第三節『些細な善行』
今の今まで、自分が呑気に過ごせていたせで、あまり実感は持てていなかったのだが。
しかしここは本来、数多の魔物が、我が物顔で徘徊する危険な場所である。
中には当然、人間を襲う、凶暴な魔物だっているはずなのだ。
例えば先ほど見かけた、ライオンと虎がくっついたような魔物とか。
もし万が一、この子ども達が、ああいう連中と遭遇をすればだ。
おそらくすぐに襲われ、命を落としてしまうことだろう。
そして彼らの方に、それを防ぐ手立ては無い。
となるとやはり、このまま彼らを放っておくことはできない。
一刻も早く、できる限り安全な場所へと退避させるべきなのだ。
そう状況を整理した僕は、素早くひとつの決心を固めた。
(よし! 連れて行こう!)
自分の手で、二人をこの森から連れ出そう、と決めたのである。
それが唯一、彼らの命を救う方法だと思ったから。
そこで早速、その決意に従って、僕は少年の方へ歩み寄っていく。
走り回る鶏を捕まえる時のように、大きく両手を広げながら。
当然少年は、そんな僕の行動に反応し、驚いたように体を跳ねさせたが。
しかしすぐ冷静さを取り戻すと、やはり勇敢に、こちらへの攻撃を再開した。
だが僕は、繰り返し体を叩く玩具の剣を無視して、一気に少年へと近づく。
そしてその小さな体を、抱き締めるようにがっちりと捕まえた。
さらに次いで、相手を拘束しながら、無理やり脇へと抱え込む。
結果、何か荷物でも運んでいるような格好になった。
もちろんこの状態のまま、危険が少ない場所まで連れていくつもりである。
意志の疎通ができない以上、少年の安全を確保するには、これしか方法が無いと思ったから。
ゆえに続けて少女の方にも歩み寄り、今度は片手で捕まえると、同じように抱え込む。
これで準備は万端、後はこの場を離れるだけだ。
なので迷わず、僕は両脇に子どもを抱えたまま、猛然と走り始めた。
おそらくは安全であろう、この森の外を目指して。
ただしその間、子ども達がおとなしくしていたわけではない。
少年の方は、こちらの腕を叩いたり噛みついたりして、必死に暴れ抵抗をしている。
また少女の方は、ほとんど絶え間なく、怯えた様子で泣き叫んでいた。
そうした反応に、怖い思いをさせているのだと実感し、僕の胸は徐々に痛めつけられていく。
しかしこれも、全ては彼らの命を守るため。
僕が苦しいという理由で、投げ出すことは許されないのだ。
その決意を支えに、僕は心の痛みに耐えて、ひたすらに足を動かし続けた。
するとその、何とも騒々しい、奇妙な脱出行の果てで――
(ん……? 光?)
突然僕の目に、ひどく明るい、太陽の光らしきものが飛び込んでくる。
どうやらようやく、森と外部との境目に到達しようとしているらしい。
ならば目的の達成までは、後もう少しのはずだ。
その事実に力を得て、僕はさらに進む速度を上げた。
しかしその直後、再び体に、いつかと同じ強烈な硬直が生じる。
(あっ……これは!)
