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最上

作者: 小城

 天文15(1546)正月朔日。山形の最上義守の妻が出産に臨んでいた。外は雪に覆われている。最上氏は、南北朝時代に、足利尊氏に奥州管領として派遣された斯波家兼の子孫である。義守の頃の山形城は、未だ中世の居館の趣を残している。

 御産所に定められた氏家定直の館には、乳母をはじめとした女房たちが義守夫人の出産に立ち会い、控えていた。隣の部屋には、祈祷をする羽黒の修験者があり、庭には雪の中、破魔弓を鳴らす侍たちの姿が見られる。

「お生まれなされました…。」

出産は、昨夜の大晦日から行われていた。難産であり、母子の命が危ぶまれたが、無事、生まれてきた子はやや小柄の男の子だった。生まれたのが、雪の降り積もる正月朔日のことであったので、縁起の良い字を選び、白寿丸と名づけられた。

 命を危ぶまれた子ではあったが、その後はすくすくと育ち、人の二倍の早さで成長した。それは6歳のときには、既に、元服した成人に見間違えられる程であった。15歳になり、元服を迎えると、京の将軍足利義輝のもとに行っていた使者が戻り、白寿丸は「義」の偏諱と従五位下右京大夫の位階を授かった。

「最上源五郎義光。」

それが新しい名前だった。

 元服が済むと、次に義光は戦の準備をさせられた。山形の北西、寒河江荘の寒河江氏との合戦である。とは言っても、義光の初陣を祝う儀式のようなもので、この合戦は小競り合い程度で終わった。

 しかし、義光の本領は、初陣ではなく、その翌年の蔵王温泉への湯治のときに発揮された。湯治場へ行く道の真ん中に大石があった。通行の邪魔なので、どかそうとは思うのだが、見かけと違って、えらく重い。宿の者たちも難渋してそのままになっていた。

「なんだこれは?」

道中を義守一行が通った。その中には、16歳になる義光もいた。この頃の義光は、背丈が6尺近くはあった。義守や家臣が石を避けていく中、最後尾の義光はその石にぎゅっと抱きつくとおもむろに持ち上げて、近くの松の根元に退けてしまった。

「なんの音だ?」

義守が妙な物音に振り向いて見ると、今までそこにあった大石がなくなっている。そして、道の脇には、大石の横に佇む義光の姿がある。

「源五郎が一人で動かしたのか?」

呆気にとられた顔で、義守が聞いた。

「左様にございますが…?」

義光は何ともない調子である。

「これ、その方…。」

義守は試しに傍らにいた家臣に石を持たせてみた。その家臣は義光のように大石に抱えついた。

「びくともいたしませぬ…。」

何度か持ち上げようとしても上がらない。他の家臣も取り付いてみるが、3人がかりでようやく持ち上がった。代わりに義光が持ち上げてみると、やはり一人で持ち上げられた。

「源五郎は三人力ということか…。」

義守は得体の知れない恐怖を我が子に感じた。

 ちょうどその夜、義守一行が宿で休んでいると、庭先に胡乱な影が三、四つ怪しく跳躍していた。

「(おや…?)」

家臣の一人が燭台を手に離れの厠に向かっていたところ、その影に気がついた。

「殿、胡乱者がおりまする…。」

「なに…?」

家臣は義守らを起こした。刀を手に義守らが待ち受けていると、やがて盗賊の一派が部屋へ侵入して来た。

「狼藉者!」

義守が刀で斬りつけると、部屋の中は乱戦になった。

「庭へ抜けよ!」

義守の一言で家臣らは広い庭に抜けた。何度か剣戟を続けていると盗賊たちはやがて逃げていった。

「逃がしたか…。」

義守が諦めかけたとき、後ろから何者かが飛び出して盗賊たちを追って行った。

「源五郎…!?」

義光はものすごい早さで盗賊に追いつくと、首領とおぼしき一人を後ろから斬りつけた。手下たちは驚きの余り、四方に飛んで行った。義光は首領の骸を引きずって、義守たちのもとへ届けた。

