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たゆたいつづける魂のラップ(1)

初投稿です。閲覧いただきありがとうございます。

お暇でしたら、コメントや評価等をいただけると大変うれしいです。

何卒よろしくお願いいたします。

たゆたい続ける魂のラップ ⑴


 目を開く。といっても開けない。いや、開いているのか。何も見えないからわからない。普段であれば、目を閉じていても周囲の光の色を感じることができるし、周囲が完全な暗闇であってもテレビの砂嵐を万華鏡でのぞいたようなパターンが見えるはずだ。それも見えないとはどういうことか。漆黒、真っ暗闇しか見えない、いや、何も見えていない。漆黒すら見えていない状態。感覚的には白に近いものを感じるが、これはおそらく私の脳が生み出す幻想だろう。……そうだ、脳。脳は動いている。ということはこれは夢の一種か。いや夢にしては明晰すぎる。意識は完全に起動している。私はまず自分の目蓋を、それから鼻、口、と身体のパーツをそれぞれ順に知覚しようと神経を研ぎ澄ませたが、全くの無駄であった。呼吸も脈拍も感じない。私の思考のみが音もない虚無の中に浮遊している。

 ここまで私の思考が及ぶまでおそらく一分程度、訳の分からぬ先鋭で深淵な恐怖を感じつつも、驚いたことに私は次第に快を感じ始めた。これは意外だ。二日酔いの時、思考は霞みがかり空回りし続けるが、肉体は逆にその肉塊としての重みと生理現象が放つ熱、蠕動運動を強烈に主張し始める。今はその逆。躰から解き放たれた思考がただただ伸びやかな自律運動を続ける。肉体を失うことがこれほどに気持ちいいとは思いもよらなかった。少なくともしばらくはこのままでいたい、と私は真っ黒な真空プールの中で思った。


 ……数分は経っただろうが特に変化はない。ずっとこうしているわけにもいくまい。私がこうして浮遊する思考を垂れ流している以上、私の脳は機能しているわけで、私はたぶん死んでいるわけではないだろう。であれば、自分の置かれた状況をできるだけ客観的に整理すべきというのが、科学的な思考だ。私は科学的で哲学的な思考が好きだ。ひとつひとつ記憶を呼び起こしていく。名前、私が生まれた場所、家族、無数にある風景、音、その度に生まれた感情の記憶……。外部刺激のない静謐の中で、それは想像よりずっと早く、機械仕掛けのように進んだ。

 そして私はおぼろげに現在の状況を理解し始めた。


 私は五年前に、ロサンゼルス市のグリフィス天文台に客室研究員として招かれ、そこで今後数百年内に地球に衝突しうる地球近傍小惑星に関する研究を行っていた。複数の探査機と電波望遠鏡が観測したデータをコンピュータ解析し、該当する小惑星の質量、軌道、自転速度などから今後地球に接近もしくは衝突するモデルをシミュレーションしNASAやペンタゴンに毎週サマリーを提出する。それが主な仕事だった。朝八時にサウスベイのアパートメントを出て、一時間ほどひたすら北に運転すると小高い山が見えてくる。そのまばらに乾燥した低木が植生する乾いた山道をジープで駆け上がると見えてくるのが、私の勤務していたグリフィス天文台だ。


 この天文台は、ロサンゼルスでも屈指の有名観光地でもあるため、平日でも多くの観光客が訪れる。私が観光客ゲートの左脇にある職員入口に車を入れて守衛に会釈をすると、守衛は親指を挙げながら職員用ゲートを開ける。ロサンゼルスはいつでもそうだが、その日は特に日差しが強烈で空気も乾ききっていたため、私が館内に入るまで、私のジーブが巻き上げた砂埃が風に流されながら空に向かって漂っているのが見えた。天文台三階の南側にある私の研究室についたのは九時半を少し回った頃。月初であったため机の上には定期購読している月刊の天文雑誌が五冊置かれていた。雑誌をペラペラとめくりながら助手のリュウの淹れたコーヒーをカップに注ぐと、研究室の南側に大きく施された窓から外を眺めた。眼下にはロサンゼルス市街が一望できた。むき出しの太陽に照射されて、街は非現実的なほど明瞭で静かだった。その先には太平洋の水平線がやや白く光り輝きながら緩やかな弧を描いていた。


