14.抜け殻に使命
ノーナが退職の意志を伝えると、意外にもトゥルヌスさんは引き止めてきた。もう結婚するのだから、関係を持っていた男、しかも悪い噂つきのノーナを近くに置いておきたくないと思ったのだけれど……
「そりゃあね。ノーナほど優秀な人材、簡単には手放せないでしょ。ていうか! なにも辞めなくたっていいじゃん……」
「うん……でも、もう決めたことだから」
「意外と頑固なんだからなー……。だけどあの噂さぁ、狼とか残虐とか言われてるのと同じで、誰かの悪意をすご〜く感じるよね」
ピークスと一緒に、王宮でも普段使わない食堂に来ていた。局から離れたここなら、ノーナの顔を知っている者は少ないはずだ。
ノーナとシルヴァの噂は瞬く間に広がり、噂というものの宿命なのか当初の内容とは全く違う話にまで発展していた。ノーナがシルヴァを籠絡したという話から、今度はシルヴァが脅してノーナを手籠めにしたという話になっているのだ。
いまシルヴァが王宮にいなくてよかったと、心底思う。
こんなの、彼の性格を知る人なら嘘だってすぐに分かるはずなのに。知り合いの少ないノーナは、噂を覆すほどの力を持っていないのが悔しかった。やはり早々に仕事を辞めて、噂の元を断つほかないだろう。
許されるなら今すぐ辞めてもいいくらいだ。さいわい贅沢していないおかげで多少の貯蓄はあるし、住む家もある。家のドアと錠の修理はシルヴァが去った途端に完了していた。
王宮では変に注目を浴びたり嫌な言葉を投げかけられたりはするけど、自分の家に戻ると生活はあっという間に元通りになった。シルヴァの部屋で、シルヴァと一緒にお酒を飲んだ日が遠い昔のように思えてくる。あるいは願望が見せた夢か。
別れからはや数日、彼はいまどの辺りにいるのだろう。南に向かっているのなら、かつてノーナに話した星が綺麗に見える場所あたりかもしれない。
「北へ行ったって聞いたけど」
「えっ。南じゃなくて?」
「北に怪しい動きがあるって報告が入ったみたい。冬も目前だし、新人の訓練も兼ねて偵察に行ったって騎士団本部の事務官に聞いたよ?」
「北に行く経費申請なんてなかったのに……」
「うげ、全部の申請覚えてるの? さすが……」
広大な王宮には数えきれないほど多くの局が存在し、それに見合った数の経費申請が日々経理局へ入ってくる。それら全てに目を通し処理を決めるのはノーナの役割で、だからこそ全体のお金の動きを把握しているのだ。
仕事を離れるとうっかりが多いものの、実は記憶力もいい。ある意味王宮の重大機密を握っているのだが、ノーナはピークスに言われるほど凄いことだとは思っていなかった。
噂に関してはピークスの方が情報通だし――そんなことよりも。
怪しい動きって、大丈夫なのだろうか。ノーナは過去に遡って騎士団の経費申請や経費予測書を頭に思い浮かべたが、やはり北の砦への支出は増えていなかったように思う。新人も連れて行くくらいだから、山から冬眠前の熊が下りてきたとか、それくらいの動きなのかもしれない。
熟練の将軍たちは順に南へ発っているという。冬も動きが鈍らない南の国とは違い、陸続きである北の動きは鈍い。
エレニア王国の北には大きな山脈がそびえていて、その向こう側にツンドゥーラという小さな国がある。冬が長いためか芸術に秀でていて、あたたかい季節はその山を越えての貿易関係を結んでいた。王宮にもかの国から購入したり贈られた絵画が多く飾られている。
彼らがいまさらエレニアに対して何かしてくるとは思えないし、北の砦はツンドゥーラというより海からやってくる敵を想定して建てられていると聞いたことがある。北と陸続きの、別の国が海から攻め入ってくることなら考えられるけど……
「うーん。なんか釈然としないなぁ」
「機密だとしたら、文官の僕らが知り得ることなんて限られてるしね。ノーナは心配しすぎじゃない? ……離れようとしてるくせに」
「そ、そうだね。考えすぎかも。あの人なら心配するまでもないし」
