2.狼騎士の帰還
ノーナが働いているのは、エレニア王国の王都テュッレーにある王宮だ。
成人したころは下働きだったが、読み書きができ計算も得意だったため前の上司に引き立てられた。いまは文官となって経理局に勤めている。
文官はほとんどが貴族で構成されているので、なにげに大出世である。
平民でも、多くのお金を収めないといけない学園に通わせてくれていた両親には感謝だ。家の手伝いをしていたおかげで計算が得意になったのも、ノーナの財産といえる。
仕事は大変だけど、やり甲斐もある。恩のある上司はご高齢で引退してしまったけど、今の上司に出会えたことも幸運だ……と思っていた。
「おはようございます」
「ノーナ、おはよう。さっそくで悪いんだけど、この書類を片付けてほしいんだ」
局内でただひとりノーナに返事をし、爽やかな笑顔で仕事を持ってきたのが、王宮経理局局長のトゥルヌスさんだ。
輝く小麦色の髪を首の後ろで括り、瞳も優しい焦げ茶色。齢四十だが、背が高くて中年太りとは無縁のスタイルを維持している。
実は新しい上司としてトゥルヌスさんが来た頃、ノーナは彼が苦手だった。
『なんで平民がいるんだ?』
文官になってから何度も言われてきた言葉だ。前の上司が身分を笠に着ることを嫌っていたから、ぬるま湯に浸かって油断していたノーナは傷ついてしまった。
それでも、給料を貰っているんだから働くしかない。生きるためだ。
トゥルヌスさんはそれきり口を開かなかったし、同僚は無口で数字とだけ会話するような人が多かった。罵倒されないだけ、自分の局は全然マシだったのだ。
ノーナは真面目に職務に邁進した。人付き合いが苦手な同僚に代わって他局と交渉したり、内容も確かめずに承認しようとする上司に代わって書類を精査したり……毎日遅くまで仕事をして、よれよれになっていたある日。
――トゥルヌスさんが口説いてくるようになった。
「濡れたような黒髪がセクシーだね」
(昨晩遅くに帰って即寝落ちしちゃったから、今朝あわてて髪を洗って乾かす時間もなかったんです……)
「ノーナの目元が物憂げで、どうしてか目が離せないんだ。胸がドキドキするよ」
(たぶん隈ができてるだけです……)
それでもノーナは、そんな風に褒められたことがなかったから照れて喜んでしまった。
平民に多い黒髪は艶のない直毛で、肩上でばっさりと切っている何の変哲もないボブヘア。明るい緑色の瞳だけはノーナの自慢だが、両親や学園時代の友人と会えなくなってしまってからは、誰にも褒められたことがない。
トゥルヌスさんは手練手管に長けていた。相変わらず仕事はあんまり真面目じゃないけど、局長室でノーナと二人きりになると甘い言葉を吐く。
彼もこっち側の人なんだと気づいたときにはもう、ノーナは期待してしまっていたのだ。
なし崩し的に身体の関係を持ち、初めて恋人ができたと舞い上がった。貴族のトゥルヌスさんは家の仕事も忙しいらしく、外で会うことはほとんどできない。
でも職場に行けば恋人がいるなんて状況、浮かれずにいられるだろうか?
職場の局長室でされる軽いペッティングも、急に呼び出されて連れ込み宿で抱かれることも、ノーナは単純に嬉しかった。男の自分でも性的に求められるんだと実感することは、ノーナの承認欲求を大いに満たしてくれたからだ。
徐々に、徐々に違和感に気づきはじめたのは付き合いはじめて一年以上経ってから。彼女ができたばかりの友人の話を聞いていると、自分とトゥルヌスさんみたいな関係性とは決定的に違った。
男同士の恋愛が一般的ではないから、外で手を繋いでデートすることが難しいのはわかっている。まぁ、たまに堂々としているカップルを見かけると羨ましくて胸が苦しくなるけど。それにお互いの家で会ったり、性的な触れ合いのない時間を二人で過ごすことさえ皆無だ。
ノーナはトゥルヌスさんの生活の一部にもなれていないとたびたび感じる。
わかっていてもノーナはトゥルヌスさんのことが好きだった。こんな風に自分を相手にしてくれる人なんて、他にいないから。彼のことを考えると苦しくて寂しくて切ない。これが男同士の恋ってものなんだと思っている。
友人には「やめとけ」って、何回も言われているけれど……誘われると断れない。ノーナは両親を喪った孤独を埋めるものを、無意識にずっと求めているのかもしれなかった。
「出ていけ! そっちのミスじゃないか!」
「すみません……。このとおりですから、どうか承認を」
「平民ごときが文官になるから仕事に支障がでるんだよ。はぁ……呆れた。教養のないやつの相手は疲れるな」
「すみません……。よろしくお願いします」
朝一でトゥルヌスさんから預かった書類は、期限切れ間近の見積書だった。ノーナは他の仕事と並行しながら大慌てで関係局に確認を取って、いつもどおり罵倒されながら承認をもらい、発注をかけ終わったときにはもう夕方になっていた。
日の長い季節だから、まだ明るい。夜にのまれる直前に輝きを増す太陽の光が、遠くの窓から差し込んでいるのが見える。ノーナは目を細めて遠くを見つめ、小さくため息を吐いた。
