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作の事情4

 何者かの手が肩に触れるので、ハッと意識を取り戻した。俯き丸まった為に膝が鼻先にある。一瞬夢を見ていたようで今が何処だか分からぬ。バクバクと脈打つ鼓動が緩やかになってくると、やっと呼びかける言葉が聞きとれた。


「…どうも、どうも大丈夫です。意識を失っていたようで。ご心配を。」


 肩に手を伸ばしたが、目覚める直前に感じていた手はなかった。そこに人が居たのは確かだった。なぜならば、温度の残滓があるためだ。

 太腿の裏からそぞと鳥肌立ち、それが肩ほどに来ると錯覚のような温度は消え去った。


「良うございました。御老体の仏さんなんて困りますからね。趣味の商売ではございますが、客足遠のいたら商売になりませんもの。本当に安堵いたしましたよ。」


 向こうから聞こえたのは若い男の声だった。コロコロと出る言葉は、心配の欠片もなく、しかし内容は悪いが、悪意もない。妙に耳障りのよい声だ。

幼い娘が口上が蘇った。あれは人形劇か、おままごとか。俺や妻が聞き耳立てているのに気づいてか、特に張り切っていた。

 誰の、なんの本だったか。


「おたく、おたくはどちら様だね。俺ぁ、いったい…」


 ハッキリしない頭で周囲を見渡す。彼は土間から一段高い勘定処に座していて、手を伸ばすには距離がある。それに肩に触れた男らしい手は、視界の端にとらえた彼の小ぶりな造りとはまるで違う。もっと側に誰かが居たのであるが。

 見渡しても吊り下がった模型や、駄菓子の袋によって視界は遮られてしまう。


 じぃ、と目を凝らしても人がいるらしい動きはない。それをどう思ったのか、店員らしき若者は親切に事情を説明してくれる。ただ、呆れて叱るような気配が口調や表情に表れていた。


「作家先生は熱中で目を回されたんですよ。土塀ですから、外よりは涼しいですけれど。油断すると冷めた熱が戻ってきますから、ちゃんと身体を冷やしてくださらないと。首をめぐらすとクラリと来ますよ。」


 その言葉に頭にぱっ、と白い道が浮かんだ。


 この店に至る前の日よけのない、白い道を歩いた事を思い出せばよくあることなのだろう。あれは往来で熱死させるのを目的としたような酷い道であった。


 無理が効かない年に冒険心を働かせた己を省みて、そんな道を歩いたかしらと不思議に思った。

 再びぼんやりと俯いた旋毛に向かって、こちらの健康を気にしない、軽やかな声が向けられる。


「申し訳ありませんが、足が悪いもので段差は厳しいのです。こちらに来て頂けますか?

お代は結構ですよ。僕の店ですからね。店主の菓子屋と申します。ご贔屓にどうぞ。」


 なんとか体を起こして相手を見、驚いた。   

 古めかしい、佇まいに品がある青年だ。店主と名乗るには若すぎるが、不思議なもので勘定処の風景とピタリと似合う。この一致が彼が駄菓子屋の店主だと納得させられた。


 瓜実顔に名人が毛筆をすぅっと引いたような目が印象的だ。柔らかさと鋭さを感じる絶妙な雰囲気が、今ほど酷暑でなかった50年前の夏を思い起こさせた。


 彼は藍染の浴衣姿だ。

 一体今が何年か、タイムスリップしたような錯覚がする。

 病院が夢ならば、散歩に出た先の駄菓子屋かと思い出す。まだ意識がぼんやりとしたが、誰かと話していたのを思い出した。


「俺くらいの爺さんはいなかったか。恰幅のよい、着物の。」


「楠木の旦那なら、先生が倒れて大慌で知らせに行きましたよ。さぁさ、熱を落ち着けましょう。アイスキャンディーとラムネどちらにしますか?」


 

 押しの勢いが強い。困惑しながら善意を受けることにした。


「ラムネを頂こうかな。」


「どうぞ。今度はちゃんと冷えてますよ。」


 皮膚が痛いほど冷えた瓶から飲む炭酸は驚くほど清涼で刺激的だった。冷えたラムネが口内から胃に貯まるでが分かる。

 眠気で曇っていた思考が晴れ、全身に気持ちの良い鳥肌が立つ程だ。 


「美味いですな。爽快でした。」


「ようございました。先生は旦那をお待ちしますか?お帰りになられても、伝言しておきますけれど。」


 迷ったが、一期一会の出会いに対して、さっくりと帰宅するのは風情がない。

 知らせに、というのが誰にかは分からないが、俺の為にと動いてくれている人を置いてくのは情がない。


「待たせてください。電話を借りたいのだが。」


「お恥ずかしい話ですが。古い建物で、無いんですよ。」


 あっけにとられてしまった。


 電話がない、というのはなかなか現代では考えにくい。蔵を改造した建物だから、電話線を引いていないのだろう。しかし、足が悪いという店主では何かと人手が必要で、不便だろう。腑に落ちない。


 母屋に通して貰えないか、その提案も断られる予感が強くした。


「おや、まぁお気になさらずに泰然と構えていてください。すぐに旦那も戻って来ましょうし。」


「そうですか…」


 駄菓子屋では暇をつぶすものはなく、彼と話すのは気が引けた。年代の溝とは別の理由だ。


「いえ、やはり伝言を頼みます。お世話になりましたと。また機会がありましたらここで再会したく思います。お代は後日、必ず払いますので。商品を勝手にして申し訳ない。」


「律儀ですねぇ。どうせ旦那の勝手です。作家先生は共犯にされただけすから。ご安堵くださいな。気が揉むようでしたら、先生のお代は旦那から頂戴しますから、心残りないように。ね。」 


 ふふふと品よく笑う店主だが、どうにも俺を歓迎していない。商品を無断で拝借した手前、どうにも居心地が悪く感じる。

 

 言葉を返すのも藪蛇に思え、感謝の一礼を返して店の入口へと戻る。吊り下げられた笛ラムネの袋を除ける。暗い所に居たからだろう。入り口から見える景色は強烈な夏の日差しに漂白され、黒い画用紙を四角く切ったように見えた。そこに何者かが立ちはだかっていた。


 逆光の人影は周囲より更に真っ黒く見えた。


「申し訳ない。出ますので。」


 世話になった老人ではないかと期待したが、詳細が見えずとも影の形は細く、少なくとも年寄りではない。背を向けているのか、此方を向いているのかさえ分からないが、眩しいのを堪えて顔がある方へ、あるいは後頭部を見る。


「…退いてくれんかね。帰りたいんだがね。」


 うんともすんとも返さない黒坊主にムッとしてきた。押しのけてやろうか、強気がムクリと首をもたげて、良し悪しを考えるより早く手を伸ばそうとしたが、声にハッとさせられた。


 まだ出るな。


 瞬間、毛が逆立つような怖気に包まれ、足が笑った。

 何かが来た。どしりと尻に衝撃が来た。舞い上がった砂粒がキラキラと白く輝き、相反した砂ぼこりのむっとした臭いが鼻腔を汚した。

 尻餅をついたのだと遅まきながら理解した。外から差し込む光に皮膚はピリピリとするのに、腹の底から冷えて凍えそうだ。


 ようやく理解した。今、ここが現実ではないのだという事をだ。俺の身体は病院にある。さりとてこれも、夢ではない。

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