第二節『不意の遭遇』
そうして出立した後、しばらく僕は、ゴブ先輩と共に森の中を歩き回った。
立ち並ぶ木々の間を抜け、流れる小川を渡り、固い土の絨毯を踏みしめながら。
巡回という名目で、何をするでもなくふらふらと。
そうして森を巡り、一帯の様子をある程度把握した結果、僕の気持ちはますます滅入っていく。
(なんて場所だ……)
なぜなら道中で目に入ってきたのが、どす黒い色をした地面と、濃い紫の葉を繁らせた木の群れ、それから青緑色をした波打つ川面だけだったから。
また耳に入ってきたのも、遠くから聞こえる奇怪な鳴き声と、風が枝葉を揺らす薄ら寒い音、そして骨と鎧がぶつかり合う軋んだ響きのみだったから。
禍禍しいことこの上ない、薄気味悪い魔の領域が広がっていた、というわけだ。
であれば当然、気分なんて上向くはずもない。
そんな見るだけで心が塞ぐような場所を、ひたすらに歩き回らされているのだから。
そのせいでもう、仕事を始めて間もないのに、心身共に疲れ切ってしまっていた。
おまけにこれから先、環境が良くなる見込みも薄い。
声を出せないこの体では、退職願の提出もできなければ、配置転換の申請だって不可能だから。
ずっとここで働く以外にない、ということである。
ゆえに僕は、理解したその現実を前に、すっかり自暴自棄になってしまう。
(もう……どうでもいいかあ……)
要は矢継ぎ早に変化する状況を受け入れきれず、完全なキャパオーバーに陥ったのだ。
まあ突然、こんなわけのわからない場所に放り込まれれば、そういう反応になるのも当然だろう。
そのせいか何やら、気持ちがふわふわしてきて、現実感も希薄になっていた。
いや考えてみれば、そもそもこれ、現実だと決まったわけでもないのか。
だって僕は今、急に知らない世界に飛ばされた上、魔物に変身しているのだ。
普通はこんなの、夢と判断するのが妥当である。
いくら目に見える物や耳に聞こえる音、それから身体の感覚が、現実と区別がつかぬほどリアルであろうとも。
その考えに至った瞬間、僕はすかさず現実逃避に走る。
(そっかあ……夢だったかあ……)
自分の身に起こった不思議な現象と、それにより生じた困難な境遇を、残らず空想の産物と思うことにしたのだ。
そうして目の前の異常から目を逸らし、追い詰められた精神を癒やすために。
おかげでほんの少しだが、気持ちが穏やかになった気がする……
だがそうして、僕が多くの事を諦め、思考を止めようとした直後――
(……ん? なんだ……この音?)
ふと耳に、聞き慣れぬ耳障りな音が聞こえてきた。
まるで痩せ細った猫同士が、わずかな食べ物を巡り喧嘩をしている時の、威嚇交じりの鳴き声のような音だ。
いったい何が、こんなにも禍々しい音を立てているのだろう。
そう訝しんだ僕は、すぐその正体を確かめるため、音の方へと視線を向ける。
するとなんと、そこに見えたのは――
(……ゴブ先輩?)
