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前編

最初に、私の作品の読者様に特に言っておかねばならないことがあります。

この作品は、拙著「お蔵出し怪異譚」の2話と3話をドッキングさせて、さらにできるだけオカルト描写を廃し、ただ恋多き男の一生にスポットを当てて書き直したものです。既視感がある方には抵抗もあるでしょう。でもオカルトネタはできるだけそぎ落として、私たち親子の関係、夫婦であることのむつかしさ、等を中心に組み立てなおしたものです。新作を読みに来るつもりでどうぞ目を通してください。

長いので前後編に分けています。

 今となっては昔語りになるけれど、私の両親にまつわる、不思議な恋と縁の話をしようと思う。「実際にあったことを書いただけ」なのでエッセイジャンルに入れたけれど、一応「オチ」のある話なので、是非最後まで読んでいただきたい。ちょいと尺の長い話になるので文語体で書くけれど、多少の堅苦しさはどうぞお許しください。



 わたしの母は六十九歳で死んだ。

 大正十三年の生まれだった。

 

 今の時代で六十九歳は早いほうだといわれるけれど、どの時代であろうと長生きはできない体ではあった。片肺が肺結核でつぶれ、常人の半分しか肺活量がなかったのだから。

 その病は、最初の夫に伝染(うつ)されたものだったという。


 母の生家は岡山の大地主だった。母は女五人男一人の六人きょうだいの長女で、癇性で線が細く、「ろうたけた」という表現の似合う、美しい人だったという。

 その頃のモノクロ写真を見ても、日傘に隠れた母の面長の顔は物憂げなはかなさと美しさをたたえて竹久夢二の絵のようだった。高等女学校に通っていた頃、マントに帽子、高下駄の旧制高校の生徒が待ち伏せしては恋文を渡してきたという。

 容姿にコンプレックスを持っていた祖母は、少女のころから、周囲の人間が母をほめるたびに嫌な顔をしたという。初潮を迎えたときも、ませた本ばかり読むからこんなに早く来るんだ、と言われてショックだったと母に聞かされた。


 祖母はいつも、娘たちをひとまとめにしてこてんぱんに罵倒したという。


「あんたたちは屑です。屑の、カスの、ゴミです!」

 

 女ばかり産んで、と姑に嫌味を言われ苛め抜かれて、ひどく辛そうにしていたと、昔の祖母を母は語る。その鬱積が自分たちに向けられたのだろうと。

 こんな言葉に飲み込まれてはいけない、自分はゴミじゃない。母はそう自分に言い聞かせて、娘時代の自分を守った。

 高等女学校を出て間もなく、地元の会社勤めの男性と縁談がまとまり、解放の嬉しさとともに母は嫁いでいった。こでれもう、カスだゴミだ出て行けと怒鳴られ続けなくてもいいのだ。

 けれど無情なことに、結婚後ほどなくして若い夫は血を吐いた。

 肺結核だった。


 当時、結核と診断されることは、死の宣告と同じだった。母は看病のために夫とともにサナトリウムに入った。

(ジブリの風立ちぬで有名になった結核療養所ですね)

 入ったときからもう病は絶望的だったという。すまないすまないと言いながらやせ細っていく夫の前で笑顔を見せながら、母は井戸端で泣いた。痩躯の青年が肩を叩き、奥さん泣かないで、きっとご主人は良くなりますから、と慰めてくれたこともあるという。

 その青年もほどなくして世を去った。

 そして、母の懸命の看病もむなしく、若い夫は結婚二年目に生涯を閉じた。

 そのころには、母の体も同じ病に侵されていたのだ。


 病身で出戻った娘を、祖母はひどく邪険にしたという。とにかく容姿が衰えぬうちに再び嫁に出したがった。そして(めあわ)せたのが、同じバツイチの父だったのだ。


 父は裕福な太物問屋の三男坊だったが、大金持ちの旧家の令嬢と結婚し、そのまま婿養子に入っていた。つまりマスオさんだ。その新妻も体が弱く、初めての子を産んですぐ病で亡くなっていた。