「敵を討ち取りました。」

「左様か…。」

義守は刀を納めると、鬼の子でもみるかのように、我が子源五郎義光の姿を見た。

「(源五郎は真に我が子なのか…?)」

山形城の一室で熱い湯をのみながら、義守が考えていた。数年前に生まれた弟の義時は義光とは打って変わって小柄で大人しく可愛らしい。

 義光18歳の年。義守と伴に、京の足利将軍の下へ向かった。

「最上家は尊氏公の頃より続く、奥州管領の家柄故、将軍家へ御伺候せねばならない。」

遠く奥州の地から京都まではるばる徒歩で出掛けた。義守の代には、奥州管領の名は既に空名となり、実権は伴っていなかった。

「羽州出羽最上家嫡男最上右京大夫でございます。」

義守、義光、伴に平伏している。

「面を上げよ。」

義光が顔を上げて、一番に目に付いた物は将軍の直垂に付いた紋様であった。

「(同じだ。)」

足利家の家紋のひとつの、二つ引き両紋は最上家の家紋でもあった。最上家の始祖、斯波氏は足利氏の系統であるので、その関係である。拝謁が済んだあと、義守に聞いてみると同じようなことを言っていた。

「(俺の本当の父親は将軍様なのではないか…。)」

京からの帰りの道中、ふとそんな空想を義光はしてみた。前を歩く父は自分よりも背がだいぶ低い。

「(このような小さい人から俺が生まれて来たのであろうか…。)」

厳密には義光は義守から生まれて来たわけではないのであるが、何故か父は自分のことを嫌っているようだった。体は大きいが心は繊細であった義光は父親の心の機微に敏感であった。あるいは、それは義光の被害妄想であったのかもしれない。だが、義光がそう思うことによって、その心的表象は身体的表象として表出されて、義守にとっては、義光から嫌われているという様子に映った。そして、それが、義光よりも弟の義時への偏愛を生むに至った。予言の自己成就である。

 義光には2歳年下の妹がいた。義姫という。

「源五郎。」

と義光のことを義姫は呼ぶ。義光はこの2歳年下の腕白少女と遊ぶのが大好きであった。

「(義姫といる方がおもしろい。)」

義光は男子より女子といることの方を好んだ。とは言っても、それは性的欲求の現れではなく、義光の繊細な心情の現れであった。上下の秩序は時に、義光にそこに嵌まることの窮屈さを教える。同年代の男子はどうしても、力比べをしても、義光には適わない。そして、当主の嫡男ということもあり、そこに距離ができてしまう。それに比べて、特に義姫は勝ち気で兄妹という関係もあって、お互いに遠慮がいらない。そこがよかった。

 そんな義姫が、義光たちが京都から戻った翌年、米沢の伊達家の所へ嫁に行ってしまった。義姫の輿入れの日、義光は見送りには来なかった。

「(うぅ…。)」

義光は一人、部屋で衾を被って泣いていた。

「(兄上。泣いておられるのですか?)」

弟の義時が様子を見に来た。が、義光は衾を被ったままじっとしている。

「(父上。兄上は泣いていられるようです。)」

「なに…?」

義守は耳を疑った。

「(あの源五郎が泣いている…?)」

妹の輿入れである。めでたいことである。それを泣いている。

「(あの鬼の首をも取るような男が…。)」

ひとしきり泣き終わると、義光はすっきりした。食事時には、いつもと変わらず飯を食べている。

「(解せぬな…?)」

妹の輿入れの際に泣くことも、今、平然と飯を食っていることも義守には理解し難いことであった。

 

 ある年。山形城に、和合但馬守という男が尋ねてきた。

「八ツ沼城主原甲斐守と鳥谷ヶ森城主岸美作守が協力して山形城を攻め取ろうと企んでおります。」

その和合但馬守という色白で痩せた侍は二人を攻めるのであれば、自分が道案内をすると言った。

「(八ツ沼か…。)」

八ツ沼城は最上川中流域にあり、その下流は伊達家の米沢に通じている。この城を押さえておけば、いずれ、伊達家を攻める際に最上川の間道を縫って、米沢に侵攻できるかもしれない。

 さっそく義守は5000の兵と伴に和合但馬守の道案内の下、山道を縫って、八ツ沼城を目指した。その中には義光の姿もあった。まず途中にある鳥谷ヶ森城を攻めた。岸美作守は500の手勢と伴に城に籠もったが、5000人の最上の軍勢の前に為す術なく自刃した。