文官でも相手が平民となると、みんな当たりが強いのだ。結局承認をくれるなら、黙ってくれればいいのに……エネルギーと時間の無駄だと思わないのだろうか。いや、ただ単純にストレス解消をしているだけなのかもしれないな。
ひと気の少なくなった廊下をトボトボと歩いていると、正面玄関の方から騒がしい声が聞こえてきた。玄関近くの遮るもののない廊下は、よく声が通る。
「狼騎士の帰還だ……!」
「目つきやべぇ。存在感からして怖すぎる。戦場では残虐無慈悲の狼みたいだって有名なんだろ?」
「シッ。聞こえるぞ!」
恐怖の対象として神話に出てくる巨大な狼、フェンリルに例えているのだろうか。
その言われようが気になってあえて玄関の方へ向かうと、注目の的は長い大階段を上ってきている途中だった。
大きな窓から夕方の力強い光が差し込んで、男を斜め横から照らしている。ノーナは噂話をしている文官達の後ろから、そっと彼を見つめた。
――シルヴァ・ディ・ウィミナリス
若干二十歳で数々の功績を打ち立てているエレニア王国の騎士だ。国王軍に所属していて、国の命令に従ってあらゆる戦地に向かう。
短く刈られたシルバーの髪に、バーガンディの瞳。髪は光を受け硬質な白銀に輝いている。
瞳の濃い赤は血を連想させると近くの人は言っているけれど、ノーナは遠目に見てもヴィンテージワインのように美しいと思った。
精悍で凛々しい顔立ちだが、近づくと思わず萎縮してしまうほど立派な体躯で存在感がある。狼というより熊みたいだ。
眉の上に残る古傷や腕に巻かれた包帯が、彼の荒々しい印象を強調していた。
遠方から帰還してそのまま王宮へ来たようで、地味な旅装をしている。周囲はざわついているが、誰も話しかけたりしない。シルヴァはしかめっ面で正面だけを見据えて歩いていた。
ノーナも彼の噂はときどき耳にするし、何度か王宮で目にしたこともある。その見た目と雰囲気が与える印象に加え、戦場でのシルヴァは鬼神に例えられているらしい。
一般の人に怖がられるのは分からないでもないが、同じ騎士団員のなかでも彼は遠巻きにされているようだ。
聞くのは噂ばかりで、もちろんシルヴァとは話したこともない。だからノーナには彼を怖がる理由がない。そりゃあ、いきなり目の前に現れたら野生の熊に出会ったみたいに驚くだろうけど。
シルヴァは今回もしばらく王都に滞在するんだろう。この王宮の敷地は広大で、なかに騎士団本部も併設されているからだ。
ノーナはなんとなく彼が去るまで見送ってから、帰宅の準備をした。
王宮から出て王都の街に出るまでは、広い庭園を通る。ここも王宮の一部となっていて、王宮内で働く人とその付き添いだけが入園できることになっている。だから休日は家族連れやデートに来る人たちでごった返している、らしい。
若者のあいだでは王宮で働く人と付き合ってここでデートするのが一種のステータスになっているようだ。下働きだとしても王宮で働きたいと望むものが多いのは、それが理由のひとつだろう。
王宮で働いていると言うだけでモテるようになって、恋人ができたと友人は言っていた。ノーナはモテとは無縁だけれど。
庭園内に複数ある噴水のなかでも、あまり目立たない場所にある小さな噴水のところまで歩いて行って台座に腰かけた。帰りが遅くならないとき、ノーナはここでほっとひと息つくのが好きだった。
太陽は眠る準備に入り、辺りはもう薄暗い。あっという間に空は夜に飲み込まれるだろうが、橙から紺へとグラデーションを描く黄昏は美しい。今日の退勤はいつもより早いのだ。
水面を覗き込むと、自分の顔が映り込む。
「……ひどい顔」
目ばかりが大きい童顔で、美人からはかけ離れている。下を向いていたらパラパラと髪が前に垂れてきて、耳に掛けた。
ちょっと残業しただけで、疲れが顔にでるようになったのはいつからだろうか。もう二十六歳になってしまった。そんな歳なんだろう。
学園時代の同級生で、唯一いまも仲良くしている友人は今の彼女と結婚したいと言っていた。平民の結婚とはいえ、二十六歳でも遅い方だ。
キラキラした目で未来を語る友人が羨ましかった。ノーナの未来は、いつも光がなくて遠くが見えない。
こんな疲れた顔をしたノーナなんて、いつ捨てられたっておかしくない。トゥルヌスさんはきっと若い子が好きなんだろう。ノーナより肌の血色がよくて、元気で可愛い子になびいてしまうのも時間の問題だ。
その前に、惚れ薬で彼の心を手に入れなければならない。貴族のトゥルヌスさんと一緒になることは難しくても、いまよりもう少しだけ心を向けてほしかった。
彼の人生に、ノーナという存在を少しだけ食い込ませて、認めてほしい。
「この白すぎる肌がだめなんだ」
血色の悪い白い肌は、黒髪でいっそう強調されている気がする。頬を赤く染めるくらいの可愛げがあれば、たくさん愛してもらえるだろうか。
指でむにむにと頬を揉んで引っ張ってみたけど、じんじん痛いだけだった。あと、すっごいブサイク。