赤子の面倒は妻の母、つまり義母がみていた。幼い娘のことがあってその家を出られず、妻亡き後も父はその家に住み続けていたという。

 

 そこに、私の母は嫁入りしたのだ。

 

 義母にとっては母は邪魔な余所者でしかなかった。亡くなった娘の元夫のところに嫁いできたただの赤の他人。こんな不自然な同居がうまくいくわけもない。

 義母は目障りな若い嫁をいじめ続けた。父の見ていないところで、あんたはお偉いんだからとお坊様用のキンキラキンの座布団に母を座らせ、食事の際には仏壇の仏様用のお茶碗にご飯を盛り、まっすぐ箸を刺した状態で母にご飯を食べさせたという。そして下僕のようにしてこき使い、毎日毎日いびり続けた。

 耐えに耐えていた母は、ある日父の前で泣き伏した。そしてすべての仕打ちを打ち明けた。

 父は初めて、日々母がやつれ続けていく理由を知った。そして義母に絶縁を言い渡し、養子縁組を解消して、幼い娘を連れてその家を出たのだ。

 義母はその時初めて頭を下げて泣いたという。

 

「あんたは仏のような嫁じゃった、どんなことをされてもわたしに何一ついやな顔を見せず耐えてくれた。どうか許しておくれ、江戸の仇を長崎で討たないでおくれ」

 

 自分が与えた仕打ちを、幼い孫に返さないでくれ。そういう意味だった。

 母は、わかりました大事にします、と答えた。そして父と継子と三人でその家を出た。

 

 父の転勤に伴い、一家は岡山を出て広島県福山市の家で暮らし始めた。母にとっては自由の天地だった。そうして姉が、続いてわたしが生まれた。

 写真を見る限りでは、若いころの父は背が高く、理知的なタイプで、なかなかの色男だ。そしてとにかく母にほれ込んでいた。それは間違いない。

 父が自慢のカメラで撮り暗室で現像した母の写真が、今もアルバムにあふれるように残っている。モノクロで見る若き母の写真はちょっと映画の一シーンのようで、激しい性分の母の静の部分ばかりが、美しい陰影の中にしっとりと写し取られているのだ。

 

 洋裁が得意な母はわたしたち三姉妹の服をいつも手作りしてくれた。おそろいのワンピース、コートに帽子。お洒落に着飾ったわたしたち三人と両親の写真は、今見ると幸せな家族そのものだ。

 ところがそのころ、近所の噂好きのおばさんが、当時小学生だった姉にひどいことを吹き込んだ。


 「あんたのお母さんは本当のお母さんじゃないよ、知ってるかい」

 「違うもん、ほんとのママだもん」

 「じゃあ聞いてごらん、あんたはお父さんの連れ子なんだよ、お母さんとは血がつながっていないんだよ。お母さんは本当はあんたが邪魔なんだよ。

 妹たちだけがかわいいんだよ」


 姉は駆けて帰って、母を問いただした。当然母は否定する。だが出自に関しては、いずれわかることと結局説明したという。けれど愛情は変わらないと。

 姉は屈折し、母を遠ざけるようになった。母も、扱いにくい姉を避けるようになった。そして母は、理由のわからないご近所の悪意そのものに戦慄し、怯えた。


 長姉が十二歳になった年、一家は東京に引っ越した。そこには過去を知る意地の悪いご近所ももういない。真ん中の姉は六歳、わたしはまだ二歳だった。

 

 わたしが一番上の姉が腹違いであることを知ったのは、自分が結婚する二十八の年、戸籍謄本を見た時だ。家族の中でその話が出たことはついぞなかった。ただ一番上の姉と母の間に流れる冷たい川を、漠然と意識していたとは思う。母と姉が互いの顔を見ながら会話していたのを見た記憶がほとんどないのだ。

 

 一方父は、そういうごたごたからはいつも身を遠くにおいていた。

 そしてただ、母を一方通行で愛し続けていた。


「うちのママさんは美人だ」「頭がよくて、服を作るのが上手で、おしゃれだ」というのが父の自慢だった。

 気持ちのいい夜半、「ちょっと散歩に行ってくるよ」とよく二人で手をつないで近くの公園に散策に出かけ、なかなか帰ってこなかったものだ。どこの夫婦もこうするものなのだろうと小学校で友達に話したら、皆にびっくりされたのを覚えている。ママさん、パパ、という呼び方も当時ではかなりレアだった。

