第11話 傷心
僕は車の後部座席で、拾ったパンツを履き直した。美春はマネージャーの彼女を気取っているから、助手席でシートベルトを絞めた。僕は揺れる車の中で、ウトウトして眠った。
「全く、呑気なものね。よくも人の車で眠れるもんだわ!?」
「怖い目に遭って精神的に参ってるんだ、今は寝かせてあげよう」
目を覚ますと、事務所の医務室のベッドの上だった。キョロキョロと首を振ったけど、辺りには誰も居なかった。
僕はベッドから起き上がって、声の聞こえる室内に入った。
「あら、起きたの。もう、大丈夫よ。怖い目に遭ったわね」
社長の秘書が僕に気付いて、声を掛けてくれた。美春のマネージャーは、社長室で今後の事に対して協議中との事だった。美春も証人として、社長に報告していた。
警察への被害届は、相手の事務所の出方次第と言う事になった。今は相手事務所の社長が弁護士と一緒に、こちらに向かっているらしい。
僕の保護者も事務所に呼ばれて、詳細を聞かされるとお母さんは泣きながら僕を抱き締め、お父さんは激怒して刑務所にブチ込んでやると息巻いた。
相手方の社長は、弁護士を連れて謝罪に来ていた。お父さんは相手の社長に食ってかかったけど、皆んなに止められた。
そして深夜3時近くまで協議は続けられ、次の様に話し合いはまとまった。
①今後KOUJIは、如何なる理由があろうともMizukiへの接触を禁ずる(会話やメールも含む)。
②万が一、不可抗力によって偶然出会う等の状況が起こった場合、顔を背ける等して視線を合わす事なく、速やかにその場から立ち去る事。
③KOUJIは事務所を退所し、芸能界を引退する事。
④KOUJIはMizukiと所属事務所であるスィート・ダイヤモンドに対して、それぞれ5千万円の慰謝料を支払う事。本人に支払い能力が無い場合、その両親と事務所が保証人となって賠償する事。
⑤この協議は秘匿の話とし、万が一にも外部に漏れる事があれば、刑事責任を負うものとする。
⑥KOUJIによるMizukiへの謝罪の場を設け、その謝罪の言葉で本案件は決着するものとする。
⑦これら協議内容をKOUJIが破る事があれば刑事責任を追求し、更なる賠償請求を承諾するものとする。
「ねぇ、厳し過ぎ無い?」
「Mizuki、いいか良く聞くんだ。これは重大な犯罪で、本来なら彼は少年院に入ってもおかしくない事案なんだ。もう2度と会いたく無いかも知れないが、彼の謝罪の言葉によって反省を信じ、刑事事件にはしないと言う示談が成立するんだ。Mizukiだけでなく、既にお父さんやお母さんだけでなく、事務所の人達や相手の事務所の人達も巻き込まれているんだ。ごめんなさいで済む問題じゃないんだよ」
僕は、お父さんに諭されたけど、お金なんか取ったら恨まれるんじゃないかと思った。芸能界を引退させられるだけでも、彼には大きな痛手だろう。
だがMizukiは知らなかった、彼らが多くの女性達を強姦してメンバー内で共有し、行為中の写真や動画で脅して性奴隷にしていた事を。相手の事務所は、事務所を守る為にKOUJIを切り捨て、他のメンバー達への見せしめとしたのだ。
数日後、僕の口座に5千万円が振り込まれた。慰謝料などは確定申告の対象外とされている為、この5千万もの大金は自由に使えるお金となった。
当然、両親が管理する事になり、僕は傷心旅行として事務所から暫く休暇をもらった。事務所としても今回の件で5千万が入金されたので、それは僕の稼ぎ扱いとされて、その分の仕事休みをもらった感じだ。
家族で東京チューチューランドに1週間も泊まって、アトラクションを乗り尽くし、そのまま約1ヶ月ほどハワイで楽しい時間を過ごした。
しかし日本に戻って来てから、心身に異常をきたし始めたのだ。夜な夜な襲われた場面がフラッシュバックする様になり、悲鳴を上げて飛び起きた。
心療内科に通院すると、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だと診断された。特に男性恐怖症となり、お父さんやマネージャー、社長などは平気なのだけど、その他の男性が近くにいると、身体がすくんで動けなくなるのだ。
クラスメイトの男子達ですら、恐怖の対象だった。彼らは元女子だ。その事実ですら恐怖には抗え無かった。
僕はドラマやバラエティーなど、男性と関わる仕事が出来なくなり、芸能人として致命的なダメージを負った。
「これなら5千万でも安かったわね」
僕の担当マネージャーに就いた女性がボヤいた。僕は主に雑誌グラビアモデルの仕事を中心に行い、撮影時はカメラマンから照明などのスタッフ全てが女性になるよう配慮された。
事務所がこんな僕を見放さないのは、MyTubeの登録者数が100万人近くおり、莫大な広告収入が得られていたからだ。
僕は男性(女性もだけど)と接触する必要の無い、配信に特に力を入れて活動していた。男性ともメッセージでのやり取りは行うけど、姿が見えなければ恐怖は感じなかった。だから僕が男性恐怖症だと言う事は、世間には知られていなかった。
それから僕は学校に行けなくなり、1年が経ち2年が経ち、小学校を卒業して中学生になった。
中学に入学すると、僕は支援学級の教室になった。クラスといっても保健室の一角を仕切り、僕1人がそこで自主学習をしているのだ。時々、先生が授業を抜けて見に来てくれるけど、もちろん女の先生だ。
心に負ったトラウマは、あれから3年近く経つのに払拭する事が出来ずにいた。不意に男性と会ってしまい、身体が固まる度に「僕だって元は男子だったんだ。男なんて怖くない。男なんて怖くない」と心の中で念じるのだけど、全く効果は無い。
固まって動けなくなった僕を心配したおじさんに肩を叩かれ、恐怖で気を失った事さえある。
きっと僕はこのまま一生、誰とも付き合う事も無く、結婚する事も出来ずに孤独に1人寂しく死んで逝くんだ。
ある日、僕の存在に気付いた男子達が保健室に殺到した。僕は恐怖でガタガタと震えていると1人の男子が、僕が怯えているから保健室から出て行け!と追い出した。
僕は感謝して頭を下げて、その男子を見た。見覚えがある。彼は、清隆のお姉さん(今は男子)だった。僕が小学校低学年の頃は、よく遊んでくれた思い出があった。
「菜月ちゃん?あっ、菜月先輩?」
「覚えてくれてたんだ?今は菜月じゃ無くて、翔馬だけどね」
不思議と恐怖を感じなかった。僕の知ってる菜月ちゃんが、そのまま男子になった様な姿だったからだ。
「突然、引越しちゃったから…清隆は元気ですか?」
「春美ね。まぁ、元気かな。弟…妹は、転入の関係でまだ転校して来てないけどね。そのうちまた会えるよ」
「清隆…春美に会えるんだ?楽しみ」
「それにしても、随分と可愛くなっちゃったね。MyTubeチャンネル登録してるよ」
「えっ?有難う御座います、翔馬先輩!」
「先輩って、何だか照れるな」
どことなく清隆にも似た雰囲気だからだろう、久しぶりに僕は男子と会話をした。
それから1週間後、清隆が転校して来た。