「次は八ツ沼城へ参るぞ!」

「おおう!!」

兵たちが山を越えて行く。八ツ沼城は東を最上川、西を八ツ沼に挟まれた標高280mに位置する山城である。原甲斐守も手勢と伴に城に籠もったが、落城は目前であった。

 義光は西の八ツ沼付近を手勢と伴に巡回中であった。義光は長さ7尺近くある金砕棒を携えている。重さは半貫はあるかと思われる。義光の場合、馬上から刀を降っても背が高いため届かないのである。槍でもいいのだが、槍の場合義光の膂力に耐えられず、柄が折れてしまうので、樫の木を削り出し鉄を貼ったこの棒を使っているのである。

「小便をして参る。」

馬上から降りて、林の陰に入って行った。手には金砕棒を持っている。

「(ふう…。)」


ガサッ。


物音がした。

「(何だろう…?)」

小便をし終わった義光は、物音がした方向へ、のっしのっしと金砕棒を携えて歩いて行った。並みの武将ならば、一旦、家来のいるところまで戻るのだが、義光は臆することはなかった。金砕棒を持って歩くその姿はまさに鬼であった。

「(あれは…。)」

見ると、沼の傍らに男女が一組いた。義光が見ているとその二人は伴に沼に飛び込もうとしている。

「待たれよ。」

義光は慌てて近寄って行った。

「何者!?」

男が持っていた小刀を構えた。

「怪しい者ではない。」

身の丈6尺はある大男が7尺近くある金砕棒を持っているのである。怪しくないことはなかろう。

「其方たちは夫婦か…?」

おおらかとした義光の雰囲気に飲まれたのか、男は口早に事情を説明した。

「我等は原甲斐守の子半兵衛と妻である。」

聞くところに寄ると、妻は鳥谷ヶ森城主岸美作守の娘であるという。

「義父等に最上殿への企みはありませなんだ。」

この度のことはすべて、半兵衛の妻弥生姫に横恋慕した和合但馬守の謀略だという。但馬守は二人の婚姻前より弥生姫に近づいていて、婚姻が成立したと見ると、それを恨んで、原甲斐守と岸美作守に謀ありと義守に告げたのであった。

「二人は愛し合っているのだな。」

20歳になる義光は恋をしたことはないが、夫婦の愛情というのは分かる気がした。

「それで何故、二人して沼に飛び込もうとするのか?」

義光の突拍子もない質問に二の句が継げないでいると、続けて義光がしゃべった。

「早く逃げなされ。」

直、城が落ちれば、最上勢がやって来るその前に行けという。

「城の西手には兵はおらぬ。」

親切にもそう付け加えた。

「父上らが討ち死にしたのに、我等だけ生き延びるなどとはできませぬ。」

半兵衛は言った。来世での再会を約した二人は早く沼に落ちて死んでしまいたかったのだが、突然現れたこの大男によってその勢いが挫かれてしまっていた。

「それは何故か?」

父が死んだら何故子も死なねばならぬのかと問うた。

「御父上がそう申したのか?」

半兵衛の父、原甲斐守は和合但馬守に対する恨みは口にしていた。そして、嫡男の半兵衛らを城から逃がした。

「それならば、その和合但馬守という男への仇は俺が取っておくから二人は早く逃げなされ。」

こうまで言われたら半兵衛夫婦は落ち延びるしかなかった。

「貴公は何者であるのか?」

名のある高僧か何かかと思った。よもや古の武蔵坊弁慶が現れたわけではあるまい。

「最上右京大夫である。」

右京大夫と言えば、最上の嫡子である。

「早よ。逃げられよ。」

帰りの遅い義光を気遣って家臣がやって来る音がした。二人は急いで城の裏手の山道を下って行った。

「ふむ。」

それを見届けると義光は近くの大石を抱えて沼へ投げ入れた。


ボチャーン。


「若殿。何事にござるか…!?」

家臣が慌ててやって来た。

「原甲斐守の嫡男夫婦が沼に身を投げた。」

聞くと嫡男夫婦は義光に事情を話し、沼に飛び込んだという。

「其方、和合但馬守を連れて参れ。」

義光の前に但馬守が連れて来られた。

「此度の事、其方の謀だというが真か?」

金砕棒を持った大男の前に跪いている。

「姫に横恋慕して最上の家を謀ったと、そう聞いたぞ。」

「半兵衛の偽り言にござる。」

「嘘を申せ!!」

義光の金砕棒が但馬守の脳天を直撃した。重さ半貫はある棒の重みに加えて、義光の膂力も合力された衝撃により、但馬守は倒れた。おそらく即死であろう。義光は倒れた但馬守の首根っこを持つと、その体ごと沼に投げ込んだ。


