娘の事情
私は小説家の娘だ。産まれて、成人するまでの殆どを父の筆で養われた。
彼の文才は軽薄で軽妙ではあるけれど、匠ではなかった。しかし、とにかく書き上げるのが早かった。各ジャンル浅く広く、つまらなくはないがまぁ面白いという質の話をいくつも書ける才能があった。
それは当時の文壇では評価もされなかったが、大衆文学の発展において貢献した。
父は産まれるのが早すぎた。もし、その才を担いで現代の感性で産まれたならば、ライトノベルの作家として有名になっただろう。
五十歳になってから時代ものの捕物帖を手掛け、これが代表作と言えるほど知名度を経た。しかし、七十歳を過ぎて倒れてから流石に書けなくなってしまった。
死ぬ間際まで書くだろうと思い、当人もそうだろうと信じていただけに、悲しく惜しく思う。
「ただ今。お父さん意識戻ったわよ。相変わらず呆けてるけど。」
病院に着替え等預け、実家に戻ると出迎えた母に父の容態を告げた。
覚悟していた強張った表情がほわりと緩んで笑みに変わった。泣きはしないが、祈るように合わせた両手が何度も擦り合わされたり、上下にお辞儀する。
母は二度目に倒れた後から信心深く変わった。何かに傾倒するでなく、日々への感謝のような、自然信仰なのか取り留めのない何かに祈る。
ただその時、本当に生死の境を彷徨った為に、父には相当のストレスとショックを与えたようだ。痴呆を発症してから母は死んだことになっており、娘と思い違いするようになってしまった。
母はすっかりいつも通りに落ち着くと、リビングでお茶を用意して寛いだ。
「お帰んなさい。あたし倒れたっきり死んじゃって、あんたになってるからね。あんたには苦労かけて、泊まってく?お仕事?」
女二人居ると父が混乱するため私は近くの部屋を借りて必要な時に手伝うようにしていた。在宅で済むような仕事だったのが幸いした。
「そうね。急変するかもしれないし、泊まるわ。お父さんさ、駄菓子屋にツケを返しておけってさ。ラムネ代。お父さんのそういう話、覚えてない?」
「あんたが幼稚園の頃ぐらいよ。近所にあって。あとは市民プールのところかしらね?お母さんよりあんたのほうが思い出あるんじゃない?でも、ツケがあるとか聞いたことないわねぇ。」
淀みなく答えた母は、あ、でもと何か閃いた顔して続けた。
「不思議な話ね、今日あの人が寝てるときね、あたしここにいたんだけど、玄関から散歩してくる…なんてね、あの人の声が聞こえたのよ。もしかしてその時、駄菓子屋に寄ったのかもしれないわね。」
「ええ、幽体離脱?お迎えが来たーとか最近話したし、もう長くないのかなお父さん…。」
「あんたが再婚するまで頑張るわよ。」
母は怒ったような口調で返答した。何が気に障ったのか、突然の態度に私も気を尖らせる。母すこしぶっきらぼうに尖った声で名前を告げた。
「イチさんよ。」
「何?」
「お迎えってイチさんのことよ。枕元に立ったんですって。あの人絶対お迎えじゃないわよ。」
母の不機嫌の原因を知って納得した。父の古い友人だった人だ。イチさんの人なりは知らないが、彼の妻と娘は知っている。
私は頭を抑えながら「違って欲しいわね。」と、返答した。
「ねぇ、最近あんたの所にあの人達ちょっかいかけに来てないでしょうね?」
「映画の時以降無いわ。私も引っ越したし。あそこの奥さん亡くなったでしょ。もうそんなやっかんでこないよ。」
「亡くなったの?いつ?」
「さぁ、知り合いが教えてくれたから。三年前くらいじゃない?」
情報源が元旦那とは言えなかった。私が離婚した原因はイチさんの娘であり、遡れば父とイチさんの仲違いに始まる。
よりにもよってあの女と浮気した。私よりも母の怒りのほうが深く、この話題は掘り返したくない。
いろいろあってようやく裁判で訴える事が出来た。接近禁止を叩きつけ、慰謝料を請求して互いに引っ越してから、ようやく安寧が訪れた。それまであの母娘は父と私の人生に粘着し続けた。
