend of Ragnarok』の中にあった。
小学生にして国指定の難病を患い、病院通いの生活が続いた。何度も入退院を繰り返し、十七歳を迎えた最近では家よりも病棟で眠る夜の方が多くなっていた。
このフルダイブデバイスは、仲の悪い両親に無理を言って買ってもらったものだ。
いや、仲が悪いという説明は適切ではないかもしれない。
両親は■■に興味がない。
これを買ってくれたときも、「これならずっと一人で大丈夫ね」と言っていて、ああ、きっと、■■と関わらない理由が欲しかったのだなあと思った。医療費を捻出するのが面倒だという声も聞いていた。
■■の存在は誰にも望まれていなかった。
それでも、不満はなかった。
■■にとっては、この現実こそが非現実のようなもので、全ては『Legend of Ragnarok』の中にあったから。それだけで生きてこられたから。
いや、一つだけ文句をつけるとしたら――。
「……結局、ティアは幸せになれたのかな」
ティアナディア。
『Legend of Ragnarok』に登場する敵役、ベリウスに使えるメイドであり、■■の推しキャラだ。適役でありながらプレイヤー内でも非常に人気が高く、二次創作も盛んで、運命的にも実装されるのではと噂だった固有ストーリーを■■が独自に発見し――しかし、タイムリムッとがきてしまった。
まあ、あの状態からハッピーエンドというのもなかなか考えられないから、根本からやり直すくらいしかやりようはなさそうだが……。
「■■さん。心の準備はできましたか?」
二人の看護師が迎えにきた。
今から■■は命を落とす可能性のある、重大な手術をする。
取り分け死亡リスクが高かったわけではないはずだが、病気や手術内容について丁寧に説明してくれた医者の言葉もテキトーな相槌で聞き流していたので、覚えていない。
「えっと、親御さんはですね……」
気まずそうな看護師さんに、■■は頭を振る。
来るわけありませんよ。むしろ、今日の手術で死んでくれた方がありがたがるんじゃないですかね――そう言いかけて口を噤んだ。
別に看護師を困らせたいわけではなかった。
「大丈夫です。準備はできてますよ」
看護師は気の毒そうな顔をして、壊れ物に触れるように■■の手を取る。
車椅子に座らされる。リノリウムの床を辿って手術室へ。
目が痛くなるほどの明るい照明。
無機質な白。
医療スタッフの足音や、医療器具の金属音が響く。
最終の本人確認をされ、いよいよ手術が始まろうとしていた。
麻酔により徐々に不鮮明になる意識の中、考えていたのはティアナディアのことだった。
主人を慕う気の抜けるような笑顔。
いつでも前向きで、少し抜けているところもあるけれど、強く可愛らしい。
そして、主人が死んだが故に膨らませる強い愛情からなる狂気も……胸は居たくなったが美しかった。その宝石のような瞳がプレイヤーである自分を捕らえることはなかったけれど――それでも、彼女のおかげで今日まで生きてこられた。
ありがとう。ありがとう。ティア。
◇
■■は目を覚まし、顔を顰める。
暖かな日差し。微風に揺られて深い緑の香りが鼻腔をくすぐった。
「ここは……手術は成功したのか?」
体を起こし辺りを見回す。等間隔に木々が立ち並ぶ森の中。そこは鬱蒼としたというよりは、温かく穏やかで人の手が加えられたような人工的な調和があった。
お約束に習って頬を抓るが痛みは健在。
見覚えがあるけれど、見覚えのない場所だった。
がさり。奥の灌木が揺れ、白いウサギが現れた。
長い耳に一本角。魔獣特有の紅い瞳。
間違いない――。
「……ホーンバニー?」
手を伸ばすと、ホーンバニーは脱兎の如く逃げ出した。
それを追って迷わず駆けだすと、すぐに森は開け、その正面には広大無辺な丘陵が広がっていて――その更に奥には、城壁とファンタジー然とした街並み、幾重にも喰い合うように尖塔が連なった特徴的な形の巨大な城が鎮座していて。
ああ、もう疑いようもない。ここは。
「『Legend of Ragnarok』の世界だ……」