ボチャーン。


大石のとき同様の大きな音が辺りに響いた。その地獄の鬼が亡者を扱うような光景が目の前で繰り広げられた家臣一堂は黙って見ているだけであった。和合但馬守のことは原甲斐守最期の書状にも書いてあり、義守も戦後、但馬守を処罰する予定であった。

「父上、和合但馬守は死にました。」

「左様か…。」

こうして最上家は鳥谷ヶ森城と八ツ沼城、そして和合の里をその掌中に収めることができた。


 米沢の伊達家に嫁いだ義姫からの書状に子が産まれたと書いてあった。

「伊達家に子が産まれたそうです。」

名を梵天丸という。後の伊達政宗その人である。彼はその後、20歳以上年の離れた義光と兄と弟、または父と子のような関係を繰り広げていくことになる。

「(父上は明らかに俺を避けているな…。)」

近頃、義守は義光と顔を会わそうとしなくなった。噂では弟、義時のもとに頻繁に通っているという。義守は家督を義時に譲ろうとしているという噂もある。義時は今、中野家の養子となっている。中野家は最上家の一族で、先祖は同じ斯波氏である。もともと義守は中野家の出自であり、最上家定の養子となり、最上家当主となった経緯がある。この当時、義光と義守は表立って争っていたわけではなく、あくまでそれは表面下でのことであった。しかし、家臣らはそれぞれ代々の土地を持っており独立性が高く、主家の家督争いを契機に自家の伸長を企む輩と相まって、ちょっとしたことがきっかけとなり、内紛につながりやすい。そんな中、一人の老臣が最上家の行く末を案じていた。氏家定直である。

「老体に鞭打って馳せ参じました。」

病床にありながら、義守のもとへ参上した定直は家督は義光に預けることの利を解いた。

「ひとつには、あの体躯に候。」

義光の6尺を越える巨躯は、鎧兜を纏い、手に金砕棒を持つその姿はまさに地獄の鬼で、近隣諸国にもその噂は広がりつつある。周囲の豪族たちを屈伏させるにはうってつけである。

「二つには、その性質に候。」

義光は普段はおとなしくおおらかとしているが、いざ戦になると性質が激し、金砕棒を持ち、敵陣に突っ込んで行く。それは猪武者のきらいはあるが、そのような大将の姿に鼓舞される将兵も多い。

「三つには、伊達家との関係に御座候。」

伊達家には義光の妹の義姫が嫁いでいる。義光と義姫は特に仲が良く、今でも頻繁に書状のやり取りをしている。最上家の宿敵と言える伊達家と良好な関係を築くには義光が当主になる方が良い。

「分かった。」

翌年、義守は家督を義光に譲り、自身は隠居し栄林と名乗った。義光の当主就任を見守るように氏家定直はこの世を去った。

「(定直爺には感謝せねばなるまい。)」

氏家定直の決死の説得により、一時は最上家の家督争いは落着したと思われた。

 家督を継ぎ最上家当主となった義光の政治は今までの義守の政治に甘んじていた国人領主たちからすると苛烈であった。義光にとっての政治は戦と同じであった。

「これでは戦に勝てぬ。」

義光のもうひとつの目的、それは伊達家であった。今、最上家は伊達家の家風に甘んじている。

「(このままでは妹の手紙にすら本音が書けぬわ。)」

伊達家当主輝宗のもとに嫁いでいる義姫と義光は頻繁に書状のやり取りをしていた。しかし、それらの書状は義姫に渡される前に事前に伊達家の検閲を受ける。義光は幼い頃、義姫と遊んでいた頃のようなやり取りを離れていてもしたかった。

「伊達家の家風に屈伏していてはならぬ。」

それは義光の私情から出た動機なのだが、その言葉の力は強い影響力を持っていた。伊達家の風下に立たないようにするには、伊達家との戦に勝たなければならない。それには領内の国人領主たちを屈伏しなければならない。そういう論法であった。

