6.銀の太陽
ノーナは日常を取り戻した。仕事だけに邁進する、変わりのない日々……のはず。
「だ、だれかこの書類を届けてくれませんかぁぁ……」
経理局内にむなしく自分の声が響く。日頃の関係をかんがみれば、誰も応えてくれないことは分かっていた。
しかしノーナは手元にある書類――騎士団本部の経費申請書(差し戻し)――をどうしても、自分で持って行きたくなかったのだ。
聞くところによると新人騎士の訓練は無事に終了し、シルヴァもこの王宮に戻ってきているらしい。
エレニア王国の王宮はとてつもなく大きい。王家の住む宮殿と政府の各庁舎、騎士団本部に礼拝堂、国立図書館まである。
だからノーナが彼と偶然会う確率は、それこそ騎士団本部に自ら赴かない限りとてつもなく低い。
それでもあの日、奇跡的な偶然で会ってしまったからこんなに悩んでいるんだけど……
仕方なく重い腰を上げ、ノーナは騎士団本部へと向かった。トボトボと歩く足取りは鉛のように重い。それは気分的なものなのか、単なる疲労のせいなのか。
上司のトゥルヌスさんは家の都合でここ数日休んでいるため、局長代理の権限はノーナにある。もともとノーナが回しているような職場だが、上司不在の影響は大きかった。
書類の修正や確認を頼みたくても聞いてくれる人がいないので、最近は一人で深夜まで残業する羽目になっているのだ。
たとえ仕事にやる気がなくても、業務を割り振ってくれるトゥルヌスさんの存在は必要だと実感させられる。
ノーナの気分に反して外は快晴だ。夏本番を迎えた太陽の光を受けて、大理石の柱や床が眩しいほどに煌めく。照り返してくる光線は熱を帯び、ノーナの首筋に汗を滲ませた。
騎士団本部が近づいてくると、外に訓練場の区画がありそこで訓練している騎士たちが見えた。彼らが新人騎士かもしれない。遠目にもまだ少年のような顔立ちの者もいて、シルヴァと比べるとひょろりとした体格も多い。
これまで何度もここへは訪れているけど、興味を持って目を向けたのは初めてだった。
そのとき、騎士たちの中でも圧倒的に存在感を放っている男が視界に入った。
――シルヴァだ。
騎士には文官と比較して平民が多くいるらしいが、やはり貴族の特徴である明るい髪色が多い。そんななかでも彼の髪はいっそう輝いて見えて、一瞬で見つけてしまった。
あの髪に触れた感触を思い出し、無意識に手を握りしめる。
新人騎士に並んでも彼の体格は段違いだ。こちらに背を向けているから表情は伺いしれない。数名集めて、なにか指導しているように見える。
シルヴァが王宮にいるときはどんな仕事をしているのか、仕事以外もどう過ごしているのか、結局あの日は彼のことを何も聞けなかった。
そのせいかノーナは遠くからずっと眺めていたいような気持ちになったものの、足は止めなかった。
彼と肌を重ねたことはノーナだけの秘密で、無かったことにするべきだ。きっとシルヴァもその方が幸せだろうし、潜在的な記憶を刺激しないため彼との接触は避けようと思っている。
……思っているのに、なぜか足が速く動いてくれない。何かが自分を引き留めているとして、それは間違いなく自分の心なのだろう。
あともう少しで訓練場が見えなくなるというとき、シルヴァが何かに呼ばれたようにこちらを振り向いた。
「やばい!」
ノーナは慌てて廊下の先を目指した。が、急に速く動こうとしてもノーナの運動神経が追いつかず、その場でズッコケてしまった。
べちん! と床に手と膝をぶつけ、涙が出るほど痛い。
(……まさか見られてないよね?)
そう思っても確認するのさえ怖くて、ノーナは落ちた書類を拾ってそそくさとその場を後にした。
事務所で書類の不備を説明して部屋を出るころには、ノーナも直前の失態を忘れかけていた。だがひと気のない廊下を歩いていたとき、柱の陰からヌ、っと大きな影が現れる。
「うわぁぁ!?」
死ぬほど驚いた。野生の熊かと思って大きく背を反らす。
バランスを崩したノーナはまた尻もちを付きそうになって、無意識に虚空へと手を伸ばした。
ノーナの手は空を掴むかと思われたが――シルヴァによって握られ、尻と大理石の激突は防がれた。
「……転びすぎだろ」
「あっありがとうございます! じゃあ、僕は急いでいるのでこれで!」
やばい! なんでこんなところに!?
ノーナは失礼と知りながらも大慌てでその場を離れようとした。でも掴まれた手は外れることがなく、足を踏み出したところでクンッとつんのめるだけに終わる。
この手が離されないかぎり逃げるのは無理。じゃあ誤魔化すのは?
