ダウン・ヒル
※ 『夏のホラー2023』企画参加作品です。
僕の夕方の日課は、愛犬コタローの散歩だ。ただし、散歩のコースは絶対にこの住宅街の中だけと決めている。
僕が住んでいるこの街は、けっこうな急坂を登り切った高台の上にあるのだ。
まだ子どもの頃に一度、自転車で坂道を降りてみたことがあるんだけど、ブレーキをかけてもスピードがどんどん上がり続けて──あの時はもう、完全に死を覚悟したなー。
おまけにその後で自転車を押して坂を登るのが、また地獄の苦しみだった。結局、坂の途中で力尽きて日も暮れ、わんわん泣いているところに、親が車で探しに来てくれたのだ。
そんな遭難の経験から、僕は住宅街から下界に降りるときはバスか車に乗ることに決めている。
今なら自転車でのダウン・ヒルも難しくはないと思うけど、さすがに後が怖いからなぁ。
今日もコタローは無駄に元気だ。リードをぐいぐい引っ張って、時々からかうように、僕が身を屈めなければ通れないようなところを通ったりする。
ちょっとコンビニでひと休みして、そろそろ帰ろうと思ってたけど、コタローはいつもとは違うルートをご所望のようだ。
住宅街の外周道路は、かなり見晴らしがいい。はるか遠くに見える高層ビル群が夕闇に沈んでいくのを眺めながら、のんびりと歩いていると──急にコタローが予想外の行動に出た。
交差点で外周道路を外れ、何とあの急坂を勢いよく駆け降り始めたのだ──!
「お、おい、コタロー! 待てってば!」
不意を突かれたので、僕も引っ張られるように坂道を駆け降りざるを得ない。
たちまちスピードが上がり、横の景色がもの凄い勢いで流れ始めた。耳元で、甲高い風切り音が唸り出す。
「く──くそっ!」
小走りに走っていては足がもつれそうだ。仕方なく歩幅を無理やり広く取るが、ますます加速がついて、ちょっとやそっとでは止まれそうにない。
いや、むしろこのスピードで下手に止まろうとして、もし転んでしまったら──!?
大惨事の予感に、身の毛がよだつ。
もうコタローに引っ張られているのか重力に引っ張られているのかわからないが、転ばないことだけを考えてひたすら足を動かす。
もはや走っているというより、連続して跳躍を繰り返しているだけという気さえする。
自分の脚で出しているとは信じられないような猛烈な速度で、ひたすら急坂を駆け降り続ける。
もう流れる景色もまるで目に入って来なくなった。いつの間にか風切り音も聞こえなくなり、手を引っ張っていたはずのリードの感触もわからない。
これが『ランナーズ・ハイ』というやつなのだろうか。ふわふわとした高揚感とともに薄れていく意識の中で──僕は何となく理解した。
このダウン・ヒルが、本当はもうとっくに終わってしまっているか──未来永劫終わることがないのだということを。