第二節『命懸けの和平』
腰まで到達するほどの、細く長い銀色の髪。
華奢な体を幾重にも包み込む、青と白が入り交じった色の薄いローブ。
そして警戒心を覗かせつつも、理知的な雰囲気がにじみ出たその面差し。
僕の眼前に降り立ったのは、そんな幻想的とさえ言える容姿を持つ、一人の人間の男性だった。
その彼は今、無言でまっすぐこちらを見据えている。
心に秘めたものがある、ということがはっきりとわかる真剣さを漂わせて。
相手が持つ、そうした荘厳な雰囲気に圧倒され、僕はついぼんやりとしてしまう。
それが致命的なミスである、と一切認識できないままに。
だから次の瞬間、僕が自分の迂闊さに気づき、動こうとした時には――
(……いや、駄目だ! ボーッとしてたら!)
もう、何もかもが手遅れだった。
僕は抗う間もなく体の制御を奪われ、目の前の男性へ向かって、自動的に突進を始めていたのである。
きっと人間が近くに来たことで、例の魔王の加護が発動したからだろう。
つまりこのままでは、一昨日と同じく、再び望まぬ戦いを強いられるわけだ。
それを防ぐため、僕は全力で自分の足を止めようとする。
(くそっ! 止まれ! 止まれよっ!)
やめろ、動くな、僕はそんな事望んでいない、頼むから止まってくれ……と。
何度も何度も、死に物狂いで自分の体を制止したのである。
しかし当然のように、その努力は一切身を結ばず、僕は突撃を続ける羽目になった。
例のとんでもない勢いで、自分の意志とは全く関係なしに。
やはり神の力に抗おうなんてのは、最初から無謀な試みでしかなかったのだ。
ただ眼前に立つ魔法使い風の男性は、そんな僕の行動に、わずかな動揺も見せない。
慌てず騒がず、ほんの少し口を動かすだけだったのである。
あたかも見えない誰かへ、素早く命令を出したかのように。
するとその行動に応じて、突然周囲の地面を突き破り、何本かの植物のツタらしきものが現れる。
しかもそいつは、まるで意志を持っているかのごとく動き回り、こちらへ一直線に迫ってきた。
結果として僕は、すぐさまそのツタに全身を絡め取られ、ほぼ完全に動けなくなってしまう。
(く……うああ……!)
その様子を見届けて、僕が脅威でなくなったことを確信したのだろう。
次いで魔法使い風の男が、視線を下に向けてから、持っている杖の先で地面を何度か叩いた。
それにより今度は、彼の足元に、青い魔法陣のようなものが出現する。
そいつは直後、どんどんと膨張を始め、やがて広場を丸ごと覆い尽くすほどのサイズになった。
またそれと同時に、目も眩むほどの強い光を発し始める。
考えるまでもないことだが、これは僕を滅ぼすための魔法だろう。
要するに僕は、浄化され消滅する寸前の状態、ということである。
そう自身の命運を察した僕は、その唐突な訪れに戸惑いつつも、あっさりとそれを受け入れた。
(ああ……これで終わりなのか)
だってある意味、渡りに舟の事態だったから。
どうせやることなんて無いんだし、もうおしまいでもいいのかな……などと思ってしまったのだ。
まあそれだけ、ここでの生活に飽き飽きしていた、ということだろう。
そんな無気力極まる僕の視界を、魔法陣から溢れ出した光は、間を置かずほぼ隙間なく埋め尽くす。
僕はそれに全身を呑み込まれ、瞬時にこの世から消えていく――
――はず、だったのだが。
(……あれ? 何も……起きない?)
