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キッチン玲奈

作者: 南砂 碧海

 その店は、住まいの最寄り駅近くにある洋風居酒屋で、洸也(こうや)はいつも夕食代わりに通っている。そこには、お気に入りの女子マスターがいた。その()に会うために通っていたと言っても過言ではない。店の名前は『キッチンRENA』で、彼女のネームプレート『RENA』から彼女の店だと分かっていた。


 夕方6時半になるとキッチン玲奈に行くと、いつものように店のカウンター奥から二番目の席に座った。カウンター内にいるお気に入りの『RENA』という女性にハイボールとパエリアを注文する。彼女は、手際よくハイボールとパエリアを作って出してくれた。洸也は、ほぼ毎日の夕食代りに通っているが、彼女への思いはなかなか言い出だせなかった。


「いつも、ありがとうございます。今日は、ジャーマンポテトをサービスさせて頂きますね。ごゆっくり……」

「ありがとう。RENAちゃんのハイボールと食事で僕の身体はできているからね。感謝しています……」

「私も洸也さんが、夕方六時半に来てくださると元気が出るんです。私も、そこから『がんばろう』って1日のお仕事のスタートなんですよ。いつも、ありがとうございます」

「ところで、RENAちゃんの名前、漢字知りたいな……。どうしてプレートをアルファベットにしたの?」

「私の名前の文字は、心を開いた人だけに教えるつもりなんです。でも、こんなに来てくれてる洸也さんなら教えても良いかな。私の方だけ、いただいた名刺で名前知ってるしね。『玲奈』って書くんです」

「じゃあ……今、僕に心を開いてくれたのかな……」

「どうでしょうね……。良いお客さんなのは間違いないですけどね」


 玲奈から言葉の響きは、いつも心地良いが……本当はどうと、洸也はその言葉で悩んでしまっていた。

(どう思ってるのかな? 良く来る客への社交辞令かな。デートに誘っても、きっと無理だろうな……)


 そんな事を勝手に考えているのだが、要するに洸也はデートに誘う勇気がないのだ。いつもそんなレベルで会話が止まってしまう。いつもカウンター席なので、既にお互いの軽い身の上話はしていた。玲奈がカウンターの中で立つ凛々しい姿に憧れながら、いつも洸也は訪れた日の静かな晩餐の一時を過ごしていた。


 ある日、玲奈に思い切って聞いてみた。


「玲奈ちゃんは、ボーイフレンドいるの?」

「私なんかと、付き合ってくれる人なんていませんよ。私、それより自分のお店を出したいと思ってるんです。今は、お店を借りているので。洸也さんみたいな常連さんが出来たら良いなと思っています」

「新しい店が出来たら、絶対行くから教えてね」


そ んな内容を話して終わったが、そこで本当に言いたかった言葉は違っていた……。


『玲奈ちゃん。二人で、これからの未来を一緒に歩いてくれませんか……』


 なんて、洒落た言葉を言いたかったが、勇気がなくて気持ちを言い出せなかった。今日は、彼女にボーイフレンドがいないという事が分かっただけでも大収穫だと思っていた。……というか、そう思うしかなかった。


 次回のキッチン玲奈の訪問は、珍しく一週間後になってしまった。洸也の仕事が月末〆の残業続きで帰りが遅く、閉店までに間に合わなかったからだ。店に入りいつもの席に座ると、玲奈が微笑みながら言葉を掛けてくる。


「今回は、随分ご無沙汰でしたね。もし、私がお店を出しても本当に来て頂けるんですかね……」

「ごめんね。月末で本当に仕事が忙しくてさ……。ハイボールとアヒージョをください。ハイボールには、ミントを入れてもらえませんか……」

「お待ちくださいね」


(玲奈ちゃんは、怒っているのかな……)


「ハイボールにオレンジミントを添えてみましたが、お好みに合いましたかね?」

「サラダは、頼んでないけど?」

「グリーンサラダはサービスです。どうぞ、お召し上がりくださいね」


 玲奈は、冗談半分に店に来ない事を茶化したのだが、洸也の心は真面目に受け止めて焦っていた。玲奈の心が、このまま自分から離れてしまうのではと思ったからだ。玲奈が作ってくれたハイボールは久々で、喉に沁み渡りとても美味しかった。喉も乾いていて一気に飲み干すと、一週間のブランクを埋めるように二杯目を注文する。洸也のテンションは、玲奈を見つめながら次第に上がって行く一方だった。サービスのグリーンサラダを食べようとして手元に近付ける。洸也がサラダを食べようと葉を掴むと、ミントの葉の裏側にアブラムシの卵のようなものが付いていた。そのことで玲奈に話し掛けてみる。