まるで体が凍りついたかのように、突然前へ進めなくなってしまったのだ。
おそらく例の力が、『これ以上持ち場から離れるな』と警告しているのだろう。
たいへん残念だが、レスキュー隊員の真似事は、ここで終了せざるを得ないらしい。
とは言えもう、安全な外の世界はすぐそこである。
きっと後は、彼ら自身に任せても大丈夫だろう。
役目は十二分に果たした、と言えるのだ。
そこで僕は、脇に抱えた子ども達を、前方の光に向かって放り投げた。
未だ暴れて喚き散らす彼らを、できる限りここから離れられるよう、精一杯の力で。
かなり乱暴なやり方だが、今は身の安全が最優先だし、まあ妥協するとしよう。
そうやって思い切り投げ飛ばされた少年と少女は、わずかな時間宙を舞って、少し先の地面に落ちる。
二人はそこで、すぐ僕の方を振り返り、驚きの表情を浮かべた。
何が何だかわからない、という雰囲気である。
魔物に命を救われた、なんて思ってもいないだろうから、それで当然なのだが。
そんな彼らに対して、僕は大きく腕を振り上げると、その場で暴れて全身の骨を打ち鳴らす。
彼らをより怯えさせ、このまま森から離れてもらうために。
すでに少年の方も、僕には勝てぬとわかったはずだし、何とかこれで諦めてはくれないだろうか……
するとその目論見通り、僕の凶暴な姿を見た子ども達は――
(……お? うまくいったのか?)
慌てた様子で立ち上がり、今にも泣き出しそうな顔で走り出した。
前方に見える、外の世界の光へ向かって、脇目も振らずまっすぐに。
どうやら僕の試みは、狙い通りの結果をもたらしてくれたらしい。
僕はそうして逃げ行く彼らを、その小さな背中が見えなくなるまで、しっかりと見届ける。
さらにそれを果たしてから、やれやれやっと終わりか、と肩の力を抜いた。
悲劇にならなくて何よりと言うか、とにかく十分に満足のいく結末である。
ただそんな風に落ち着いたことで、視野が少し広くなったせいか。
不意に僕は、予想だにしなかったものを視界に捉える。
(おや、あれは……村?)
木々の隙間から、遠くにうっすら、小さな建物の群れが見えたのだ。
かなり離れているので確実ではないが、おそらく人が住む村だろう。
きっと先ほどの子ども達も、あそこから来たに違いない。
となるとますます、あの二人の安全は揺るがない。
さすがに見えている場所へなら、問題なくたどり着けるはずだから。
いや本当に、よかったよかった……
……と、僕は独り、ホッと胸を撫で下ろしていたのだが。
そんな僕の身に、次いで突然、ひどく奇妙な現象が発生した。
(……何だ? 何か……熱いぞ?)
なぜだか全身が、やたらめったら熱くなってきたのだ。
あたかも巨大な炎で、至近距離からあぶられているかのように。
もし骨だけの体でなかったら、大量の汗が噴き出していたことだろう。
無論理由はわからないので、僕としては戸惑うしかない。
しかし意外とすぐ、その原因には目星がつく。
昨日ゴブ先輩が、くどいくらい丁寧に教えてくれた、人間の町についての話のおかげで。
『ならここで、大切な注意点だ。
何があっても、絶対に人間どもの町へは行くなよ』
『クソ天上神様の聖なる力とやらが、たっぷりと溜まってる場所だからさ。
俺達が踏み込んだら最後、その力に全身を焼かれて、地獄の苦しみを味わう羽目になるんだ』
つまりは前方の村に満ちている、天上神様の力とやらが、僕の体へ影響を与えたようなのだ。
目を凝らさねば気付かぬほど、遠く離れているにも関わらず。
おそらくさらに近づけば、もっと凄まじい苦痛が訪れるのだろう。
いやはやまったく、魔王の加護にしてもそうだったが、本当に恐ろしいという以外の感想は無い。
やはり神の力というのは、僕のような平凡な人間――今は魔物だが――にどうこうできるものではないのだ。
となればここで、僕がとるべき選択肢はひとつ。
可及的速やかに反転し、おとなしく森の中へ引っ込むことである。
聖なる力に痛め付けられる上、いつ人間と出くわすかわからない、この場所よりは安全なはずだから。
そこで僕は、さっさと踵を返し、森の奥へ向かって歩き始めた。
神々の力の凄まじさに、改めて脅威を感じつつも、その一方で――
(いいことしたなあ……)
ひと仕事やり遂げたぞ、という心地よい満足感に、思う存分浸りながら……