作の事情3
「書き上がるのに二年と少し掛かりました。何かしら祝のつもりで、知人に頼んで本の形にして送ってやろうと。発表するつもりはありませんでした」
そこで俺は言い淀んで頬を撫でた。弛んだ頬だ。こんなによぼついていただろうか。
しかし、俺にしては珍しく無精ひげが指を刺激する感覚がない。はて、最近葬式があったろうか。
またラムネを傾ける。水の無味に近いが、絶妙な甘味に柑橘由来の苦い酸味がシュワシュワと喉を滑っていくのが心地良い。温度は冷蔵庫がある昨今からだから温く感じるが、潤うほどには冷えている。
味と空間、懐かしくて気持ちが若返っているのだろう。
決心がついた俺は再び語った。
「家に上がった編集が原稿と取り違えちまったんです。依頼したもんじゃないが、こっちのがいいってんで掲載されて。……気づいたときにはまぁ、取り返しがつかなかった」
あの頃を思い出すと、同仕様もなく苦い。カラカラとラムネの括れに捕まったビー玉を転がしながら、悔恨を口にする。
「俺も家内も、どうして紛らわしい置き方をして気づかなかったのやら、ねぇ。」
依頼された原稿と並行して共同制作の清書を一つ部屋で行っていた。校正を妻に頼んでいて、家事の合間に指摘を貰っていたのだ。
彼女は乱雑を嫌い、部屋に入る度に呆れて整頓してくれたものだ。
だから彼女の失敗ではなく、俺の無意識が悪さしたのだろう。
「彼はなんでお怒りに?」
「一番は、そう、あれは奴が…己が挑戦すべき作だったのだ、と。忘れちまっていたんです。俺に預けてくれた約束を、あいつから言い出したのに酷いもんです。
……彼はあまり酒付き合いをしない性格でしたから、俺は有頂天になって思いつきませんでした。ああ、俺の筆で長年の友誼に応えられるぞって。」
「それはお悔しかったでしょう。」
「いやぁ、ありがとうこざいます。なんといいますか…まぁ悔しいものでした。
ままならないもんです。製本を請け負ってくれた友人のように、事情を察して仲裁してくれる者がおりました。編集もね、一緒に頭を下げてくれました。でも市稲木は信じませんでした。いっかな信じてくれなかったのですよ。
間の悪いことに、その頃の妻が病を拗らせまして金が入用になりました。結局俺はその作品を、市稲木に手紙を送って一方的な許可を頼んで…会社に連載を願いました。
次の号には友人との共同作である但し書きをつけたのが良かったのか、俺への最後の友情か判別できません。奴から一度も苦情はありませんでした。
今、思い返せば手切れ金だったでしょう。市稲木らしい反撃です。」
あの作品は我々の予想以上に反響があった。俺は幾らか脚光を浴びて有名になった。以降、馬場通 幕太郎の名前は大衆に認知され、旧作は再評価され、新作はよく売れるようになった。
そうすると市稲木の不安を少しばかり理解もした。以降、俺は馬場通 幕太郎の筆名を変えられなくなった。己の評価が分からなくなった為である。
俺はその思い上がったような不安を市稲木に相談したい気持ちになった。
しかし、今、彼が何を考えているのか欠片もわからず、俺は市稲木の新作を待ち続けた。作品から彼の内面を推し量ろうと試みよう考えたのだ。
「以降、市稲木は一編も発表しなかったんです。知人や恩人との連絡も細くなって、何をしているのか知れなくなりました。
一度だけ、彼の家を訪ねた事があります。ご家族にまぁ、蛇蝎の如く嫌われておりました。市稲木一は筆を折ってしまったのだと言われました。彼とはそれっきり、それっきりになりました。」
自責の念で筆が止まるかと周囲から心配されていたが、そうとはならなかった。
まだ、俺は待つのを諦められなかった。だが、市稲木は亡くなった。
俺に一言の一片も残さなかった。
その時の憤怒をなぞったからか、カッと暑くなり汗がふいた。セミの合唱のような耳鳴りがする。苦しくなって胸を抑えて背を丸めた。
眼の前が白くなる。土間の臭いか、鼻についた焦げ臭さがあの夏へと俺を連れて行く。
五十の中年になって田んぼの畦道から空を見上げていた。かんかんの青空、真っ白な雲へと登る煙を幻視していた。
しかし、例え煙が上がっていたとしてもそれが市稲木か、他人様の火葬によるものか俺には知りようがなかった。
市稲木が死んだらしいのも、火葬の日取りも知人がこっそりと教えてくれたのだった。
故に、俺は礼服を纏って霊柩車に続く一行に混じった。火葬場を見上げるこの場所に車を止めて、遠方から友人を見送るに決めたのだ。夏だったように思う。
ふいに景色が白くなっていく。場面が変わり、火葬される市稲木に憑依したのだろうか。一面に白い炎が広がっていた。しかし、熱さはない。腹の中でラムネがシュワシュワと泡を立てているからである。なんと荒唐無稽な。不可解さに疑問を持つということは、死んだか、夢が終わるのだろう。
次に目を覚ますと病室だった。
最近は自宅療養に移って、見慣れた部屋だったのが殺風景に戻ってしまった。腹が擽ったくてボリボリと掻いてみる。
看護師らしいのが俺に気づいて何か言葉を投げかけてくる。ウンウンと応える。前担当した看護師か、違うのかよくわからぬ。
看護師が離れて暫くぼうとしていると、お父さんと呼ぶ声がした。娘だ。
遠慮なく肩に触れてくる。俺が老いてからよく触れるようになった。年寄り扱いだと分かっているが、叱る気力もなく許している。
覗き込む目に涙の膜が光っている。死なんで良かったと思った。
「意識不明になってたんよ。くたばったのかと心配したわ。」
「出かけたから、体がびっくりしたんだろ。」
「何言ってんの。お父さん…」
「駄菓子屋行ってきたんだ。出るとき言っただろ。ああ、そうだ。忘れとった。おい、ラムネはいくら位だ?50円か?」
呆れたような、哀しむように失笑めいた笑顔を娘がした。それに少々腹がたった。
面白くないという拒絶が気配に出たのか、娘は感情を抑えた震え声で答えた。
「100円くらいじゃないの。」
「そうだ。青い暖簾の駄菓子屋に払っといてくれ。そんなまぁ遠くない。20分かそこらにあるだろ。」
娘の態度も気に入らなかった。今日は楽しかったように思ったが、台無しになった。
少しでも俺の不機嫌の一端を擦り付けたく、意地の悪い頼みをした。
暫くして、あいつに土産を選んだ気持ちを思い出して惨めになった。言い訳したい衝動に駆られ。しかし、夕暮れの病室からいつの間にか娘は去っていた。
まだ続きます。
人物
馬場通ばばつ 幕太郎まくたろう
夏子(娘)
市稲木一しいなぎ はじめ
楠木の旦那
菓子屋