しかしなぜだか、どれだけその光に晒されても、体には何の影響も無かった。
加えてそれからいくらも経たぬ内に、例の魔法陣の光は、ほぼ跡形もなく消え去ってしまう。
もちろん僕としては、予想外の状況の訪れに、ただただ戸惑うばかりだ。
そうして現状が把握できず、ぼんやりと硬直する僕の前で、眼前の魔法使い風の男性は再び杖を振った。
すると僕を捕らえていた植物のツタのようなものが、その拘束を残らず解除し、静かに地面の中へと帰り始める。
とりあえずは解放してくれた、ということらしい。
しかし無論、その意図はわからない。
(えーと……ん?? 何がしたかったんだ?)
急に魔法での攻撃を受けた上、すぐ何事もなく解放されたのだ、相手の目的を図りかねるのは当然である。
本当にこの人、何のつもりでこんな事をしているのだろう……
……と、僕が頭の中を疑問符でいっぱいにした瞬間、まるでその回答を告げるかのように――
(あれ? 何か言ってる?)
例の彼が、僕に向かって何事か呼びかけてきた。
強い緊張感を漂わせながらも、どこかに穏やかさを交えた口ぶりで。
それにしばらく耳を傾けていたところ、ふと僕の頭に、ひとつの閃きが舞い降りてくる。
僕はそれを、ひどく信じ難いという気持ちを抱きつつ、そっと内心で呟いた。
(これはつまり……戦う気が無い、っていうことなのか?)
だって先ほどの状況であれば、彼は僕の命を自由にできたはずなのに、実際は何の危害も加えてこなかったから。
しかもこうして拘束を解いた上、コミュニケーションを取ろうとするような素振りさえ見せているのだ。
ならばやはり、向こうにこちらと争う意志は無い、と解釈するのが妥当だろう。
しかもそう認識した瞬間、僕は自分の身に起こっている、奇妙な変化にも気がつく。
(……あれ? そう言えば……妙に心が落ち着いてるな)
目の前の相手に襲いかかろう、という気持ちが湧いて来ないのだ。
もちろん体の方も、自分の意志で自由に動かせた。
つい先ほどまでは、あれほど見境なく、眼前の男性へ突撃を仕掛けていたというのに。
要は昨日、子ども達に接触した時と、全く同じ状態なのである。
その突然の異変に対し、説得力のある仮説を立てるとするならば――
(さっきの魔法のせい……か?)
今の僕の状態こそが、先ほどの魔法陣の効果、ということなのだろう。
あれは魔王の加護を取り払い、魔物に正気を取り戻させる術だったわけだ。
他には目立った影響も無いし、おそらくその認識で正しいはずである。
どうやら彼、本当に僕と戦う気が無く、むしろ話をしたいとさえ思っているらしい。
ただしそう相手の意図を理解しつつも、僕は自分がこれからどうすべきか、決めきれずに迷ってしまう。
(どうする……どう対応すればいい?)
攻撃する気が無いのは理解したが、彼がどんな人物で、具体的に何がしたいのか。
それが未だに、ほとんどわからないままだから。
素直に警戒を解き、すぐさま受け入れるというのは、中々に難しいのだ。
それにこちらは、向こうと違って一切喋れない。
意思疎通の手段が皆無なので、どんな行き違いが発生するか知れぬ状況、ということである。
その状態が不安で、ここはいっそ、構わず逃げた方がいいのかな……なんて考えさえ浮かんでくる。
しかしそうやって弱気になる自分を、僕は力強く押し止めた。
(いや……違う。ここで諦めたら駄目なんだ)
だってあの魔法使い風の男性は、ちゃんとこちらに歩み寄ってきてくれていたから。
千年もの長きに渡り、争い合っている魔物相手にだ。
しかも自分が危険な事をしている、と十分に認識した上で。
少なからず警戒心の感じ取れる、先ほどからの彼の態度を見ていれば、それは明らかな事実である。
だというのに彼は、こうして僕へ呼びかけてきている。
交流したいという意志を、はっきりと示してくれたのだ。
となればその厚意を、あっさり無下にするなんてできるはずがない。
ここは何としてでも、自分にも敵意が無いという事実を、相手へ伝えるべきだろう。
そこで僕は、彼の気持ちに報いるため、ある行動を起こす決意をした。
(なら、これしかない!)
