4.間違えました!
ノーナは森で一度迷ったときに野生の熊に遭遇した恐ろしい経験のことを思い出していた。
あのときは驚いたなぁ。立ち上がった熊はノーナの身長の倍ほどあるように感じた。思わず後ずさって逃げようとしたものの、すぐ後ろに崖があることに気づかず、そのまま転がり落ちてしまったのだ。
幸い小さな崖だったことで大きな怪我もせずに済み、熊のほうも見えたとたんにノーナが消えたことで(餌が見えた気がしたけど、気のせいだったかな?)と思ったに違いない。
――なんて現実逃避をできたのも数秒のことだった。
「あれ、ノーナ? ウィミナリス様が遠征費の書類持ってきてくれたから、机の上に置いておいたよ。じゃ、お疲れさま」
「は、はい。おつかれさまです……」
ドアを開けた男の後ろからトゥルヌスさんが出てきて、なんで床に座ってるの? と不思議そうな顔をする。それでも足を止めるほど気にはならなかったようで、そそくさと帰ってしまった。
ノーナは頭の中が真っ白で、座り込んだままポカンと口を開けていることしかできない。青い騎士服から視線を上げていくと、首が痛くなるほど上方にシルヴァの顔があって、彼もノーナを見下ろして目を見開いているように見えた。
どうしよう……どうなってるの〜〜〜!?
「ノーナというのか。私はシルヴァ・ディ・ウィミナリス。怪我はしていないか?」
「わぁ! あの、う。ええと……大丈夫です」
ハッと気づいたようにシルヴァは膝を曲げ、ノーナを抱き起こした。まるで重さを感じていないようにふわりと立たされて、狼狽えてしまう。
まだ状況を理解できていないのだ。ばくばくと心臓の音がうるさい。
シルヴァは膝を曲げてノーナの顔を覗き込み、本当に怪我がないかを見抜こうとしているみたいだ。厳めしい表情に変わりないから威圧感はあるけど……その言動は本気で心配しているらしい。
でもこれは騎士道精神に則った、婦女子や弱者を守るふつうの行動だと言えなくもない。普段の彼を知らないから、ノーナは惚れ薬の魔法が彼にかかってしまったのか、判断がつかなかった。
「あ、書類……わざわざ持ってきてくださったんですね。ありがとうございます」
「いつも騎士団本部まで取りに来てくれると上官に聞いたんだ。だがここまで距離があるだろう。部屋に戻るついでだと思ってな。でも――来て良かった。ノーナに出会えたんだから」
「ひぇ」
え〜めっちゃ良い人……! とノーナが感動したのもつかの間、シルヴァはノーナの手を取って爆弾とも思える発言をぶちかました。
なにか顔に付いているのかと疑いたくなるほど、バーガンディの瞳は熱心にノーナを見つめている。そのわずかに潤んだ瞳には、相変わらずポカンと馬鹿みたいに口を開けているノーナが映り込んでいた。
百歩譲ってこれがシルヴァの通常運転だとしよう。そんな噂、一度も聞いたことないけど! 彼の噂は決まって戦場での鬼気迫る戦いぶりや、残酷非道な振る舞いについてだった。あとお家柄がすごくいい話とか。
……やっぱり、信じがたいんだよぉ……
二人きりになりたいと言ったシルヴァは、自分が王宮で与えられているという部屋へとノーナを連れて行った。
部屋、あるんですか? と思わず訊いたら、武功に対する褒章でもらったと説明される。
その話をしながらも彼はズンズンと廊下を進んでいく。手をしっかりと握られてしまっては、非力なノーナに拒否権なんてない。
へぇ〜王宮で与えられる部屋ってこんな感じになってるんだぁ……なんて感慨にふける暇もなく。部屋に入ったとたんノーナは彼に抱きしめられた。
「どうしよう。君を見ていると胸が高鳴って苦しいくらいなんだ……これが恋というものなんだろうか?」
「う」
やばい。やっぱり魔法にかかってる〜〜〜!!! すごく言いたい。「間違えました!」って、言いたい!
