5.宝物の思い出
「は? 惚れ薬?」
友人のあっけにとられた顔を目の当たりにして、ノーナは人に相談するのは早まったかな……と思った。
ピークスは学園時代の友人で、ノーナと同じく王宮で働いている仲間である。ずっと同じ王宮で働いていることを知らなくて、一年ほど前にピークスの局の部屋が変わったおかげで偶然再会したのだ。
二人は王都の歓楽街にある酒場で食事をしつつ、酒を楽しんでいた。人が出入りするたびに夜風が店内を吹き抜けて気持ちいい。夏の盛りを迎えようとしているテュッレーの街は、涼しくなる夜にいっそう賑やかになる。
ノーナには彼くらいしか友人がいないが、ピークスはそうでもない。彼は世渡り上手なタイプで、仕事でも上手くやっているらしい。
癖のあるブラウンの髪に明るいオレンジの瞳。頬に散らばるそばかすが彼の親しみやすさを後押ししている。性格はかなりしっかり者で、学園時代はおっちょこちょいなノーナを何度も助けてくれた。
最近の目まぐるしい出来事をどうしても自分の中だけでは抱えきれなくて、ピークスと会う予定だった翌週末にノーナは打ち明けたのだ。迷いの森で出会った魔女に惚れ薬をもらったこと、それをトゥルヌスさんに使おうとして……誤ってシルヴァに使ってしまったことを。
話を聞き終えたピークスはノーナの肩を優しく両手で掴んで、慈愛に満ちたまなざしで話しかけてくる。
「可哀想に……ノーナ、働きすぎなんだよ。おれも付き添ってあげるから、一緒に病院へ行こう」
「いや、鮮明な幻覚を見たとかじゃなくてね」
「無理しなくていい。まずは身体と心を休めようか」
「いや、あの……」
周囲は人々の話し声に満ちている。喧騒で自分たちの会話が誰かに聞かれる心配はないだろうと判断して、ノーナは必死に説明した。
なにせ見せられる証拠が全くないから、魔女の家の様子や惚れ薬の詳細な使い方、あとは……シルヴァとのあれこれについてまで、顔を真っ赤にして話すしかなかった。
◇
――あの日は大変だった。
シルヴァはベッドの上にノーナを寝かせたあと、また感極まったように「かわいい」と声を漏らし、胸の中に隠すみたいにしてノーナを抱きしめた。ノーナはどうしてか抵抗できず、されるがままぬいぐるみのように抱かれていた。
(恋されるって、こんな気持ちなんだ……)
ノーナのことを大切そうに抱きしめているシルヴァの恋心を想像すると、胸がくすぐったい。いまだけとわかっていても、幸せと悦びが一緒くたになって襲ってきた。
彼の身体からは少しの汗と、ジンジャーのようなスパイシーな香りがする。男らしくてセクシーな香り。圧倒的に自分よりも大きな体格で、筋肉量の違いなのか体温も高かった。
ノーナはその時、全身でシルヴァという男を感じていた。セックスをしなくても、ここまで他人を身近に感じられることが不思議だ。肌を重ねていても、トゥルヌスさんはいつも遠い。
今は魔法の効果でなんの取り柄もないノーナに夢中になっているけれど、シルヴァはきっとすごくモテるのだろう。口説き慣れているようではなかったから、真面目な性格なのは間違いない。
表情や雰囲気は厳めしいものの顔立ちは整っているし、美しいシルバーの髪が彼の生まれの高貴さを物語っている。家柄と実力を兼ね備えていて、騎士団内でも将来有望。抱かれたい男ナンバーワンといっても過言ではないかもしれない。
そんなすごい人に恋されるなんて、本当に『いまだけ』だ。間違えちゃったけど、これはこれで一生経験できないことだった。
だから……いいよね? 人生に一度くらい、びっくりボーナスを貰ったっていいじゃないか。
――そうして、ノーナはシルヴァに肌を許した。
シルヴァが満足そうに息をつき動きを止めたとき、ノーナはこれ以上ないくらい疲れて気を失うように眠ってしまった。
月明かりが目元に差し込んで目を覚ます。まだまだ眠かったけど、なぜか寝坊したような焦りが心のなかにあった。
くっつくまぶたをこじ開けて、ノーナは「え……」と小さく声を上げる。その声さえ掠れていて、喉が痛い。しかしそれに違和感を感じるまでもなく、驚いた理由は目の前にあった。
薄く日に焼けた肌、隆起する筋肉。おそるおそる垂涎ものの身体の主を確認して、ノーナは全てを思い出す。そして大いに焦った。
(何時間経ってる!?)
シルヴァは髪と同じ銀色の睫毛を伏せて、深く眠っているように見えた。寝顔に年相応の初々しさを感じて、ノーナはつい見入ってしまいそうになる。
目を閉じていてもバランスが良い、きれいな顔……。
でも駄目。いまのうちに帰らなきゃ!
息をひそめて背中に回る重い腕から抜け出そうとしていると、突然ノーナは仰向けに転がされ、押さえつけられた。
「誰だ!」
頭をガツンと殴られたような厳しい声だった。シルヴァのような騎士に四肢を押さえられてしまえば、抵抗なんてできるはずもない。
気づけば喉元に短剣を当てられていて、「ひっ」と喉を引きつらせる。どこからこんなもの!?