 「リュウ、私は毎日のようにここから窓の外を眺めているが、いつ見ても飽きない眺めだと思わないか。」

 「はい、私の故郷ではスモッグと黄砂イエローサンドで、このような景色を見ることはできませんから」リュウはシミュレーション用のサーバの設定作業をやめて私の隣に来た。

 「君は北京の出身だったね」

 「はい、北京では隣の家の表札も見えないんです」


 月末に届く探査機からのデータ解析に時間をとられ、仕事がようやく片付いたのは午後八時を過ぎた頃だった。観光客向けのエリアは六時には閉まるため、館内は昼間のざわめきも静まり、時おり廊下から聞こえる職員の足音とサーバの立てる低いノイズしか聞こえなかった。

 「荷物をまとめてDJブースに行こうか」私はリュウに呼びかけた。

 展望台の最上階、世界最大級の電子望遠鏡のあるメインルームの横に小さな執務室がある。内装はメインルームに比べるとかなり質素で什器類もほとんどなく、簡易な折り畳み机と椅子、旧型のコンピュータが数個無造作に置かれているだけだ。この部屋で唯一目を引くのは、部屋の中心に設置された直径一メートルほどの金属の円柱だ。それは床から伸び、そのまま天井に突き刺さっている。円柱は天文台の屋根を十メートルほど突き抜けて、その先端には高周波エネルギーを宇宙に放射するレーダーが取り付けられている。


 このレーダーはちょうど三か月後には取り壊される予定になっていた。グリフィス天文台のレーダーは一九九〇年に開発が開始され、二年後の一九九二年に稼働を開始したが、昨年ハワイ島に最新の宇宙観測用レーダーが設置されたため、ほとんどその用途を終えていた。私は所長の許可を得て、他の観測機器や民間レーダーと干渉を起こさない周波数に限り、また午後六時以降、一日一時間以内の条件付きで、このレーダーを取り壊しまでの間自由にする機会を得た。

 「今日はどの音楽にしますか」

 部屋に入ってきたリュウの顔は一日の仕事を終えたとは思えない精悍さを保っていた。リュウは若く、優秀な研究者だった。北京大学の天文学科を優秀な成績で卒業し、コロンビア大学で博士号を取り、数か月前に私の研究室にやってきた。その精悍な顔つきの中に時おり見える若者特有の不安定な人懐こさや気まぐれな好奇心に私は好感を持っていた。彼はまだ二十三歳だった。短く借り上げたこめかみ部分に陰陽のシンボルをかたどったタトューうっすらと浮かび、左耳に着けたピアスが執務室のライトを反射し橙色の光を放っていた。


 「先週は私の国の音楽をかけたから、今日は君の番だ」

 元々はリュウの発案だった。数年前に、ノルウェーの音楽家、民俗学者、天文学者が集まりオスロ大学の天文台から太陽系外の小惑星に向かって、自国の民族音楽を高周波エネルギーに乗せて放射した、というニュースを覚えていたリュウが、レーダーの取り壊しの話を聞いて提案してきたのだ。どうせ三十年以上前のレーダーでは照射できる距離が限られるため有用な実験は行えないだろうし、助手であるリュウとの親睦を深める良い機会にもなるだろう、と私は快諾した。それから、一日の仕事が片付くと二人で『DJブース』に移動し、お互いの母国の音楽を太陽系内外の小惑星に照射しながら、お互いに感想を語り合うのが習慣になった。

 「そういえば、チーフはタバコを吸いますよね」折り畳み椅子に腰を下ろしたリュウに唐突に聞かれ虚をつかれたが、吸う、と答えると、リュウはややためらいがちな表情を見せつつもバックパックから、アルミの小さなケースを取り出した。中には、先端が少し膨らんだ小指くらいの大きさの紙巻き煙草のようなものが数本入っていた。

 「ジョイントです。試してみますか」

 ロサンゼルスに住んでいれば、度々路上で、公園で、バーで嗅ぐこの匂い。植物が発酵し凝縮された酸の匂いで私はそれが何であるかが分かった。

 「私の国ではまだ重罪です。海外からの持ち込みは死刑になることもあります。チーフの国でもまだ違法だと聞きましたが、これは煙草よりずっといいですよ。ニューヨークにいた頃に初めて吸いましたが、今でも落ち着きたい時にはたまに吸うんです。依存性も煙草やアルコールより低いことが証明されていますから安全ですよ」


