第32章『迷宮鉄筋 改』
「始めッ!」
審判のその一言を皮切りに、空気が振動した。
――いや、そう“感じた”のは周囲の職人たちだけだった。
上田 鉄太は、誰よりも早く動いていた。
構えもなし、気合もなし。まるで“息を吸う”ように、自然と――それでいて異様な存在感と共に。
上田 鉄太「迷宮鉄筋 改」
呟くような口調だったが、その言葉は刹那、空間の法則を塗り替える。
瞬間。
「ッ……!?」
松本 流斗の視界が一度、真っ白に染まった。
***
ギィィィ……ギィィィィ……
鉄が軋む音が、どこか遠くから鳴り響いていた。
空間がねじれる。
現実にあったはずの鉄骨の壁も、足場も、空も――全てが、ゆっくりと、だが確実に“別のもの”へと変質していく。
その中で、上田と松本は同時に膝を折り、ぐらりと意識を手放した。
――そう、“現実”の彼らは。
だが、その瞬間から“別の現実”が始まった。
***
視界に入ったのは、交差する鉄筋。
縦、横、斜め、螺旋、曲線、不可思議な曲がり――
あらゆる方向に無数の鉄筋が広がり、組み上げられた空間が果てなく続いている。
一歩踏み出すたびに、足元の鉄が“ギチ”と音を立てる。
松本 流斗「……な、なにこれ……っ……ここは……?」
明らかに、現実ではない。
足音が響く。呼吸音が重い。
なのに、すべてが“生々しい”。
松本は振り返る。だが、来た道など存在しない。
鉄筋の迷路は、背後すらねじれた構造で消えていた。
まるで、自分の存在そのものが“閉じ込められた”。
松本 流斗「ククッ……ハハハ……! なんだこれ……ッ! おもしれぇじゃねぇかッ!!」
眼を爛々と輝かせ、歓喜を上げる。
その前方、やがて鉄の柱の影から、ひとりの男がゆっくりと歩み出る。
上田 鉄太「……歓迎するぜ。“俺の世界”へな」
松本の歓喜が、わずかに翳る。
松本 流斗「なにが……どうなってんだよ、これ……。仮想現実か? まさか、お前……」
上田は無言で頷いた。
その瞳は鋼のように鈍く、しかし確かに“現実”を映していた。
***
現実世界――。
松本と上田は、両者ともに膝をつき、意識を失っていた。
しかし、身体には戦闘の痕跡は見られない。
……ただ静かに、冷たく倒れている。
「……上田……さん……?」
釘宮 大工が声を漏らすも、返事はない。
空間に、奇妙な沈黙が広がる。
管田 吉彦は腕を組み、まるで“何か”を察していたかのように静観していた。
***
仮想世界の中で、二人の“意識”は向き合う。
上田 鉄太「ここは、俺の技で創った世界……」
松本 流斗「技……? 仮想世界ごと創るなんざ、どうかしてやがる……!」
上田はその言葉に、わずかに笑みを浮かべた。
上田 鉄太「これは、修行の果てに手にした新技……“迷宮鉄筋 改”」
上田 鉄太「前の技と大きく違う点は2つだ。1つは……この世界の中で与えたダメージは、現実の体にも“反映される”」
松本の目が、微かに揺れる。
上田 鉄太「ここで殴られれば、現実の身体に殴られた痛みがいく。逆も然りだ」
松本 流斗「……ほぉ、面白ぇな。つまり――ここでの戦いは、現実の戦いと“直結”してるってわけだ」
上田 鉄太「もうひとつの違いは……ここで、俺は“ちゃんと戦える”。」
一瞬、風が吹いた。
いや、“風のような”鉄筋の揺れが、上田の背後を覆う。
その背後から、無数の鉄骨の矢が突き出すように生えた。
上田 鉄太「この世界では、鉄筋が“意志”を持つ。俺の意志に応じて、道を創り、罠を張り、武器を生み出す」
上田の手の平が、ぐるりと円を描く。
次の瞬間、周囲の空間が“変形”するように、迷路の構造そのものが書き換えられた。
松本 流斗「……ッ、てめぇ……!」
その言葉と共に、松本が一気に駆け出した。
だが、その足音は鉄に飲み込まれる。
カンッ――カンカンカン――!!
