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後編

 容体が急激に悪化したのはわずか三日目の早朝で、その時はもう母の意識はなかった。

 呼びかけにも反応しないまま、午前八時すぎ、母はねむるように息を引き取った。


 葬儀場では満開の桜がちょうど散り始めていた。

 あたりを被いつくすかのように降りかかる花弁が誰の服も髪も桜色に染め上げ、まるで夢幻の風景のようだった。


 満開を 棺とともに散りしより さくらは悲しき花となりけり


 のちに、父が読んだ句だ。

 

 葬儀がおわって自宅に戻っても、熱に浮かされたように、父は親戚と家族の前で思い出を語り続けた。


「わしは毎日言っていたんだよ。ママさん、世界中で一番好きだよと。迷惑そうにしていたけどね、本当の話だよ。ああ、忘れていた、大事なことを忘れていた。最後に送り出す前に、棺の中のママさんに、ちゃんとキスをすればよかった。なぜしなかったんだろう」

 

 大正生まれの男性で、これほど臆面もなく妻への愛を語る人をわたしは見たことがない。

 親戚は父の熱愛自慢を聞いて、さぞ母も幸せだったことだろうと泣き笑いしていた。


 いつも泰然と構えていた父だったが、最愛の妻を失った痛手はあまりに大きく、葬儀の後は魂が抜けたように無表情になってしまった。影の薄くなった父が心配で、わたしは毎日お惣菜をもって父の家を訪れた。

 父はしんとした家でいつも一人、俯いて新聞を読んでいた。

 毎日何をしているのかと尋ねたら、毎日泣いてるんだとせつないことを言う。

 天国から地獄とはこのことだ。ずっとあの暮らしが続くものだと思っていた。ママさんと二人、あとは何もいらなかったのになあ。そう、ため息交じりに繰り返した。

 父に関する母の愚痴を山ほど聞かされ続けていたわたしとしては、言いたいこともあったけれど、口には出さなかった。あとになってわかる至らなさなど、どんな夫婦にも、きっとわたしたちにも、山のようにあるのだろうから。

 それにしても、思わずにいられないことがあった。わたしたちにはひたすら怖い存在だったあのヒステリックな母のどこを、父はあれほど愛したのだろう。それは本当に愛と呼べるものだったのか。何故わたしは最後まで「パパは私の話を全然聞いてくれない」という愚痴ばかり聞かされてきたのだろう。美貌など顔の皮一枚のことだ。何故父は、それほど大事な妻の、孤独に病んだ心と向き合ってあげなかったのか。

 結局父は、愛することに不器用だったのだ、と思うしかなかった。


 父は、ひとりぼっちになってもわたしたちと一緒に住む気はさらさらないという。母と二人で設計し、大事に建てたこの家で、母の思い出とともに静かに生きたいというのだ。結局、家政婦さんを週一で頼み、夕食は宅配を手配して、細かい雑用はわたしがすることになった。

 広い家の中で、父は趣味の油絵を描き、友だちを招いて囲碁を打ち、図書館から借りた本を読んで静かに過ごした。声高にあれこれ嘆く人ではなかったが、それでも来客があるたび、話がしたい、妻と話がしたい、もっと話をすればよかったと、沈んだ声で言っていた。

 もっと話を。二人きりで話を。それは母がずっと望んでいたことだった。失ってから求めても、得られないことはある。父のその悲しみは誰にも慰めようがなかった。


 十二月にはいり、クリスマスプレゼントにわたしは大きな赤いシクラメンを持って行った。父はキッチンテーブルの真ん中にそれを置いた。花のあるダイニングは父の毎日の居場所で、大きな窓から緑の庭を見渡すことができた。花のすぐ上に昼光色のライトが下がっていて、その下でよく父は本を読んでいた。

 夕暮れに外からダイニングを見ると、灯りの下に明るい(かがり)()がともっているようで、わたしは花の色が少しでも長続きしてほしいと願ったものだ。

(後で知ったことだが、シクラメンは別名篝火花ともいうそうだ)


