第22章『鳶の覚悟』
現場を包む鉄の匂いと、朝の冷気がまだ残る静寂の中――
足鳶 組也は、資材ヤードの脇にある一棟の詰所をじっと見つめていた。
詰所の入り口には、ふたつの社名が並んで掲げられている。
「有限会社 空鳶組」
「株式会社 重原重量」
かつて“力”のみで他社をねじ伏せ、自分の区画を広げてきた頃――
このふたつの名は、耳にするたび胸を刺すような痛みを覚えるほどだった。
戦わず、奪わず、ただ“対話”だけで仲間を増やしていった職長たち。
己とはあまりにも対照的な存在。それが、米森 鳶高と原 重鳶だった。
足鳶 組也「……失礼します。足場技研の足鳶 組也と申します。お時間をいただけませんか」
声をかけると、詰所の奥から鋼材を打つような重い足音が響いてきた。
最初に姿を見せたのは、黒い作業着の男――米森 鳶高。
整えられた髪と落ち着いた眼差し。その姿には、職人としての品格と静かな威厳があった。
続いて現れたのが、無言のまま横に並んだ男――原 重鳶。
身長190近い屈強な体つき。サングラス越しの視線は、確かな重みと正確さを備えていた。
米森 鳶高「……誰だか知らんが、うちに何の用だ……」
足鳶 組也「……あなた方のことは、噂で何度も耳にしておりました。力ではなく“言葉”と“信念”で仲間を増やしたと……現場でそう囁かれていた、あなた方の在り方に――今、私は心から敬意を抱いております」
米森は何も言わず、ただ目を細めた。
足鳶 組也「私は……これまで、己の強さを誇り、足場を“支配の道具”として使ってきました。
ですが……先日の戦いで、神格者である管田 吉彦氏に完膚なきまでに叩き潰され、自分が“何も持っていなかった”ことを痛感しました」
言葉を選びながらも、組也の声には熱があった。
足鳶 組也「あなた方になんの徳もないことは、重々承知しております。
それでも、どうか……どうか私を、“本物の鳶”に鍛え上げていただけないでしょうか」
原 重鳶は少し視線を逸らし、短く鼻を鳴らした。
原 重鳶「……断る」
米森 鳶高「俺もだ。要件は終わったみたいだな。帰れ」
静かだったが、その言葉には一切の情けもなかった。
組也は、一礼し、ゆっくりと下がると――詰所の前に膝をつき、地面に額をつけた。
足鳶 組也「……でしたら、ここでお二人に認めていただけるまで、動きません」
米森と原は黙って詰所に戻った。扉が閉じられる音が、重く響く。
時刻は昼を過ぎ、雲行きが怪しくなっていく。
空が唸るような風を吹かせ、やがて――雨が降り出した。
最初は小雨だった。だが、それはすぐに本降りへと変わる。
風が足場を鳴らし、鋼板を叩く激しい音が現場に鳴り響いた。
米森 鳶高「……」
詰所の窓から外を見た米森は、依然として土下座したままの組也の姿を確認した。
濡れそぼった髪、泥に沈む手。だが、その背中は微動だにしない。
米森は無言で傘を取り、外へ出た。傘も差さず、そのまま組也の前へと歩いていく。
米森 鳶高「……その覚悟、見せかけじゃないようだな」
足鳶 組也「……はい」
米森 鳶高「だが勘違いするなよ。お前を仲間として認める訳ではないからな。」
足鳶 組也「……はい。たとえ今、仲間として認められずとも……私は、ここで“変わりたい”のです」
しばしの沈黙の後――米森は言った。
米森 鳶高「……鍛えてやる。死ぬ気でついて来い」
その言葉が、雷鳴よりも強く、組也の胸を打ち抜いた。
原 重鳶は、何も言わず傘を手に外へ出ると、米森の隣に立った。
その無言の並びが、答えだった。
組也は、泥にまみれながら深く深く頭を下げる。
足鳶 組也「……ありがとうございます……必ず、応えてみせます……!」
こうして――足鳶 組也の“本物の鳶としての修行”が、始まった。
それはかつて、区画を“支配”していた男が、初めて“学び”を得る旅だった。
そしてこの日、雨は――
ただの天候ではなく、“誓いを濯ぐ雨”となった。