 私がリュウからそれを受け取り、この手のものに手を出すには少し年を取りすぎているが試してみるくらいはいいだろう、と答えると、リュウは、さすがチーフ、とニコニコしながら立ち上がり、円柱の向こうまで歩いて排気装置のスイッチを入れた。リュウはジョイントを咥えながらその先端に火をつけて何度か吹かすと、フィルターから大きく煙を吸い込んだ。数秒してゆっくりと薄紫の吐き出す。「煙草と一緒です。ただ、大きく吸い込んでゆっくりと吐き出してください」と上ずった声で言いながら私にそれを差し出した。

 私は鼻腔に突き刺さる酸の匂いを感じながら、ゆっくりとそれを吸った。煙は煙草のそれよりもスムーズに喉を下り私の肺を満たした。リュウがにやけた顔で手のひらをこちらに突き出すので私は数秒息を止め、リュウが手を下げるとゆっくりと肺に溜まった煙を吐き始めた。煙が喉を上がっていくと、煙は枝分かれし、煙の微粒子の一部が頸椎の中を流れ、上昇し、後頭部からゆっくりと脳を満たしていった。煙を吐ききる頃には煙の粒子はそれぞれが柔らかな光の粒に変わり、両眼から溢れ、部屋を漂い始めていた。……どうですか、チーフ。落ち着きますか。もう一吸いしてください。そうです、そうです。では、音楽を聴きましょう。今聴いたらきっと素晴らしいですよ。リュウの声が光の粒に混じり紫に発光しながら私の耳もとをくすぐる。

 赤い目をしたリュウは、鞄からラップトップを取り出すと、音楽を選び始めた。チーフ、私の国の音楽で無くてもいいですね。私は頷く。最も美しいフロウとライムとリリックが詰まったトラックです。ハイな時には音楽の根本が理解できます。リュウは血走った目で円柱のカバーを開き、コードを繋ぎマックを接続した。

 「現在の天体状況であれば、太陽系内の火星以外すべての惑星にレーダーが当たります」リュウが許可を促すので私は再び頷く。リュウはマックから目当ての曲を見つけたらしく、こちらに向かって微笑んだ。

再生《Hit it》!


 ……

 ストリートで生み出された本物の知識を教えてやる

 俺の名前はEAZY コンプトンからやって来た

 お前の母親を絞め殺し お前の妹と愛し合う

 完全にキマってる危険なマザファカ

 捕まってもすぐに保釈 そんなことは気にしねえ

 困ったもんだ

 クソ警察どもを見てもたじろがない ただスマートに身を隠すだけ 

 血眼のパンクどもが通り過ぎるのを待って 俺はほくそ笑む

 笑えるだろ 

 だが奴らにはおれの居場所は決してわからない

 俺はその辺を転がしてるだけだが

 やつらはEAZYという名前の男を探し続けている


 これが俺 閃光 奴らは決して俺を捕まえられない

 無慈悲 決して捉えられない闇に潜む影

 ぶっ放してる間は別 俺は躊躇しない

 俺の最後の一発を食らったやつの叫び声が聞こえるだけ


 突風で俺はぶっ飛ぶ だが記憶は確実に刻み込まれる

 おれに撃たれたビッチども? 忘れちまったぜ

 俺がそんなこと気にすると思ってるのか 見くびられたもんだ


 これは俺、Eの自伝だ 

 なめた真似をすれば一番ドープなこの俺が

 お前を殺しに行く


 コンプトンから直行だ


 ……

 

 返信が届いたのは二十七分三十秒後。火星からだった。


 ……

 やあEAZY

 お前の住む惑星はコンプトンというのか

 ライムとリリックは素晴らしかったが

 フロウであれば俺たちが上だ


 それからドクター・ドレとアイスキューブにもよろしく


 ……


 そのあとに続く火星からのアンサーラップによって私とリュウの肉体は蒸発し、排気装置からロサンゼルス上空にばら撒かれた。取り残された私とリュウの魂は、必死に部屋の中心の円柱を昇ると、グリフィス天文台のレーダーから火星へと照射されたのだった。

 たゆたい続ける魂のラップはこうして始まった。




続編は毎週更新予定です。

よろしくお願いいたします。

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