鉄の響きと共に、上田の姿が一瞬で“後方”へと移動していた。
松本 流斗「チッ……移動……ッ! この空間、完全にアイツの思い通りか……!」
上田 鉄太「……この中での支配者は、俺だけだ」
そして、鉄筋が鳴く。
ギィィ――ギチ――ギチィィィィ……
その音と共に、空間が歪み――迷路の壁が伸びる。
松本の通路が封鎖される。回避しようとするが、逃げ道が変形し、足場がなくなる。
――完全に、捕まえられている。
松本 流斗「くっ……チクショウ……!」
叫びと共に腕を振るい、衝撃波のような気の奔流を鉄骨に叩きつける。
だが、それすらも吸収されるように消えていく。
上田 鉄太「ここじゃ、力任せは通じねぇ。お前が“その程度”の男なら、ここで終わる」
迷宮鉄筋 改――
それは、仮想世界を創る技ではない。
“世界を、鉄筋で縛る”技だ。
――そして。
現実世界の2階通路。
ギィィ……という重たい鉄の扉が開かれる音。
そこに現れたのは、緑山 葉太と水上 雫。
緑山 葉太「遅れてすみません!今到着しました!」
凍りついたような空気の中、ただ静かに、緑山の声が響いた。
松本 流斗は、無数に交差する鉄筋の迷路を見渡しながら、静かに笑っていた。
その目は、目新しい光景に心を躍らせている。
目の前には、いましがた自分をこの異空間に引き込んだ張本人――上田が、淡々と佇んでいる。
上田 鉄太「ここじゃ、逃げ場はねえ。やるしかねぇぞ」
松本「やる気は十分だ。ただ……」
松本は鋭く目を細めた。
松本「この世界……俺の直感が警鐘を鳴らしてる。“普通”じゃねぇってな」
返事の代わりに、上田は迷宮の壁を蹴って駆け出した。
動き出した瞬間、鉄筋の迷路がわずかに組み替わる。重力があるのかすら分からない曖昧な空間の中で、彼の動きは異常なほどに滑らかだった。
その様子に、松本の目が鋭く光る。
松本「……なら、俺も見せてやるよ。“こちら側”の力をな!」
腰元から、松本はティグ溶接のトーチを取り出す。
タングステンの先端から青白い火花が漏れ――次の瞬間、激しい閃光が放たれた。
上田 鉄太「ッ!」
光。まばゆい、白に近い蒼。
仮想世界でも忠実に再現された溶接の閃光は、網膜を貫いてくる。
その直後――
松本「溶接熱砲ッ!!」
熱線が放たれた。鋭く、直線的な圧倒的破壊の一撃。
とんでもない熱量が、上田のいた空間を焼き払った。
が――命中していない。
松本「……どこ行きやがった……」
返事の代わりに、足場の上から足音。
上田はすでに高所へと跳躍しており、迷宮の構造に完全に適応していた。
その表情は落ち着いている。迷いは一切ない。
この空間のルールを“理解している”どころか、“設計している”者の表情だ。
松本「チッ、構造を読み切られてる……!」
さらに追撃のフラッシュティグを放つが、迷宮が変化し、攻撃の通路そのものが遮断される。
松本「くそっ……!」
攻撃を仕掛ければ仕掛けるほど、自分の中でわずかなズレが生まれていく。
それは、迷宮というフィールドが自分にとって“異物”であることを突き付けてくる。
――ガッ!