「この葉の黒い粒々なんだろうね? サラダのミントの葉は、食べないから別に良いけどね」

「アブラムシの卵かしら……。良くミントの葉には付いてることが有るんですよ。気付きませんでした……ごめんなさい。トッピングにこれをお付けしますね。 どうぞ……」


 玲奈は、洸也のサラダのミントの葉に一匹のテントウムシを添えた。オレンジ色のテントウムシは、可愛らしく動いてアブラムシの卵に近付くと食べ始めた。テントウムシはアブラムシを捕食する天敵だから当然だが……流石にこのサプライズには驚いた。サラダが食べたい訳でもなく、その小さな世界の光景に見とれていた。今日は、既にハイボール三杯目を追加でほろ酔い気分になっている。彼女の顔がとても優しく可愛らしく見えた。今日の洸也は、軽い酔いも手伝って少しだけ勇気があった。


「これからは、玲奈ワールドで一緒に暮らしたいな。僕は、テントウムシと一緒に、君とこのミントの葉を守りたい……。君がお店を出すなら会社を辞めても良いよ。君と一緒に生きて行けたら幸せです」

「ありがとう。洸也さんが、本当にそう言ってくれるなら、同じ未来を考えたいと思います」


 洸也のセンスのない滅茶苦茶なプロポーズだったが、玲奈は冷静に受け止めてくれた。少し酔っていたので、これは現実かと頬を叩いてみたが心地良い痛みと幸せが走った。俊介は半年後に会社を辞め、キッチン玲奈のギャルソンとして働くようになる。一年後、二人は店を手に入れて、同じ場所に『キッチン玲奈』をリニューアルオープンさせた。お酒やお摘み食材も玲奈のアイデアで工夫されている。


 その店の人気サラダ『ミントの森』を注文すると、可愛らしい一匹のテントウムシが載っていて動き回っている。客はそれを見ながら酒を楽しみ少年時代へと想いを馳せる。玲奈の多彩なアイデアと演出で店の客足もかなり伸びた。いつからか、洸也はこの店を『玲奈ワールド』と呼ぶようになっていた。


「玲奈、いつもありがとう。お客さんも順調に増えてるし、これから忙しくなっても大丈夫かな……。」

洸也が、少し膨らんだ玲奈のお腹を心配そうに見つめて呟いた。

「大丈夫よ。ちゃんと、赤ちゃん産まれてからの新メニューも考えてあるんだから」


 そう言うと、哺乳瓶に入ったミルクカクテルの図案を見せてくれた。洸也はそれを見ると、思わず玲奈ワールドの新メニューに苦笑した。『レナ・ショコラミルク』と書いてあるレシピを見ると、チョコレートリキュールと牛乳を混ぜ合わせるカクテルらしい。哺乳瓶型の容器でブレンドした後に、お酒を注ぐための洒落たグラスとミントの葉を添えて出すのだ。


 玲奈が復帰してお店を再開すると以前のように客足が戻ってきた。新メニューの『レナ・ショコラミルク』は、それなりに人気があった。殆どの客は透明なグラスに注いで、素敵なグラスにミントの葉を載せて飲む。一部の客は哺乳瓶のような吸い口に穴が開いてるゴムの吸い口に持っていき飲む客もいた。最初は恥ずかしそうだが、遠い昔の乳児に帰ったように幸せそうに口に含んで飲んでいた。


 閉店後、二人で賄い飯とワインを味わいながら話をする。


「玲奈ちゃんが復帰してからのお店はすごいな。お客さんも皆が楽しそうだね。僕も生活が変わって、今は会社時代とは違ってストレスフリー……幸せ一杯です。君と出会えて本当に良かった。ありがとう」

「あなたが、一緒に頑張ってくれたから、ここまでお店も順調に進んで来れたんです。それに、私達の子も産まれました。お店の仕事で一緒に過ごしていても泣かない明るく元気な子。この前のお客さんなんか、ぜひ抱っこさせてくださいなんて言われて、しばらく離さなかったんだから……」


 その子に、玲奈は話し掛けた。

明日美(あすみ)ちゃん、これからも、お父さんとお母さんを応援してね。いつか落ち着いたら、本当の夢の国『玲奈ワールド』に遊びに行こうね。テントウムシさんと、いっぱい遊べる所にね……」


 玲奈が、少し紅くなった顔で話しかけると、明日美ちゃんは二人に笑顔を見せて、小さな手を動かした。その小さな手には、二匹の赤いテントウムシが停まり楽しそうに円を描くように歩いていた。


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