 あるとき、その篝火の下に、父と向かい合う知らない女性の顔があった。

 家政婦さんかなと思ったが、どうやら違う。もう少し若くて、おしゃれで、きれいな人だ。

 おやおや、とわたしは思った。

 それから、わが家から見える庭の通り道に、ときおり、その女性の姿が見えるようになった。何も言わないのも不自然な気がして、わたしはある日そっと聞いてみた。


「最近、お友だちが遊びに来てる?」


 すると父はにっと笑い、


「綺麗な人だろう」と答えた。

「社会教育会館の歴史サークルで知り合った人だ。いい友だちだよ。友だちは多いほうがいいだろう」


 その通り、友だちは多いほうがいい。

 母が生きていたらそうは言わなかっただろうが、わたしは娘として心からそう思った。

 そしてそれから、父の周辺の様子が変わってきたのだ。

 ある日、父宅の郵便ポストに手紙を取りに行ったら、リボンのかかった可愛いらしい包みがあった。その日はバレンタインデーだった。

 例のお友達ね、いいわね、と父に渡したら、違う、と淡々という。


「え、違うの」

「これは多分、別の人だ」


 そのころ父は八十歳近かったと思う。

 その翌日、門を出たところでご年配の品のいいご婦人に呼び止められた。


「あの、Tさんはおいででしょうか」

「いえ、父はちょっと出かけていますが、なにか……」

「あの、ではすみませんがちょっとこれをお渡しくださいませ」


 チョコレートらしい包みをわたしに押し付け、老婦人は名前も言わずにそそくさと去って行った。


 ……これも、別の人?


 そこでわたしは思い出した。

 定年退職した父が、母の生前から通っていた社会教育会館でサークルの顔役をしたり、芸術文化協会の役員を引き受けたり、油絵の会でリーダーになると、母が露骨に嫌な顔をしたことを。


「面倒なことばかり引き受けるんだから。たくさんの人に振り回されてるとろくなことにならないっていうのに、あんなにしょっちゅう出かけて」


 だが、母は知っていたのだと思う。父が外に出ると結構もてていたことを。そして父も案外、まんざらでもなかったことを。

 背が高く、理知的なタイプでなかなかダンディな父は、たとえばわたしの大学の学園祭に訪れれば、教授と間違われて周囲の学生から頭を下げられていた。病気で入院すれば、若い看護師さんたちが、Tさんのファンクラブを作らなきゃとはしゃいでいた。

 わたしは父の元気が復活してきたこと、明るく生きなおしていることに安堵したが、もしあの世というものがあるなら、そして天国というものがあるのなら、今の父を見て母が天界で怒っていませんようにと、妙な心配をしたものだ。


 母の死から数年たって、入れ替わり続ける父の「女友だち」はどうやら一人に絞られていった。油絵の会で知り合った別の女性で、Sさんという。年齢より若々しく上品なタイプで、母に少し雰囲気が似ていた。

 そう、自分で気づいていたかどうかわからないが、父がお付き合いする女性はみな、少しだけ母に似ているのだ。

 父はその彼女と旅行に行くようにもなっていた。お洒落をして、小さな鳥の羽のついた帽子をかぶり、お気に入りのステッキを持って。


 八十五歳になったころだろうか、父はある日、私たち三人姉妹を自宅に呼び出した。そこには、「油絵の会で知り合った」という、あの品のいい婦人、Sさんがうつむき加減に座っていた。

 その彼女の前で、父はわたしたちにこう告げた。


「今私はこのひとと真剣に付き合っている。この先もお付き合いを続けていくつもりだが、結婚はしない。彼女もこちらも配偶者に先立たれて独り身だが、お互いひとりと一人として付き合い、いい時間をともに過ごせたらそれでいいと思っている。構わんだろうね」

 

 わたしたちは顔を見合わせながら、戸惑い、笑顔を浮かべるしかなかった。構わんも何も、今や独り身なんだから恋愛ぐらい好きにしたらいいじゃないの、そう一番上の姉は言った。Sさんは居心地悪そうに、ただ背を丸めてお辞儀をしていた。

 家を出て皆でお茶をしたとき、それにしてもいい歳になってもパパってモテるのね、とわたしたちは笑いあった。ひとりぼっちでしおたれるよりは、よほどいいことじゃない?と。


 わたしは毎年シクラメンをクリスマスに贈った。年末になるとダイニングテーブルの上には篝火がともり、父とSさんがたびたび赤い炎を挟んで向かい合っていた。


 そして、八十代最後の夏。

 父は突然の肺炎に倒れた。


 前日の昼はおいしそうにシュークリームをパクついていたのに、翌日の昼訪れたら、高熱でベッドから起き上がれない状態になっていたのだ。

 救急搬送、即入院。それでも、熱が下がり、肺炎菌がなくなれば病も通り過ぎる、とわたしは思っていた。

 ところが、熱が下がっても父は立ち上がることができなかった。当初は二週間で退院できると言われたものの、三週間たちひと月が過ぎても、父は歩けるようにならなかった。それどころか全身の筋力が弱り、嚥下も満足にできず、誤嚥を繰り返すようになってしまったのだ。