上田の鉄筋が松本の横腹を貫いた。
松本「っが……ぁあああッ!!」
鋭く、脳天から響くような激痛が襲う。
確かに、肉体は何も傷ついていない。なのに――痛い。
痛みだけが、現実と同じ質量で突き刺さる。
松本「こ、の……クソが……ッ!」
怒りと混乱がないまぜになる。
痛みは本物だ。麻痺していない。感覚は騙せない。
松本「……やべえな、こりゃ……面白ぇどころじゃねえぞ……」
立ち上がろうとする。
しかし――呼吸が乱れている。身体の節々が重く、痛みが全身に残る。
この違和感。この焦り。
仮想世界で戦うはずが、まるで現実そのもののような“疲労”が身体を支配していく。
再び上田が姿を現す。
上田 鉄太「動きが鈍くなってるぞ」
松本「……わかってんだよ……!」
懸命に距離を取り、再び熱砲を放とうと構えるが――
先に動いたのは、鉄筋の迷宮だった。
上田が指先で何かを弾くように触れると、鉄筋が組み替わり、松本の進行ルートを遮断する。
上田 鉄太「この世界が“俺の意志”に従ってる。ここでは、俺が設計士だ」
その言葉に、松本は心底から苛立つ。
松本「チッ……この俺が……!」
だがその言葉とは裏腹に、呼吸はすでに限界に近づいていた。
汗が額から流れ落ち、手が震え始める。
それでも、撃とうとする。
しかし、構えた手が――鉄筋に弾かれた。
再び鉄筋が飛んでくる。
仮想のはずなのに、現実と変わらぬ痛みと苦しみが積み重なっていく。
松本「っぐ……っは……」
地に手をつき、肩で息をする。
歯を食いしばっても、意識が霞んでいく。
上田は構えを解いたまま、一歩近づいた。
上田 鉄太「……ここは、俺が支配してる。お前の戦い方は、この迷宮じゃ通用しねえ」
松本は、何も返せなかった。
初めての“敗北に近づく感覚”が、心の奥に広がっていく。
松本 流斗は、ふらふらと立ち上がった。
足元は定まらず、呼吸は荒く、もう視界すらまともに保てていない。
それでも、その男の目は、どこか諦めきれない色を宿していた。
上田の目が一瞬だけ細まる。だが、感情を露わにはしない。
上田 鉄太「……これで終わりだ」
ゆっくりと、上田が手を後ろに回す。
何も持っていないはずのその手から、音もなく“何か”が現れた。
それは、一見して工具のハッカーにも似た、しかし明らかに“ただの道具”ではない異質な存在。
上田 鉄太「“捻首鎌”――」
その言葉と共に、上田の姿がかき消える。
次の瞬間には、松本の背後。
ハッカーの先端が、音もなくその首筋に絡みついていた。
松本「……なっ……!?」
ギチ……ギチチッ……
仮想世界の空気が歪む。
捻れるような金属音と共に、松本の首が不自然な角度で回されていく。
悲鳴は上がらない。
それよりも先に、精神が限界を迎えた。
ギャリィッッ!
空間が裂けるような衝撃。
松本の意識が、爆風のように吹き飛んだ。
──現実世界──
「――あああああああああああっッ!!」
2階に響き渡る悲鳴。
仰向けに倒れていた松本が、突然、弓なりに跳ね起きた。
その顔は恐怖と屈辱に満ちていた。
息は乱れ、目には涙すら滲んでいる。
ぺッ
「……ッ……チィ……!」
口から唾を吐き捨て、松本は地面を見つめたまま震えていた。
何も言わない。言葉が出てこない。
上田に対する怒りでもなければ、敗北への悔しさでもない。
**“恐怖”**だった。
再び敗北を喫したこともさることながら、
あの“痛み”が、仮想世界であっても決して嘘ではなかったという事実が、
松本 流斗という人間の内側に、根深く突き刺さっていた。
その姿を、上田は見下ろしていた。
仮想世界から意識を戻した直後。
彼は、朦朧とした意識の中でも、確かな勝利を確信していた。
そして――
上田 鉄太「勝った……!」
初めて、自分の技で誰かを制し、技術と覚悟で立ち向かい、勝利した。
その手応えは、胸の奥深くまで響いている。
上田は喜びを噛み締めながら、仲間たちの方へと振り返る。
だが、そこにあったのは――予想もしない光景だった。
「……え?」
足鳶 組也が、血だらけで倒れていた。
その身体のあちこちに傷が走り、目は閉じられている。
緑山 葉太が、必死の形相で止血処置を施していた。
緑山「組也!!おい、目を開けろって!」
視線をずらした先では――
釘宮大工が、水上 雫の上に馬乗りになり、
鬼の形相で拳を振り下ろしていた。
「てめぇぇええええっっ!!!」
水上の顔はニヤついていた。
手は必死に防御を試みている。
その場の空気は、まるで誰かの怒号や悲鳴すらも吸収してしまうほど、重く、冷たいものだった。
上田「……な、何が起きてる……?」
呆然としながら、状況を理解しようとする。
だが、頭がついてこない。
このわずかな時間の間に、いったい何が起きたのか――
そして、上田は思わず叫んだ。
上田 鉄太「一体……どうなってんだよ!!」