「ねぇ。せっかく両想いになったんでしょ? 噂なんてさ、狼騎士様にパーッと蹴散らしてもらえば?」
――それでは駄目なのだ。そうなると、ノーナは何も返せない。
彼は優しいから、ノーナが仕事を辞めても養ってくれそうだ。しかしこの先ずっとシルヴァに甘えることになってしまったら、ノーナは自分の存在意義に悩むだろう。
本当は女性と結婚できるはずの彼の未来を奪って、ノーナだけのうのうと守られながら生きていくなんて。
トゥルヌスさんみたいに結婚しても愛人を持ちたいなんて考えは、シルヴァには絶対にない。ノーナも彼に関しては、二番目に甘んじることはできないと思った。一番目の幸せを知ってしまったからこそ、貰えるなら彼のすべてが欲しい。
惚れ薬の魔法で本来なら受け取れないはずの愛情を知ってしまったおかげで、ノーナは欲張りになってしまった。こんな醜い独占欲を自覚しているからこそ、離れる選択をしたのだ。
仕事を終えて、ノーナはひとりで庭園内を歩いていた。いつもの噴水の台座に腰掛け、小さなため息をこぼす。
ここ数日、胸の中には寂寥感がずっと横たわっている。
トゥルヌスさんは苦い表情をしていたけど、なんとか書類は提出できた。あとは受理さえされればノーナもお役御免だ。
シルヴァのことを思うと早く受理してほしい。でもこの庭園にも入れなくなるのは、少し口惜しい気がする。
それに、ノーナは経理局での仕事自体は好きだった。下働きから文官になり局長補佐にまでのし上がることができたのは、多少の運はあれど、自分が真面目に努力した結果だと胸を張っていえる。
別の仕事に就けばまたゼロからのスタートだ。自分の能力を活かせる転職先があればいいが、王宮以外で勤めた経験のないノーナには自分を求めてくれる仕事場があるのか想像もつかなかった。
『……い、おい! 本当にあれでよかったのか?』
『シッ。声を上げるな。いいんだよ、あの小僧を面白くないと思うやつなんて、たくさんいる』
急に近くの茂みから男二人の会話が聞こえてきて、ノーナの耳はぴくっと反応した。声をひそめられると逆に耳をそばだててしまう。水の音に紛れて聞こえるのは、どうも後ろ暗い会話のようだ。
『寝込みを襲っても瞬殺なんだろ? どうやって大怪我させるんだ』
『あー。その噂、殺したのは別のやつだよ。怪我もさせられず失敗したもんで、口封じだ。今回は昼間に堂々とだぜ。なに、まさか身内から背中を狙われ……て、思っても……――――』
移動しながら喋っているようで、気になってきたところで声が遠ざかっていく。追いかけようと動けば、人がいたと気づかれてしまうだろう。ノーナはせめて話し声の主を確認しようと、周囲を見渡した。
もう日が落ちるのも早い季節になっていて、周囲は薄暗い。しかしちょうど光を増しはじめた月が彼らの顔を照らして、ノーナははっきりと視認できた。知らない顔だが――二人とも、青い騎士服を着ていた。
(まさか……いまの話、シルヴァさんのこと!?)
一部しか聞こえなかったが、あまりにも物騒な内容だった。ノーナは他の騎士をほとんど知らないから、勘違いかもしれない。冗談で背中を小突くとか、そんな話かもしれない。
けれど……シルヴァのことを話しているように聞こえてしまった。
もしかして彼は、なにかの罠にかけられているのでは? シルヴァはあんなにも真面目でいい人なのに、育ちのせいで妬まれがちだ。ノーナとの噂だって、おもしろおかしく広めた人がいるに違いない。
わからないけどもし、聞こえた内容がノーナの予想通り彼を傷つけるものだったとしたら……これは大問題だ。
心が奥底から冷え、ぞくりと全身に震えが広がった。シルヴァが身内の騎士に裏切られたら、身体だけじゃなく優しい心にも大きな傷を残すに違いない。
だからと言っていま聞いた内容をノーナが王宮内で訴えたところで、誰も聞く耳を持たないだろう。真偽も定かではないし、聞こえた話はほんの一部だった。
(確かめなきゃ。なんとかして、自分の力で!)