いつの間にか僕から少し離れていた、ゴブ先輩の背中だった。
どうやら先ほどの奇怪な音は、彼が上げた雄叫びだったらしい。
意外と言うか驚きと言うか、これまた突然の豹変である。
しかし僕は、彼がそういう行動をとった理由を、間を置かず理解する。
次いで先輩の眼前に居並ぶ、武装した人間達の集団を見つけたから。
そう、日頃この森へは滅多に訪れぬはずの人間達が、臨戦体勢でこちらを睨み付けていたのだ。
そんな彼らの先頭に立つのは、大きな斧と重そうな鎧を身に付けた、戦士風の巨漢。
その横ではたっぷりとしたローブと、背の高い帽子が特徴的な、魔法使い風の女性が杖を構えている。
また脇に伸びる高い木の上に、鋭い眼差しとしなやかな肢体が目を引く、盗賊風の小柄な少女の姿もあった。
さらに後方では、厳格そうな表情を浮かべた、神官風の壮年男性が控えている。
そしてその物騒な集団の中心には、いかにも勇者風な佇まいの青年がいた。
絢爛豪華な武具を身に纏って、自身の存在を誇示するかのごとく、威風堂々と立っていたのだ。
見るからに魔物討伐に来た冒険者、と言った雰囲気の一行である。
そんな連中が現在、突如獰猛さをあらわにした、ゴブ先輩と対峙している。
となれば次に何が起きるかは、想像するまでもない。
両者の武力衝突、すなわち命の奪い合いが始まるのだ。
しかしもちろん、それはおそろしく無謀な試みである。
なんせ相手は五人、しかも明らかに手練れの空気を漂わせている連中だ。
どう考えても、ゴブ先輩が勝てる相手とは思えなかった。
なので彼が、何のつもりでその一行に食って掛かっているのか、僕にはさっぱりわからない。
やはりここは、すぐにでも制止しなければまずいだろう。
そこで僕は、ゴブ先輩の元に駆け寄ろうと、慌ててそちらへ一歩を踏み出そうとする。
だがそれよりも早く、彼の方が行動を起こしてしまった。
再び先ほどと同じ、奇怪な雄叫びを上げた後、脇目も振らずに突進を始めたのだ。
例の集団の中央に立つ、勇者とおぼしき人物に向かって。
しかも突進の勢いは、僕が予想した以上に凄まじい。
まるで見つけた獲物に襲いかかる、飢えた獅子のごとき激しさだったのである。
今までの彼からは考えられぬ、その獰猛な振る舞いには、同一人物なのかの疑いさえ抱いてしまう。
ただその異様な光景を前に、ふと僕は思い出した。
(いや……待てよ)
その吞気な先輩が、ひどく重要そうに語っていた、この森のとある性質を。
『そいつは大地の魔力とやらが、極端に集中する場所らしくてな。
そこに信仰対象の神様の祭壇を設置すると、近くにいる信徒が加護を受けられるんだ。
具体的にはまあ、体の力が強くなったりとか、凄い魔法が使えるようになったりとかだな。
だから両陣営とも、必死にそれを奪い合ってるわけさ』
つまりは今のゴブ先輩も、その魔王様の加護とやらを受けて、戦闘能力が上昇しているのだろうか。
それであの人間達を恐れていない、ということなのだろうか。
確かにそう考えれば、色々と辻褄が合ってくる。
彼はきっと、勝つ自信があるからこそ、ああいう事をしているのだ。
ならばこの困難な状況だって、すぐにあっさり打破してくれるのかもしれない……
……という僕の甘ったるい期待は、次の瞬間刹那も続かずに蒸発した。
(あっ……!)
真に残念ながらと言うか、至極当然と言うか。
相手がゴブ先輩よりも、ずっとずっと強く素早かったから。
その勇者らしき人物は、猛然と襲い来るゴブ先輩に対して、手の剣を横薙ぎに一閃させたのだ。
まさしく目にも留まらぬ、と言った尋常ならざる速度で。
大木すら一刀両断にするかも、と思ってしまうくらいの、強烈で容赦の無い斬撃である。
そいつを避けきれず、正面からまともに受けたゴブ先輩は、直後に声を上げる。
森の隅々まで響き渡るほどの、長く大きな叫びを。
それは断末魔の絶叫、と称して差し支えの無い、心が痛くなるような悲鳴だった。
結果として彼は、そのまま脱力し、地面に倒れ込んでいく。
確認のしようはないが、おそらく事切れているとみて間違いないだろう。
その唐突な悲劇に、僕はひたすら呆然とするより他はない。
しかも次の瞬間、そんな僕の眼前で、さらに驚くべき事態が発生した。
(……え? か、体が……!)
なんと大地に伏したゴブ先輩の肉体が、突如として灰のような物質に変化し、原形を保てず崩れ落ちていったのだ。
僕が事態の推移に動揺し、全く動けないでいる間にである。
その光景は、巨大な砂の城が、突風にさらされ倒壊する様に良く似ていた。
魔物と言うのは皆、命を失うとすぐ、ああいう風になってしまうものなのだろうか。
だとすれば、ひたすらに恐ろしいと言うしかない。
そうして僕は、眼前の苛烈な状況に、完全に圧倒されていたのだが。
ただそこへ、『そんな場合ではない』と本能が警告したかのように、ふとひとつの思いつきが浮かんでくる。
(……あれ? これってもしかして――)
それは自分の未来ついての、ごく当然であると同時に、とてつもなく不都合な予測だった。
(次は……僕の番ってこと?)