 結局病院の勧めに従って胃ろうをつないだ。父は最後まで胃ろうには抵抗していた。胃に直接穴をあけて食べものを入れる、それはもう人間じゃない、死んでもいやだ、と。

 だが若くて美人の女医さんにお説教されて、あっさり折れた。綺麗な顔を近づけて、美しい女医さんは父を説得した。


「よく聞いてくださいね。Tさんはまだまだ体力があります。一度胃ろうをつないでも、誤嚥が収まれば胃ろうを外してまた口から食べることだってできるんですよ。望みを失わず生きましょう、これは終末医療じゃなくて治療の一環です。わかりましたねTさん」

「はいわかりました」と父は笑顔で返事したのだ。

「わしはなんか、先生に怒られとる生徒のようじゃな」

 どこまでも、美女に弱い父であった。


 だが、めっきり衰えた父は、自分の死期を悟っていたのだと思う。あのSさんがお見舞いに来たある日、こう告げたのだという。


「これ以上老いさらばえていく姿を、あんたに見てほしくない。

 いい時間を過ごせた。元気な時の自分だけ覚えていてほしい。これで顔を合わせるのを最後にしよう」と。


 この話はSさんご本人から聞いたのだが、プライドの高い父の言葉を尊重して、わかりました、と手を握り、それきり顔を見に行くことはやめにしたということだった。


 父九十歳。人生最後の恋の終焉だった。


 その後、まとまった貯金が父にあったのが幸いして、かなり良心的な有料介護施設に入ることができた。胃ろうをつなぎ、たびたび高熱を出す患者でも、快く受け入れ、目を離さず世話をしてくれる施設だった。

 わたしたち三人姉妹は父の元をかわるがわる訪れ、話しかけた。髪をとき、体を拭き、人口唾液をスプレーで舌に吹いた。ダークダックスのCDをかけ、枕元でお気に入りの写真集をめくった。


 父は嘆かず愚痴も言わず、ただ静かに日々を過ごしていた。だんだん舌の動きがおぼつかなくなり、会話はほとんど家族しか聞き取れなくなった。ただ、高校生になったわたしの息子と、紙面上で囲碁のやり取りをするのを楽しみにしていた。地域の囲碁大会で彼が優勝したというような話をすると、そのときだけほんとにうれしそうな笑顔を見せた。

 けれど決して、施設から出たいとか、家に帰りたいとかは口にせず、黙って自分の置かれた環境に耐えていたように思う。

 父はその後もたびたび誤嚥性肺炎を繰り返し、枯れ木のようにやせ細っていった。わたしは父の枕元に小さな竹のかごを置き、季節を感じられる拾い物を置いていった。金木犀の花がら、どんぐりやくぬぎの実、美しく染まった楓の葉。

 

 十二月五日、父は九十二歳で亡くなった。


 ベッドサイドに置いた家族写真と母の写真を、最後の最後、大きな目で食い入るように見つめていた。手に持って動かすと懸命に目で追った。その瞼が閉じたとき、わたしは天国の母に祈った。

 どうか許して、パパを許して。天国に行ったら優しくしてあげて。あんなにママを愛していたから、かえって一人ぼっちには耐えられなかったのよ。こんなにこんなに最後までママの姿を懸命に見ていたんだから最後の恋を許してあげて。目を閉じた父の両手を握り、額に額を寄せて、わたしは涙を流し続けた。


 父の遺言もあり、葬儀は無宗教の家族葬でこじんまりと済ませた。祭壇周りは父の描いた油絵と打ちかけだった碁盤、愛用のステッキや靴で飾った。

 あれほど愛した家へ、父は骨になってやっと帰った。

 そこで私たち姉妹は、父との約束を果たすことになる。

 その約束とは、母のお骨上げのとき父がこっそりとっておいた母の骨を、隠し場所から出し、父の骨壺に入れる事だった。

 私たちはわざわざ備前焼きで作らせたという小さな壺から母のお骨を箸で取り出し、父の骨壺に入れた。


「やっと会えたわね。さあ、怒られるわよ、いろいろと」


 二人の姉が言った言葉には実感がこもっていた。怒られないはずがない、あの母だもの。

 父の遺影はそれでも、母の写真の隣で花に囲まれ、ほっと一息ついているようだった。


 そこに、病院でお別れしたあの「最後の恋人」が、Sさんが遠慮がちに訪れたのは、家族葬の翌々日頃だったか。

 玄関を上がると長い廊下があり、突きあたりが唯一の和室で、そこにはいつも灯りがともっている。葬儀場から持ち帰った花、弔問客の置いていった花ばながあふれるようにたくさんの花瓶に生けられ、亡くなった父の写真を中心に、六畳の室内は花の香りでむせかえるようだった。