ノーナは家に帰ってウンウン頭をひねった。最初に思いついたのは情報通のピークスに頼ることだ。今日彼に聞いた話もノーナは全く知らなかったし、もっと探ってもらえばなにか情報が出てくるかもしれない。
騎士団本部の事務官には、ノーナにも挨拶してくれる人当たりのいい若い子もいる。どこの局を訪れても、ノーナはついそそくさと立ち去ってしまっていたが、ちゃんと交友関係を広めておけばよかったと今さらながらに後悔した。
ふと、棚に置かれたガラス瓶が視界に入る。透明な瓶の中にはまだ二つ、桃色の薬が残っていた。
先日魔女がこの部屋を訪れていたとき、ノーナはお礼と謝罪を伝えて惚れ薬はもう使わないと宣言した。本当に好きな人ができたから、もう使いたくないのだと。
「ごめんなさい。せっかく作ってくれたのに、捨てるなんて……」
「駄目だ」
「えっ」
「駄目に決まっとるだろうが! 偉大なる魔女様が、貴重な材料を使って、わざわざ作ってやったんだぞ……この、ばかちーん!」
「ひぇっ。す、すみません!」
魔女にべちっと頭をはたかれ、結局ノーナは惚れ薬を捨てることができなかったのだ。確かに捨てるのは失礼だとわかっているけど、どうしよう。使用期限とかあるのかな……と途方に暮れていた。
でも、もしこれを活用して情報を手に入れられたら? 今日顔を見た騎士を魔法でノーナに惚れさせたら、情報を聞き出すことくらいできないだろうか。都合のいいことに効果が切れれば記憶だって消える。
四回目の効果時間は約十三分。ちゃんと使い方も学んだから、今度こそ間違いないはずだ。リスクは……どう考えてもかなりあるけれど。上手く行けばリターンも大きい。
彼らがシルヴァに何も仕掛けていないことさえ、分かればいい。
翌日、さっそくノーナは行動した。惚れ薬を常にポケットに入れ、薄めて飲む用の水も小さな容器に入れて携帯する。おかげでポケットがリスの頬袋のように膨らんでいた。
騎士団本部に持っていく書類はなかったが、それっぽく紙を重ねて持ち歩き、昨日見た顔を探す。訓練場の見える廊下を往復してみたり、騎士たちがよく利用する食堂で目を光らせてみたり。
ノーナは今、仕事以上の使命感をもって行動していた。仕事が遅れたなら残業すればいいだけだ。シルヴァがいない王宮で、自分がどれだけゾンビに見えても気にならない。
とにかく急いで情報が欲しかった。騎馬で移動していれば、もう彼が北の砦に到着していてもおかしくないのだ。
もっとも、ギラギラと目を光らせていたノーナは昨晩悶々と考えていたせいでほとんど寝ていなかった。だから成果のないまま夕方にもなると、知らぬ間にかなり注意力散漫になってしまっていたらしい。
別の局からの帰りも、ノーナは睨みつけるように前方を見据えていた。そのとき……十字路になっている廊下の右の通路から人が出てきたことに気づかず、ドシンとぶつかってしまった。
「あわっ。ご、ごめんなさい」
「うわ! 君、大丈夫か?」
体格のいい相手に跳ね返されて尻もちをついたノーナは、衝撃と痛みで涙目になった。ここ数ヶ月、尻に負担を与えすぎな気がする。そろそろ四つに割れるんじゃないだろうか。
痛みを数秒でやり過ごしてから、相手が騎士服を着ていることに気づく。上から降ってきた声の主を確かめると、なんと昨日見た男だった。たぶんオドオドと話していた方だ。
思わずじっと顔を見つめると、相手は驚きの表情から一転、細い目をさらに細めて微笑んだ。ノーナの腰に手を添え、腕を掴んで抱き起こす。
「怪我はしていないかい? そこに医務室がある。連れて行ってあげるから診てもらおう」
「あ、えーっと……ありがとうございます」
「かわいい顔をしてるね。王宮へは来たばっかり? ひとりで迷っちゃった?」
ノーナの顔を知っていた感じではない。昨日の印象とは大きく異なり、なんというか……とても軟派な雰囲気だ。
騎士団のなかには若い後輩で性欲を発散させる者もいるらしいが、この人もそのクチなのだろうか。触り方に下心を感じるし、掴んだ腕を離してほしい。
だがこれは願ってもみないチャンスだった。ノーナは地面についた手を洗いたいからと言い訳してなんとか水場へ駆け込み、雑に手を洗って即座に惚れ薬を口に入れた。
じりじりと十秒ほど待つと、まるで最初から液体だったかのように口の中で溶けていく。それを水で薄めながら何回かに分けて飲み込めば完了だ。
ノーナは彼の元へ戻って声をかける。
「お待たせしましたっ」
「……あぁ、神よ。ぼくは運命の人に出会ってしまったようだ!」
「…………」