「あのー……ウィミナリス様。なにか経理局に御用でも?」
「お前はあのときなぜ俺の部屋にいた?」
「…………」
ぜんぜん誤魔化せてない! 最後に押さえつけられたとき、薄暗かったから顔を覚えられていない可能性もあると期待したんだけどなぁ……
魔法がかかっている間の記憶は抜け落ちているようだが、魔法をかける直前にシルヴァが経理局を訪れていたから、すぐにノーナだと見当がついてしまったのかもしれない。
回答によってはやはり警吏につき出されてしまうだろう。ノーナは必死に考えを巡らせた。暑い空気のなか冷や汗が背筋を伝う。
「……すきで」
「は?」
「ず、ずっと好きだったんです。う、ウィミナリス様と寝所を共にしたような気持ちになりたくて……えーと、眠っているところに忍び込みました。でも、安心してください! あなたは抱きまくらかなにかと間違えて僕を抱きしめてくれた。それだけです。自分勝手なことをして、も、申し訳ありませんでした……!」
矛盾しかない説明だった。
しどろもどろになりながら、ノーナは『男好きのストーカー』というレッテルを貼られる覚悟をする。それでも、信じてもらえるのならばおそらくギリギリ犯罪じゃない。
シルヴァに気味悪がられるのは仕方ない。甘い彼を見てしまったあとだと悲しさに胸が詰まるけど、なにもかも自分が欲を出したせいだ。
あの状況に、彼の持つ純粋さに、絆されてしまった。ちゃんと拒否すれば、彼だってノーナに手を出しはしなかっただろう。
ぎゅっと目を閉じて、深く頭を下げる。その拍子に掴まれた腕は解かれたけど、シルヴァはなかなか喋り出さなかった。無言の時間が重い。
しばらくして肩に手を置かれたとき、ノーナはビクッと身体を揺らした。おそるおそる顔を上げようとするが、内心怖くて仕方がない。
彼はどんな顔をしているだろう。鬼神という肩書きに違わぬ、鬼みたいな表情? それとも、心底ノーナを軽蔑した表情だろうか。
「……顔を上げてくれ」
言われるがまま声の方へ視線を向けると、なぜかほんのりと頬を染めたシルヴァが口元を手で覆っていた。予想していた反応と違いすぎて「えっ」と小さく声を上げてしまう。
「悪いがお前の気持ちには応えられない。それに……もうそんな無謀なことをするな。俺が敵だと認識していたら、お前に怪我をさせていたかもしれない」
「ほぇ」
気の抜けた声が出てしまったのも無理はないと思う。まさかとしか言いようがないけど――シルヴァに振られてしまった。しかもお説教つきで。
ノーナの言い訳は告白と捉えられてしまったんだろう。それはいい。
でも、罵倒されてもおかしくないことをしでかしたのに、彼は誠実な言葉をくれた。なんならノーナのことを心配しているようにも聞こえる。
シルヴァは良い人すぎる。こんなにも簡単にノーナのやったことを――しかも嘘の内容を――受け入れてしまうなんて大丈夫かな、とむしろ彼が心配になった。
ぽけっと呆けているノーナを見遣って、シルヴァはもう話は終わったと言わんばかりに踵を返した。
ノーナはただその場に突っ立って彼を見送る。これで良かった。
想定していたよりも遥かにいい結果で、あの『間違い』をなかったことにすることができたのだ。
だからホッとしていいはずだった。諸手を挙げて喜んだっていいはずだ。
……それなのに胸に残るのは、飲み込みきれないような、ざらついて苦い想い。
我知らず唇を噛み締めていたノーナは、廊下を歩いていくシルヴァが何かを迷うように足を止めたことに気づいた。彼は振り返ってノーナに問う。
「お前、名前は?」
「……の、ノーナ」
「ふぅん。ノーナ、今日は早く帰って、ちゃんと寝た方がいいぞ」
シルヴァは自分の目の下を指さして、ノーナの隈を指摘した。それだけ告げると、彼は今度こそ廊下の角を曲がって見えなくなってしまった。
「…………」
こんなことで心が浮き立つなんて、可笑しい。働きすぎで疲れているノーナは、若いシルヴァから見ればよっぽど酷い顔をしていたのだろう。
でも……名前を呼んでくれた。知ろうとしてくれた。
あの夜、ノーナの名前を愛おしげに呼んでくれたシルヴァはもういないし、年上と知って驚いていた彼もいない。ノーナのくだけた話し方をずっと続けてほしいと望んだ彼にだって、二度と会えないだろう。
本当に振り出しに戻っただけだ。なのに……いまの一瞬、ノーナの名前を呼んだシルヴァにあの日の片鱗を感じたことが、どうしてこんなにも嬉しいのか。自分でも自分の感情が分からなかった。
太陽の光が容赦なくノーナを焼こうとしている。きっと熱いからだ。頬が熱をもっている気がするのは。