 まっすぐその部屋に向かった彼女は、父の写真に手を合わせると、心を込めて語りかけた。


「Tさん。長らくご無沙汰してごめんなさい。もう会うのをやめようと言われた時は寂しかったけれど、やっとお顔が見れました。本当に、私寂しかったわ。

 私たち、いろんな所へ行きましたね。あなたといった温泉や豪華客船の旅、どれもとても楽しかった。思い出すときりがありません。あなたと出会えて、私は幸せでしたよ。

 Tさん。私はこの思い出でもう充分です。どうぞ、安らかにお眠りくださいね。最後に私に幸せな時間を、ありがとう」

 

 そうしてまた父の写真をじっと見つめ、両手を合わせて、Sさんは帰っていった。


 様々な手続きで父の家を訪れるたび、わたしは異様な冷気と花の香りに圧倒された。特に、母の愛した百合の花は、中途まで開いたまま奇跡のように枯れなかった。切り花はおよそひと月の間、変わらぬ姿で咲き続けたのだ。わたしにはその六畳が、なにか、時の止まった聖域(サンクチュアリ)のように感じられた。


 葬儀から二週間ほどたったころ、ふと気が付いて留守電を確認してみた。しばらく電話も鳴らなかったその家で、三日余りのうちに十件以上のメッセージが録音されていた。

 それもほとんどが、同一の女性からだ。

 録音時間をいっぱいに使って、同じことを呼び掛けている。


『もしもし。俳句の会でごいっしょさせていただいたKです。人づてに訃報をうかがって、驚いてお電話しています。

 ほんとうなんでしょうか、信じられません。もうほんとうに、あなたはそこにいらっしゃらないんでしょうか。葬儀も終えられたと聞きました。Tさん、寂しいです。あんまりです』


 そしてそのあとに、甲高い絶叫が続くのだ。


『わたくしはここにいるわ。ひとりぼっちです。寂しいです。聞こえますか。ああ、Tさん、Tさん、Tさあん……』


 ほぼ同じ内容が続けて入っている異様さに、わたしは立ち尽くした。

 父からは聞いたことのない名前だ。もちろんSさんでも昔の友達でもない。

 これほど会いたがっていたのなら、家族葬になどせず、参列させてあげればよかったかもしれない。

 いや、今からでも呼んでさしあげたらいいのではないか? 父の仏壇のある部屋へ。


 わたしは父の年賀状ファイルをめくり、Kさんという女性の年賀状を探し出した。父を思う気持ちのあふれた句が添えられてある。間違いない、この人だ。

 私は書いてあった電話番号を確かめると、思い切ってダイヤルした。

 何回か長いコールののち、ご本人が出た。

 

『はい、Kでございます』

 

 か細い上品な声のご婦人だった。


 わたしはどきどきしながら、留守電を聞いた旨と、自分が留守宅を整理している娘であること、よければこれからでも自宅にいらっしゃるなら父の仏前にご案内差し上げられること、などを説明した。

すると、相手は驚いた様子だった。そして、実に驚くべき返事が返ってきたのだ。


『わたくし、もうすでにお邪魔しています』


「えっ?」


 わたしは驚嘆した。そんなはずがない。そして答えに詰まった。


「それは、あの、……お出迎えしたのは、では……」


『わたくし先日、我慢できなくなって、お花をもって勝手ながらお伺いしましたの。そしたら、上品な黄色の花柄のワンピースをお召しになった女性が出ていらして、案内してくださいました。

 廊下の奥の部屋でした。たくさんのお花、そう、大きな百合がたくさん咲きそろっていて、その香りでお部屋の中は満たされていました。お仏壇の横の祭壇にはTさんのお元気そうなお写真と、お水と、それから銀色の腕時計がありました。わたくしのよく知っている腕時計です。

 わたくしそこでお写真に向かって、いろいろお話をいたしましたのよ。お出迎えになった綺麗なかたも、聞いていらっしゃいました』


 わけがわからなくなった。

 確かに部屋の様子も祭壇の様子もその通りだ。けれど、この家の鍵を預かっているのはわたしと夫だけ、そして弔問に来た人はみな覚えている、それも数人しかいないことだ。あの最後の彼女以外、年配の女性を案内した覚えはない。


 黄色の花柄のワンピース?