 

 大企業の役員まで上り詰めても、父は銀座のクラブでの接待を拒んで毎日七時には帰宅した。

「あんな化粧の濃い商売女相手にお世辞言われて酒を飲んで、何が面白けりゃあ」が口癖だった。

 付き合いで始めたゴルフも、あっという間にやめてしまった。

 朝は会社から黒塗りの送迎車が来るのだが、「腹が痛い」と言ってトイレに閉じこもってしまうこともあり、トイレの外で母が「恥ずかしい、いい加減にしてください」と怒鳴っていることがよくあった。

 それでも、老後に自費出版した回顧録にはこうあった。


「仕事が終わればまっすぐ家に帰り、わが愛しのフラウの顔を見ながら、三人の姫君と語らい、酒を飲む。このひと時は、何にも代えがたい」

 

 外から見ればわたしたち一家は、裕福で仲のいい両親、手のかからない三人の娘の、理想的な家族に見えたことだろう。

 平屋の洋館の前の芝生の庭は芝桜に縁どられ、藤棚からは藤の花々が垂れ下がり、池には鯉が泳ぎ、門を入るとバラの咲くアーチ。

 手作りの服を着た三人の娘たちをバラのアーチの前に立たせ、しきりと写真を撮る父。

 

 だが、母の心は満たされていなかった。

 

 実際、父は自分の興味と関心のあること以外、目を向けないタイプだった。

 とにかく大酒飲みで、食事前にはぐいぐいとビール、食事とともに日本酒、顔を真っ赤に染めての話題というと戦争中のガダルカナル作戦とかインパール作戦とか山本五十六や軍艦の話。母は「いつもお酒飲むと戦争の話ばかりして、ああちっとも面白くない」と横を向いていた。

 母は母で聞いてほしいこと、したい話はほかにいくつもあったのだ。けれど父は食事が終わるとウイスキーを飲み始め、ほどなくソファで大いびきをかいて寝てしまう。神経の細い母の愚痴を、言っても仕方のないことを言うなと取り合わない。子どものことは任せた、と面倒には頬かむりをする。

 ママさん好きだ好きだと言いながら、多少心がやみがちの母の訴えに寄り添うことはまるでしなかった。

 今になって思うのだけれど、「愛情」という言葉をたとえに出すなら、父には一方的な「愛」はあっても、「情」はなかったのではないかと思うのだ。情とは、相手を気遣い、相手の痛みや悩みに寄り添う心だと思う。手前勝手な「愛してる、好きだ」という言葉ばかり酔いに任せて口にしながら、父は母の話し相手にはなろうとしなかった。

 思えば、養子に入ったあの旧家で、母がやせ細るまで放置していたというのも、自分とその周囲にしか関心を向けない父だからと言えば言える。

 好きな人が、好きだと言いながら自分の苦しみに関心を持たない。子育ての悩みを聞いてくれない。それは、自分に興味も関心もない相手が理解してくれないということよりも、ずっと苦しくうらめしいことだっただろう。

 

 今思えば常に鬱気味だった母は、次第にお酒に手を伸ばすようになっていった。夜中トイレに起きると、台所で髪の毛をぐしゃぐしゃにしてコップ酒をあおっている母を見ることが多くなった。目の下にはくまができていて顔色も悪く頬はこけ、鬼気迫る表情だった。見つかると「こっちに来て飲みなさい」と無理やりお酒を飲まされたりもした。幼い私には抵抗ができなかった。のどが熱くなり目が回り、フラフラになるまで許してもらえなかった。