彼女らは市稲木一の作品を盗作し、筆を折らせて未来を絶たせたと、父と私を誹謗中傷し続けた。
父の作品がドラマ化しようと言う時も乗り込んできて、結局制作が見送りになった。
忌々しい限りだ。
思い出して私もクサクサしてきた。
「ねぇ、あんたあの人たちを調べるツテがあるの?」
「なくもないけど…」
あなたの大嫌いな元旦那ですよ。
「ちょっと調べて貰えない?絶対怪しいのよ。」
「調べるって…どんな事を知りたいのよ?」
「怪しいことしてないかよ。邪法とか、呪いで、お父さん祟ってるのよ。」
私は呆気にとられてしまった。母は信心深いが、オカルトまで信じているとは。長年父の作品を読み続けてきた一番の読者であり妻である。不謹慎ながら可笑しく思ってしまった。
「まぁいいけど。万一よ、本当にそうだとしても、私達じゃ呪詛返しなんて出来ないわよ。」
「うふふ。そこは大丈夫なの。すごい先生を呼んだからね。お父さんが一命を取り留めたのも、先生が気づいてくださったからなのよ。」
母は愛嬌のある笑顔で自信満々に頷いた。しかし、母の態度と反対に私は心配になって、慌てて事情を掴もうと母を追求した。
「ちょっと、なにそれ。聞いてないよ。先生って何?いつから?名刺とか取っておいてある?」
「心配しなくても大丈夫なの。お父さん、怪談の話書いたじゃない。結構売れたじゃない。あの時の編集さんがね、遊びに来た時に言ってたのよ。十年くらい前ね。すごい拝み屋さんがいるって。その人に頼んじゃった。」
私は血の気が引くのを感じた。父も私も母の宗教観を正さなかった。微笑ましく思っていたが、ツケがまわってきたのだ。父の心配に母への注意まで加わって胃がぎゅうっと縮まった。
「お母さん。ちゃんと話して何もわかんないわよ。お父さんが倒れた日に来てたの?どんな人よ。次会うのいつ?」
「そんな色々聞かれても…。」
「とぼけないでよ。」
「別に宗教に入ったとか、法外な金額でもないのよ。相談で五千円で、お車代とかはお気持ちつけるくらいよ。お父さんより年上だけど、矍鑠してて俳優さんみたいな方でね、カッコいいの。キュンとしちゃったわ。老人が老人によ。笑っちゃう。」
「お母さん。真面目にして。」
「口コミで知る人は知るって有名な方なのよ。楠木さん。先生が来てから、お父さん寝顔が穏やかになってね。ほら言ったでしょ、散歩言ってくるって声が聞こえた日よ。
それで、お先生が救急車よびなさいっておっしゃってくれたから、お父さんの意識がなくなってるのに気付いたのよ。」
母は拗ねた口調で続けた。
「言わなかったけど、四日前にねイチさんが枕元に立ったて、あの人が言ったのよ。にこにこ笑ってるなんて。お母さんカッとしてね、魔除けみたいな…厄払いっていうのかしら…御札を貼ってやったのよ。」
私は感想に困り、ただ相槌を返した。母はホッとしたように、あるいは調子にのったように力を込めて「そしたら」、と語気を強めた。
「おまえの札のせいで、イチさんが部屋に入れないから外してやってくれってあの人が言うの!気味悪くって!」
母は興奮してか悔しくてか目を潤ませていた。なんとなく、私も嫌な気持ちになった。
父にとってイチさんはまだ友人なのだろう。しかし、散々私達家族に迷惑を掛けてきたのはイチさんの関係者なのだ。
父の長年の後悔を想えば歓迎すべきかもしれないが、到底認めたくなかった。
母の気持ちも分かってしまう。イチさんは父を恨んでいて、死後もずっと取り憑いて呪っていたのかもしれない。父の天寿はもっと先で、少しずつ生命を削られていたのかもと。
祓い屋だか霊媒師に頼んでいて母の気が晴れるなら良いと思えた。
「わかった。祓い屋さんの事について気が済むようにして。でも私を仲間外れにしないで。家族なんだし、私ももしイチさんなら許せないから。頼まれたこと、一応聞いてみるわ。」
私が態度を一変して味方になると宣言すれば、母は大いに喜んだ。
次回、馬場通視点に戻ります。