 わたしはそんなものは持っていない。

 姉たちも、ここの家に来ていた間はみな黒っぽい服だった。そもそも葬儀の翌々日あたりに皆自宅に帰っている。


『案内してくださったのは口数の少ない方で、お嬢様かと思っていました。違うのですか。とにかくわたくし、もうお参りは済まさせていただきましたから。

 それと誤解しないでいただきたいのです。わたくしたち、いいお友達でした。わたくしはTさんのことを、ご尊敬申し上げていました。人様に恥じるようなお付き合いは、神に誓って一切しておりませんのよ』


 その口調はむしろ、怒っているようだった。


「はい、はい、行き違いでまことにすみません、たぶん親戚のものがご案内差し上げたのだとと思います、人の出入りが多かったものですから、ほんとに失礼いたしました……」


 言い訳を重ねて、あたふたとわたしは電話を切った。

 そして考え込んだ。

 言っていることが当たっている以上、あの人はほんとうにここに来たのだろうか。

 それとも、多少恍惚が入った人が夢のようなことを言っているだけ? 

 でも、部屋の様子や写真周りは、たしかに彼女の言った通りだし……

 黄色のワンピース…… 誰のことだろう?

 そこでわたしははっと思い出した。


 母が持っていた。


 洋裁の得意だった母が、自分で作った黄色っぽいワンピースなら、確かに覚えている。余所行きとして、よく着ていた。

 今もあるだろうか?


 わたしは父宅の寝室に向かい、母のクロゼットを開けてみた。


 ……あった。


 黄色の花柄のワンピースが、ハンガーにかけられてそこにあった。

 じゃあ、案内したのは……


 母はいつも、年齢よりずっと若く見えた。五十を過ぎたころ、「お嬢様、お茶でもいかがですか」と紳士風の人に声をかけられたこともあると言っていた。

 お化粧して、あの黄色のワンピースで出迎えたとしたら、娘だと思われてもおかしくない。


 ……いや、おかしい。こんな話があるわけがない。こんな話が。


 実際にそんなことがあったとしたら、母はどんな気持ちで、どんな思いであの服を着て、父に焦がれていた女性を仏壇の前に案内したのだろうか。

 その場に、では、父も存在したのだろうか? ……


 カトレア、白百合、トルコキキョウ、薔薇の香る、空気が異様につんと冷えていたあの閉じられた空間に。


 謎は謎のままでいい。わたしはそう結論付けて、この話を姉二人にはせず、胸の中にそっと仕舞うことにした。



 女性の影の絶えなかった父の生涯を思うとき、どうしても脳裏に浮かぶ一枚の絵がある。


 速水御舟の 「炎舞」。


 ぜひ、検索して絵そのものを見てほしい。

 赤々と巻き伸びる焚き木に群がる複数の蛾を描いた、美しくも怪しい絵だ。


 わたしは思う。日々細々と衰えてゆく父という篝火に吸い寄せられ続けた女性たちの胸に宿っていたのは、愛か、それとも情か。

 わたしなりの解釈を先に言うと、愛や情を超えて、それは「孤独」そのものだったのではないかと思う。

 父に愛されながら、母はひたすら情を求め、それが得られずに孤独だった。

 愛する母を失って、情を与えるすべを知らなかった父もまた、孤独に泣いていた。

 そして、年老いて配偶者に先立たれた女性たちもまた、孤独だった。

 高齢者の集う絵画教室や俳句教室、芸術文化協会で、とにもかくにも知的な雰囲気を漂わせ、話術の巧みだった父は、女性たちの心をひく存在ではあっただろう。

 けれど、実は母と骨壺の中でまで一緒にいたいと望むぐらい、父なりに思いは天上の母に向けてただ一途だったのだ。

 寄り添いあうことはかなわなくとも、夫婦でお互いに「愛」と「情」を求め続けてきたのは事実だった。

 そして、母への思いと孤独を埋めるように「女友達」を次々にあの篝火花の灯る部屋に招待した父は、自分の周囲に寄り添う女性たちと、孤独という病で結ばれていたのではないだろうか。


「炎舞」という絵は、人生の最後を迎えて燃え上がる亡き妻への思慕の情と、その灯りに慰めを求めるようにして集まる魂の「人生最後の舞い」のように、わたしには思えてならない。




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