 そして母はたびたびひどい癇癪を起こすようになった。

 どうでもいいことで怒り始めると、そのうち怒りの火種に次から次へと火が付き、手が付けられなくなる。しまいに家族全員を巻き込んで過去のことまで掘り出して嘆きだす。怒鳴り散らし喚き散らし、大火事になるころには、誰もが最初なぜ母が怒り出したかを覚えていない。ただ全員が首を縮め、火勢が衰えるのを待っていた。そして父はいつも、また始まったとばかりに新聞を畳んで自室に逃げてしまうのだった。

 

 母はぶつかる壁を失い、すれ違う寂しさを、わたしたち姉妹を支配することで埋めようとした。異様に教育熱心となり、学校での成績やご近所での評価、友人関係、ありとあらゆることを厳しく監視するようになったのだ。娘の出来は、体が弱く職に就けない母の、唯一の「成績表」のようなものだったのだろう。

 できの悪いわたしは、母にとって難物だった。絵ばかり描いて空想に夢中、散歩に出ると真っ暗になっても帰ってこない、空き地の高い木に登っててっぺんから降りてこない。お勉強なんて大嫌い。


「繰り上がりの足し算も繰り下がりの引き算もできないなんて、わたしとパパの子がこんなにバカなはずがありません!」

「でもおとなりから10借りてきて、って、どうして勝手に借りてきていいの。それ泥棒じゃないの」

 いつもこんな調子だったから母のヒステリーは燃え上がるばかりだった。さすがに父が見かねて割って入り、

「そんなに怒るばかりでわからないものが分かるようになるもんか。こちらへおいで、パパが教えてあげよう」と、わたしの頭をなでながら丁寧に教えてくれた。

 季節の変わり目になると父はわたしの手を取り、「Rちゃん、春を見つけに行こう」とか「秋を見つけに行こう」と散歩に誘ってくれた。

 チューリップのつぼみが膨らんでるから、春!

 鶯の声が聞こえたから、春!

 あの空の筋雲は、秋!

 あちこち指さすわたしを、父はにこにこと見守ってくれた。そして、お前は決して出来が悪くはない、頭のいい感受性の高い子だ、絵と文章が誰よりうまい、といつも褒めてくれたので、わたしは父のことが大好きだった。


 やがて母はわたしのスカポンタンな頭を諦め、その執着は真ん中の姉に向けられた。姉はとびぬけて頭がよく、素直で、愛らしい容姿だったのだ。

 けれど、母の要求は果てしなくエスカレートした。あなたはなんでも一番で当たり前なのよ、ほかの子とは違うんだからね。わたしとパパの間の自慢の子なんだからね。

 結果姉はわたし以上に追い詰められることになった。

 お習字に朱で訂正をされたというだけで腕をつかんで外に放り出され、成績が学年で二番に下がったというだけで、親に恥をかかせたと母に泣きながら激怒される。

 ごめんなさいごめんなさいといいながら母に毎日泣かされている優秀でおとなしい姉が、わたしは可哀想でならなかった。

 腹違いの一番上の姉もまた美人でありたいへん優秀だったが、母の自慢にはならなかった。むしろ、自分が生んだ優秀な娘、学年二番でも泣かされている姉のライバルとして位置していたと思う。見ていてはっきりわかるレベルだった。母は継子の姉を、そこにいないかのように日常ほとんど無視し続けた。

 高校受験の際も、長姉は国立の付属校を望んだが、もちろん家庭教師もつけなければ塾にも行かせてもらえなかった。姉は一人で勉強し、合格した。誰にも褒められることもなしに。

 そして、自分が生んだ優秀な娘のハードルは、母にとってますます高くなっていった。

 あなたはお姉ちゃんなんかよりずっと出来がいいんだからね。私の娘なんだから、絶対お姉ちゃんより偏差値の高い大学に入るのよ。

 わたしたちはそれぞれに、言葉で母と和解するのを諦めていった。

 姉は二人とも、一流と言われる国立大学を出るとすぐに結婚して家を出た。そうして、ようやく解放されたと言わんばかりに、結婚以来ほとんど実家に寄り付かなくなった。子供ができても、顔見せに寄る程度で、さっさと帰っていった。