シルヴァは、トゥルヌスさんのようにするすると口説き文句が出てくる感じじゃない。それどころか自分の気持ちさえ、上手く言葉に出来ないようだ。
それでも二人の間に隙間ができるのを嫌がるように、彼はノーナを離してくれなかった。
体格差によってノーナのつま先はほとんど床から浮いたまま、居間と思われるスペースにポツンと置かれたソファへと運ばれた。シルヴァの肩越しに見て気付く。この部屋……生活感が全くない。
おそらく備え付けの家具だけが置かれていて、もちろんそれは王宮に見合って豪奢だが、シルヴァの私物のようなものはまったく見えなかった。きっと王宮の外に侯爵家の邸宅かなんかがあって、普段はそこに帰っているのだろう。
「ノーナ。君のことを教えてくれ」
「え……僕のこと、ですか?」
「あぁ。どうして君にここまで惹かれるのかは分からないが、一目惚れだと思う。これから知っていきたいなんて、変か?」
ごめんなさい魔法のせいです……と教えてあげたかったけれど、そんな荒唐無稽な話を急にされたって信じられないだろう。
ノーナは部屋に備え付けられている時計を見て考えた。一度目の魔法の効果は、六時間。それだけの時間をなんとかやり過ごせば、なにも無かったことにできる。
こうなってしまっては、記憶が残らないという効果も本当のことだと信じるしかない。一度くらいじゃ、本当に惚れてしまうなんてこともないだろうし。
シルヴァは噂で聞くみたいに怖い人ではない。さっきだって壊れ物みたいに優しく抱きしめられたのだ。力の加減がわからない、と言わんばかりに。
それは惚れ薬の効果かもしれないけど、性格を変えるまでの力はないはずだ。彼は好きな人を前にするとこうなるということだ。
なんというか……純粋な人だと思った。
「ノーナはいくつなんだ? 経理局で働いてるんだよな?」
「これでも経理局局長補佐、です。あと、歳は……に、二十六……」
年齢の話はちょっと……と思ったが隠しても意味はないだろう。態度からなんとなく察していたけどシルヴァはノーナのことを年下だと思っていたようで、慌てたように「も、申し訳ありません!」と頭を下げた。
騎士団内では上下関係が厳しそうだ。彼はガバっと頭を下げてきたものの、ノーナの手はいまも握られている。それがなんだか面白くて、ふふっと笑ってしまった。
顔を上げて今度こそポカンとした表情を見せたシルヴァは、やっと二十歳の年相応に見える。彼はきっと、いつも実際の年齢より上に見られている気がする。
「ウィミナリス様の年齢は知っていました。僕は気にしていませんよ。平民だし。でも……よければ僕も、友人相手にするような話し方をしてもいいですか? いまだけ」
「っもちろんだ! いまだけと言わず、ずっとでいいんだが……」
「ありがとう」
ずっとなんて……無理な話を聞き流して、ノーナは微笑んだ。なんだか切ない。
惚れ薬が本物だったのだから、ノーナがうっかりを発動しなければいまごろトゥルヌスさんに愛されていただろう。あの老婆、じゃなくて本物だった魔女の心配は、悲しいことに的中してしまったわけだ。
あと四回分の魔法をトゥルヌスさんに使えば、きっと惚れ薬の効果はあるはず。だからシルヴァがこんな風に熱心にノーナを見つめて語りかけてくるのは、本当にいまだけなのである。
ノーナはおもむろにシルヴァの手を自分の方へ引き寄せ、まじまじと観察してみた。ノーナの手よりひと回りもふた回りも大きくて、剣胼胝でゴツゴツしている。硬い皮膚に小さな傷がたくさんある。彼の苦労と努力がここに刻み込まれている気がした。
鬼神だの狼だのと言われているけど、熱いくらいに血が通っている手だ。シルヴァはこの手で、いつも国のために戦っている。
エレニアのような小国は、シルヴァたちがいなければあっという間にどこかの国によって征服されているだろう。ノーナは感謝を込めて、シルヴァの手を撫でながら話しかけた。
「ウィミナリス様の話も聞かせてほしいな。お休みの日は、どんな風に過ごしてる?」
「……俺のことはシルヴァと呼んで欲しい」
「いいの?」
「ノーナにそう呼ばれたいんだ」
ドキッと心臓が変な音を立てた。
きっと口説いているつもりなんてなくて、感じたことを素直に口に出しているだけだ。惚れた相手なら普通の頼み事なのかもしれないが、この真面目そうな人にファーストネームで呼んで欲しいと言われるのは心臓に悪い。
自分に「いまだけ、いまだけ……」と言い聞かせながら、ノーナは彼の要望に応えた。
「し、シルヴァ……。え、えへ。なんか恥ずかしいね」
「〜〜〜! もう我慢できない」
「えっ」
突然また抱きしめられて、ノーナは素っ頓狂な声を上げてしまった。次々と起こる出来事に現実味を感じなくて、思考はふわふわしている。なにを我慢できないのだろうか。
大きな身体は座っていても見上げるほどだ。包みこむようにギュッと抱きしめてからシルヴァは一旦身体を引いて、ノーナの頬に手を添えた。そして無言のまま顔を近づけてくる。
あ、しちゃう……と思ったときにはもう、唇が重ねられていた。感触を確かめるように何度か押し当てられる唇は、思いのほか柔らかかった。
これって浮気じゃ……? と内心ノーナは思ったが、トゥルヌスさんとは恋人同士と言えるような関係ではない。肌を重ねるときでさえ、キスしないこともある。
「ノーナ、好きだ……」
キスの合間に囁かれたストレートな言葉が胸に突き刺さる。それは甘い痛みを伴って身体の芯に響き、じんわりと温かいなにかを生み出した。嬉しいのか悲しいのか、わからなくてただ情熱を受け取る。
大きな口でノーナを食べ尽くそうとするようなキスは、慣れているというより、ノーナの小さな唇に夢中になっている感じがした。その必死さにきゅうん……と胸を掴まれて、身体から自然と力が抜けていってしまう。
いつの間にかノーナは座面に背中をつけていた。蕩けた心地のまま、「シルヴァ……」と彼の名前を呼ぶ。
しかし潤んだ視界の中でシルヴァが顔をしかめたから、ノーナは何か間違えたと思ってサァッと顔を青褪めさせる。だが、彼が口にしたのは思いもよらない言葉だった。
「かわいい……。どうしよう。もう一生手放せないかもしれない」
「ふぇ!?」
両手で顔を覆って天を仰いだシルヴァはひとりごとのように呟いたあと、ノーナを横抱きにして立ち上がった。
羽みたいにふわっと抱き上げられて、驚いている間にも迷いなく彼は歩みを進める。そうして到着したのは、彼の……寝室だった。
広いベッドにそっと寝かされて、さすがにノーナは焦った。
ここまではちょっと、想定してなかったよぉ……。
トゥルヌスさんならわかるけど、シルヴァはさっき初めて会ったも同然だ。いくら魔法で恋しているとはいえ、展開が早すぎる。
しかし焦ったような手つきで服を脱がされながら、ノーナはやっと気づいた。彼は年下の、まだまだ若い男なのだ。恋が性欲に直結するのは……なんら不思議ではない。それに、惚れ薬に媚薬のような効果があってもおかしくないだろう。
……でもでも、やっぱり魔法が効きすぎな気もする!