第21章『職人たちの朝』
配管の神、管田 吉彦との戦いが終わり――朝が来た。
空は鈍い曇天。陽が昇ったはずなのに、現場には冷たい沈黙だけが残っていた。
戦闘が行われたのは2階。だが、その衝撃は1階にも深く沈み、誰の口からも昨夜のことを語ろうとする声は聞こえなかった。
刷毛 塗男「……神ってのは、伊達じゃなかったんだな」
塗男は資材ラックにもたれかかり、曇り空を見上げながら呟いた。
声に混ざるのは、恐れでも、尊敬でもない。――“悔しさ”だ。
刷毛 塗男「どうやって勝ちゃいいんだ……。あいつと同じ地べたを歩いてる気がしねぇよ」
小手屋 学「同感だよ。でも、それでもやるしかないんだろ。俺たちはさ」
学は、ゆっくりとその場に腰を下ろし、地面の砂を指先でなぞるように払っていた。
その目の奥にあるのは、諦めではない。ただ、静かな怒りと、底の見えない不安だった。
上田 鉄太は無言のまま立っていた。
握った拳は動かず、ただ肩だけがほんの少し震えている。
上田 鉄太「……」
その背中は、決して強くはなかった。ただ“止まらない”という意志だけが、そこにあった。
そして――。
水上 雫は、一歩離れた資材影から静かに足鳶 組也の背を見つめていた。
足鳶は、あの戦いの後、仲間となった。誰もがその決意を認め、受け入れていた。
だが――水上だけは違った。
水上 雫「(……何が“改心”だ。俺は絶対に忘れない…)」
視線は冷たく鋭く、鋼材の奥に潜む刃のようだった。
怒鳴るわけでも、詰め寄るわけでもない。ただ、心の底で静かに火を燃やし続けていた。
水上 雫「(いつか……いつか必ずこの手で………)」
その決意を、彼は誰にも話さなかった。
ただ静かに、その時を待つ者として、立っていた。
そして、そのすべての中心から外れた場所――。
釘宮 大工は、資材の裏に座り込んでいた。
うずくまる体に、疲労だけではない何かがのしかかっていた。
釘宮 大工「…わざと生かされた……俺は……」
目を伏せたままの声には、苦しみと屈辱が滲んでいた。
管田との戦い。圧倒的な力の差。戦意すら削がれるような戦術。そして――止めを刺されなかった事実。
拳が震えていた。自分の負けのせいで、この1階のみんなを守れない所だった。それを敢えて、敵であるあいつに生かされた。そう思った瞬間、何もかもが崩れていった。
そのときだった。
ペーンキ ヌリゾウ(ぺーんき・ぬりぞう)「ダイーク……ナイテナイカ?」
静かで、どこか間の抜けた声が、大工の耳に届いた。
顔を上げると、そこにはペーンキ三男――ヌリゾウがいた。
手には、真新しいローラー。まだ一度も使われていない、白く清潔な布巻き。
ペーンキ ヌリゾウ(ぺーんき・ぬりぞう)「キミ、オチコンデル。ソレ……ボク、トル」
釘宮 大工「……な、なにを……?」
ペーンキ ヌリゾウ(ぺーんき・ぬりぞう)「いくヨ。――情吸回転塗装具」
ヌリゾウは、大工の背中にそっとローラーを当てた。
優しく、丁寧に、一定の圧で――上下に、そして左右に、ローラーを転がしていく。
その瞬間だった。
大工の胸の奥に溜まっていた“黒いもや”のようなものが、身体の表面に浮かび上がり、それがヌリゾウのローラーに吸い込まれていく。
ローラーの色が、ゆっくりと白色から黒へと染まっていく。
ペーンキ ヌリゾウ(ぺーんき・ぬりぞう)「マイナス……スッテン。ボク、モラウ。イイネ?」
釘宮 大工「……なんだ、これ……。あったかい……」
胸が軽くなる。肩の荷が、すっと下りていく。
涙が滲みそうになったが、大工はそれを歯を食いしばって堪えた。
釘宮 大工「……ありがとな、ヌリゾウ。マジで助かったわ」
ペーンキ ヌリゾウ(ぺーんき・ぬりぞう)「ダイーク、モウ、クヨクヨシナイ。キミ、ミンナノブンモ、ガンバテ」
釘宮 大工「ああ……頑張るよ。もう一度、職人としてな」