 残されたのは、女らしさも優秀な学力もなければ男性に興味もない末娘のわたしだ。大学在学中、漫画家になることしか考えていなかったわたしは、卒業しても就職もせず、そのまま漫画稼業についた。そんなものは仕事と呼べないと母はわたしに降るように見合い話を持ってきて、仕事もままならなかった。

(当時我が家においては、結婚前に娘が家を出て一人暮らしするなど言外だった)

 そのうち一番熱心だった今の夫のプロポーズを、もう断り方がわからないという諦めの心境でわたしは受けた。夫には悪いけれど、恋愛感情というものもわからないままに。

 なんであなたはそうなの。なんでお姉ちゃんみたいに女らしくできないの。こんな子は私の子じゃありません。早く結婚して家から出て行って。そういわれ続けるだけの家から、わたしも早く脱出したかったのだ。

 夫が結婚のあいさつに家に来たとき、父はいきなり宣言した。


「わたしたちは老後の面倒をこの娘にみてもらおうと決めているが、あんたはそれでよろしいね」

 

 わたしは絶句した。そんな口約束をした覚えはない。夫はただハイと答えた。わたしは怒りと申し訳なさでいっぱいになった。

 たぶん、嫁いだ上の二人との距離を感じていた両親は、頼れるのは末娘だと勝手に決めていたのだろう。

 でもわたしは、両親と争う気力はなかった。長い支配の時間の中で、親は対抗するものではなく、無言で従うべき相手となっていたのだ。 


 結婚してみれば、夫は優しく穏やかで、何よりわたしをとても大事にしてくれた。夫には、愛も情も申し訳なくなるぐらいたっぷりとあったのだ。

 わたしは長女の出産を機に、両親と同じ敷地内の別棟に引っ越した。

 実は結婚当初は夫よりわたしの年収のほうが多かったのだが、子供が生まれたら漫画稼業はすっぱりやめようと決めていたので、マンションの家賃がきつくなっていたのだ。両親は同じ敷地内で孫の顔が見られることを喜んでくれた。

 長女出産からから三年後に、長男に恵まれた。そのころには母はだいぶ弱っていた。十段の階段も、息切れのために上がることができない。

 それでも母は、二つの家の間にある明るい芝生で二人の孫と遊ぶ時間を何より喜んだ。


「こんなかわいい子どもたちを産んで、優しいお母さんになって、まあ、あなたがねえ、今でも信じられないわ。本当にいい孫に恵まれたわ」

 

 母が抱けば必ずうれしそうに笑う孫たちは、気難しい母の晩年の宝となった。

 母はとろけるようにわたしの子どもたちを愛し、愛することでとても幸せそうだった。

 母の本当の笑顔を見られたのはその時期だけだったと思う。わたしは自分自身でなく孫の笑顔によって、ようやく母を幸せにすることができたのだ。

 

 その春は特別庭の花々がきれいだったと思う。

 六十九歳になった四月のある朝、母は突然の腹痛を訴え、救急車で病院に運ばれた。

 お医者様の見立てでは、十二指腸に潰瘍ができて腹膜炎を起こしているが、この肺では、全身麻酔をすればそのまま呼吸が止まる可能性が高いという。

 母は随分前にそういう宣言を受けていたし、わたしたち姉妹もそのことを知っていた。全身麻酔が必要になるような大病をしたら、そのときが最後だと。

 ついに、そのときがきたのだ。

 苦しい呼吸の下で母は意識朦朧となり、急速に正気を失っていった。

「切なくてたまらん」と父は涙ぐんでいた。そしてパパ大好き、パパ大好きと甘え続ける母の弱弱しい声を聞きながら、その手を握り、細くなってゆく命の炎を涙ながらに見つめ続けた。


「あなたは優しい。Rちゃん、娘の中であなたがいちばん優しいの」


 わたしの手を取って譫言のように繰り返す母の目は、しっかりとわたしを見ていた。あれ程罵倒されていたできの悪いわたしに最後にすがる母の思いを、わたしはただ、わたしもよ、わたしもママが好き、と繰り返して、何とか母の笑顔を心に刻もうと努め続けた。

 わたしもまた長い間、本当の意味で、母に認められ、肯定され、愛されたかったのだ。


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