それは非常にリスクが高く、場合によっては、僕自身が危険に晒される行為だ。
正直、怖くないと言えば嘘になる。
しかしほぼ確実に、戦う意思が無いことは伝わるはず。
つまりこの世界に来てから初めて、人間と真っ当なコミュニケーションが取れる、というわけだ。
きっと二度は訪れない、千載一遇の好機だろう。
ならばもう、迷ってなどいられない。
これはすぐさま、実行に移すべき選択肢なのだ。
その強い意志の元、僕は――
(怯えるな! やれ!)
腰にぶら下げた短剣を、勢い良く鞘から抜き放った。
唯一手許に残っていた武装を、相手に見せるように出したわけだ。
次の瞬間、当然のように、相手の表情が固く強張る。
さらに彼は、僕のその行動に対応するためか、即座に何事か呟き始めた。
ほぼ間違いなく、こちらを拘束する魔法を使うつもりだろう。
こうなるともはや、一刻の猶予も無い。
ゆえに向こうが、その何かをやり遂げるよりも早く、僕は――
(頼む……わかってくれ!)
手の短剣を、力一杯あさっての方向へ放り投げる。
可能な限り、自分からそいつを遠ざけるように。
そして同時に、両手をまっすぐ上へ伸ばした。
要は武器を捨てて、降参の意志を示したわけだ。
言葉を介さず、自分に敵意が無いと伝えるには、こうするしかないと思ったから。
これこそ今の僕が、彼に対して可能な、唯一の誠意の示し方である。
だから僕は、その万歳をしているような締まらない格好のまま、動かずじっと相手の出方をうかがう。
(どうだ……ちゃんと伝わったのか……?)
もし肉体があったら、全身が汗まみれになっていただろう、と思えるくらいに緊迫しながら。
それがあまりに苦しくて――肺なんて無い体なのに――何だか今にも倒れてしまいそうな状態だ……
ただ次の瞬間、その頑張りは見事に報われた。
一瞬驚きの表情を浮かべてから、しばし考え込むような様子を見せていた、眼前の魔法使い風の男性が――
(え……?)
突然手にした杖を、脇へと放り投げたのだ。
まるで先ほど僕が行った事を、彼自身がそっくり再現するように。
そしてこれまた僕と同じく、両腕をまっすぐ上に伸ばす。
その行動の意図は、無論確かめるまでもない。
彼は僕の振る舞いを真似る事で、互いの気持ちが同じである、と明確に宣言したのだ。
要するに僕は、命懸けのギャンブルに勝ち、見事に和平を成立させたのである。
そう目論見の成功を確信した僕は、心底安堵し、大きく胸を撫で下ろした。
(良かった……)
戦う意志の無い人と、不用な争いをせずに済んだ事が、本当に嬉しかったから。
何やら骨だけの体に、温かい血が通い始めたかのような、とても清々しい気分である。
すると唐突に心へ、眼前の魔法使い風の男性に対する、感謝の気持ちが湧き上がってくる。
元はと言えば全て、彼が交流を呼びかけてくれたおかげだ、という事実を思い出したからだろう。
だから僕は、その気持ちをわかりやすい形で示すため――
(ぐ、ぐぐ……)
顔に精一杯の、笑みを浮かべた。
いや、無理やり浮かべようとした、と表現する方が正しいか。
表情筋の無いこの顔では、笑うことなど元より不可能だからである。
きっと彼から見れば、頭蓋骨が不気味に揺らいだだけに違いない。
それでも眼前の魔法使い風の男性は、僕の動きを見て、その気持ちを汲み取ってくれたらしい。
なぜなら次いで、両手を上げたまま、『全部わかっているから安心して』とでも言うかのように――
(あ……)
爽やかで穏やかな、満面の笑みを返してくれたから……