ヌリゾウはにこっと笑い、小さく手を振って跳ねるように去っていった。
釘宮は深く息を吸い、立ち上がった。そして、作戦会議の輪へと走っていった。
大工が駆け寄った先には、塗男、小手屋、上田たちが集まっていた。
手には紙のメモ。殴り書きの図。現場経験から導き出した仮設の対抗案。
小手屋 学「お、戻ったか」
刷毛 塗男「やっと顔が戦う顔になったな。どうだ、気は戻ったか?」
釘宮 大工「……あぁ。ヌリゾウに、心の中の錆を全部持っていかれたよ」
上田 鉄太「んで、作戦の話だけど――」
上田が切り出した瞬間、周囲に沈黙が広がる。
小手屋 学「……結論から言おう。策は、ない」
刷毛 塗男「正確には、“戦術”としての策はないって話だ」
釘宮 大工「どういう意味だ?」
上田 鉄太「奴の力は、“計算外”ってやつだ。理屈で勝つって考えそのものが、そもそも間違いだ。」
小手屋 学「でもな、ひとつだけ確かなもんがある。“俺たちは技術で生きてる”。だったら――」
刷毛 塗男「“その技術を、とことんまで鍛える”。それだけが唯一の道だ」
大工は拳を握った。
それは、管田に叩き潰されたあのときからずっと、自分の中で問い続けていた答えでもあった。
釘宮 大工「……分かった。じゃあ、やるしかねぇな」
そのとき、塗男の後ろから足を引きずるように現れた影があった。
釘宮 元「――お前ら、ちょっといいか」
全員の視線が集まる。
釘宮 元「……悪ぃが。俺、もう戦えそうにねぇわ……」
場の空気が凍った。
釘宮 元「膝の古傷が、もう限界なんだ。原田ん時には、もう完全にイカれた。立つのもギリギリでな……このまま出ても、足手まといになるだけだ」
緑山 葉太「私も、植木回復を試しましたが……この傷は、古すぎます。私の治療の範囲外です」
元も葉太も、その表情は穏やかではあったが、目の奥には深い悔しさがあった。
釘宮 元「だから、誰か……代わりを……頼む」
その言葉に応えるように、静かに前に出た男がいた。
上田 鉄太「――俺が行く」
短い言葉だった。
釘宮 大工「鉄太さん……!」
上田 鉄太「やれるとかやれねぇとか、そんな話じゃねぇ。“やるしかねぇ”ってだけだ」
その言葉が、皆の胸に響いた。
緑山 葉太「私も、皆さんのサポートに回ります。前線に出るわけではありませんが、すぐに治療できる場所に控えます」
そして、もう一人。
後方から水上 雫も小さく手を挙げた。
水上 雫「……俺も、同行する。前線じゃなくても、役目はあるだろ」
葉太が少し驚いた表情を見せたが、水上はそれ以上語らなかった。
ただ静かに立ち、目だけが組也のほうを向いていた。
誰にも知られぬまま、心の奥で、水上は“復讐心”を研ぎ続けていた。
釘宮 大工「じゃあ……やろう。俺たちは、職人だ。ならやることはひとつだ」
まっすぐな瞳で前を向く。
釘宮 大工「“修行”だ」
フッと、嬉しそうに塗男が微笑む。
刷毛 塗男「……何も言わずに、もう修行に入ってるやつも1人いるしな」
釘宮 大工「えっ、誰が?」
刷毛 塗男「組也だよ。あいつ、よっぽど悔しかったみてぇだな。昨日の夜帰ってきてから、ずっと1人で修行の準備を整えてるみたいだぜ…」
釘宮 大工「……そうか。なら、俺たちも負けてられねぇな」
上田も無言で頷いた。
上田 鉄太「……やるよ。誰よりも強い、鉄筋の一手をな」
あの戦いで突き付けられた現実。
自分たちが“神”と呼ばれる者たちと戦っていくという未来。
その壁の前に、誰も逃げなかった。
組也、上田、大工――。
三人の背中は、この覚悟でより大きく育つ。
そして、それを見送る者たち――
葉太は、治療薬と植物を整理しながら、静かに深呼吸した。
水上は、何も言わず、まっすぐ足鳶の背中を見据えていた。
曇り空はまだ晴れない。
だが、彼らの中には、確かに陽が昇ろうとしていた。