「し、シルヴァ……」
「気安く名前を呼ぶな! お前……刺客か?」
彼は憎き敵を見るような目でノーナを見据えた。こんなシルヴァ、知らない。魔法が切れたんだろうが、いまや赤の他人よりも悪い状況だ。ギリギリと強く握られた腕が痛い。
しかしシルヴァは自分たちが一糸纏わぬ姿であることに気づいて、途端に狼狽えた。
それはそうだろう。彼の記憶が抜け落ちているのなら、知らない男と裸で寝ていたことは相当衝撃的なはずだ。
ノーナは彼の拘束が緩んだことに気づいた瞬間、奇跡的な反応で身体を捻ってベッドから飛び降りた。情けないことに、脚に力が入らずへにゃんと一歩目で転んだけど、ちょうど目の前にあった自分の服を掴んで立ち上がる。
そのまま振り返らず、ふらふらの足を叱咤してノーナは寝室を出た。
急いで服を着て、ノーナは転がるように部屋を出る。シルヴァが本気を出せばあっという間に捕まってしまっただろうが、運良くそのまま王宮を出ることができた。
外に出て空を見上げると、明るい月がノーナを見下ろしている。月の位置的にまだ真夜中ではないようで、違和感を抱いた。六時間も経っていない……?
家に帰って時計を見ると、やっと五時間経つというところだった。魔女の言っていた効果時間も厳密ではないということだろう。
シルヴァと肌を重ねていた時間の感覚は曖昧で、どれだけ眠っていたのかも見当がつかなかった。一瞬のようで、逆に何時間も寝てしまったような気もした。
翌週は冷や冷やしながら出勤して、シルヴァに捕まってしまわないか毎日怯えていた。彼がノーナに襲われたと訴えれば、自分なんかあっという間にお縄だろう。
もっともその心配は杞憂だった。シルヴァは新人騎士の訓練で、王都の端にある森――もちろん迷いの森とは違う――に一週間缶詰めらしい。
そもそも怪我や盗難の被害はないわけだし、こんな貧弱な男に襲われただなんて言えないはずだ。彼ほどの男ならハニートラップもありそうだが、ノーナには目的がないのでトラップもない。
記憶が抜け落ちていれば狐につままれたような気持ちにはなっただろうけど……「たぶん大丈夫」と結論づけた。
願わくば、目覚めた時には完全に事後であったことに、彼が気づいていませんように。男なんかと寝てしまったという汚点に悩まされていませんように。
男同士の恋愛なんて、シルヴァは考えたこともないだろう。彼が悩んで落胆してしまわないか、かなり心配だった。
◇
そんなこんなで冷や冷やドキドキ、いろんな心配をしながら一週間を過ごしたノーナの心労は甚大だったのである。
詳細な話を聞いたピークスはだんだんと真剣な表情になり、途中青褪めたりもしたが、最後は呆れた顔ではぁーっと大きなため息を吐いた。
「え、馬鹿なの? 怪しげな薬を貰って、それを使って実験してみよう! って普通ならないでしょ」
「おっしゃるとおりで……」
「しかも、間違えた相手がよりにもよって狼騎士様とはねぇ……よく殺されなかったね」
「えっ、ころ……?」
ピークスもシルヴァの噂は聞いているようだった。職場でも良好な関係を築いている彼は、ノーナよりも情報通だ。
残酷非道な彼について、戦場での振る舞いに眉をひそめる者もいるらしい。捕虜を勝手に殺してしまったとか、感情が荒ぶると味方にも剣を向けることがあるとか。
仲間を殺されてしまった敵がシルヴァを恨むあまり、野営地に忍び込み彼が眠っているところを襲ったこともあるようだ。反撃されて瞬殺だったらしいが。
「瞬殺……」
「いつも短剣を枕の下に忍ばせていて、目を閉じて眠ることはないって。ノーナ、いくら魔法で惚れられたからって……命知らずすぎるよ」
「そんな怖い人じゃなかったけどなぁ……」
あと、目は閉じていた。じゃないと眠れなくない?
だが短剣の謎は解けた。枕の下にあったのか……確かに傷を与えられなくてよかった。今さらながらブルッと震えが湧き上がってきて、ノーナは両手で自分を抱きしめた。
「とにかく! たとえ本物だとしても、惚れ薬に頼ろうとするなんて虚しくない? おれはあの上司も気に食わないけど……好きならちゃんと告白くらいしなよ」
「う……」
正論が耳に痛くて、グラスを煽り白ワインを飲み干す。ノーナが曖昧な関係を続けてしまっているのは、自分にトゥルヌスさんを問いただす勇気がないからだ。
好きだと伝えて、ノーナを愛して欲しいと言ったら、面倒くさい男だと捨てられてしまうかもしれない。そんな思いが心のなかに重く伸し掛かっていて、考えるだけで息苦しくなる。
惚れ薬の魔法に頼らなければ、好きになってもらえる自信もない。それがとても虚しいことだと、自分が一番分かっていた。
「……はじめてだったんだ」
「え?」
「初めて、人に恋してもらえて……全力で愛されて…………すごく、しあわせだった」
「うん……そっか」
ノーナの性的指向を、ピークスは理解して応援してくれている。どうしようもない自分の本音を告げられる貴重な友人だ。あの時間は……小さな箱に一生大事にしまっておきたいほどの幸せが詰まっていた。
ポンポンと頭を撫でられて、ノーナは自分が泣きそうな顔になっていることに気づいた。スンと鼻を啜る。
「……泣かないでよ」
「泣いてない。……ありがとう」
男同士の恋愛が難しいことは、考えるまでもないのだ。
いろいろと間違えていることは自覚しているけれど、ノーナはどうしても、シルヴァとの夜を後悔できなかった。