「源五郎のやっていることは最上家を潰す。」

そう思ったのは義守であった。義守は密かに暗躍した。

 山形の北側に最上八楯と呼ばれる国人領主の一揆があった。天童・延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生の八氏で、一番山形に近い天童氏が盟主となっていた。義守は彼らと、また義理の息子である伊達輝宗と結託して、義光に反旗を翻した。天正2(1572)年。天正最上の乱である。

 米沢の伊達家は、最上家の御家争いに介入して、山形に度々侵攻した。最上八楯を始めとして、寒河江や相馬と言った周辺豪族たちもこれに呼応した。

「すわ!すわ!すわ!」

合戦の度に義光は金砕棒を持って陣頭に立った。

「打て!打て!打て!」

義光は鉄砲に早くから目を付けていて、少数ではあるが、それをうまく運用していた。

度々侵攻して来る伊達軍を蹴散らす義光の勢いに周囲の国人領主も一旦は義光に敵対しながらも、再び、義光に味方した。国人たちが鞍替えしたことから、不利を悟った伊達軍は義光と和睦を結び米沢へ帰って行った。

「もうすぐ冬が来る。」

出羽国では冬になると合戦はできない。最上の乱は一時休戦となった。

 冬になると、義時が義光を呪詛したという噂が立った。

「噂の真偽などどうとでも良い。」

義光は義時に山形城へ理由を説明しに来るように告げたが、義時はこれを拒否した。中野城にいる弟、義時のところへ刺客が放たれた。

「義時殿は御自害遊ばされました。」

首を取られる前に自ら自害したという。義時は義守らに反義光の旗頭として擁立されていた。

「禍根は立たれた。」

義光のもとへ家臣らが義時の御首級を持って来た。三方の上に乗せられたそれは首と胴が離れた一木造りの人形であった。

「『義時』は死んだか…。」

義光は目の前に置かれたそれを見つめていた。

 翌日、山形城下で修験者、羽黒の弁寛という者が処刑された。弁寛の罪状はこう書かれていた。

『コノ者。人形ヲ用ヒテ人心ヲ惑ワシ最上之御家ヲ転覆セント企テシニヨリテ。』

 ここでひとつの疑問が残る。義光も含め、家中の誰もが『義時』という存在を見たことがなかった。ただ一人、義守を除いては。義守は実の息子である義光を恐れ、その心の内で自分に似た小柄で可愛らしい息子を欲した。そして、義光が産まれたときから、義守の傍らにはこの羽黒の修験者弁寛がいた。あるいは『義時』という存在はこの弁寛が義守の心の隙間を埋めるために作り出した幻だったのかもしれない。


 年が明けて、義光に長男が産まれた。後の義康。この頃から義光は出羽国の統一を目指すようになった。まずは最上八楯の盟主天童氏を攻めた。

「かかれ!かかれ!かかれ!」

義光も金砕棒を持ち戦場を駆けるが、天童氏の抵抗は頑強で最上勢は攻めあぐねていた。

「一旦、和睦だ。」

もたもたしているとまた冬が来る。義光は天童氏の娘を側室に迎え、兵を退いた。

 その頃、中央では織田信長が室町幕府を滅ぼし、天下に権勢を敷いていた。

「(将軍がいなくなった今、官位を貰うとなれば織田家か…。)」

義光は伴を連れて京都へ向かった。京都で織田信長に拝謁すると、出羽守の任官を願い出た。

「今後は最上出羽守を名乗るが良い。」

遠く奥州の地から自分の下へはるばるやって来た義光に信長も悪い気はしなかった。義光は信長から出羽守の官位と三十八間総覆輪筋兜を拝領した。

「(これで大義名分は成った。)」

義光は出羽統一を本格化させた。山形の南に位置する上山城の上山満兼は山形と米沢の境に位置することから、天正最上の乱の折は伊達家に寝返り、伊達家と和睦が成った後も密かに伊達家の支援を受けて、最上家に抵抗していた。

「道理を通さねばなるまい。」

義光は書状を書いた。

「(この度、上山は最上と伊達の和睦が成った後も密かに伊達家に通じ、謀叛を起こしている…。)」

このことが明るみになった折には、きっと伊達家は最上家との和議を尊重して、上山のことは知らぬ顔をするであろう。そうなれば、上山は一人で、伊達と最上を相手にしなくてはならないだろう、という趣旨であった。

「里見民部の所へ。」

里見民部は上山満兼の重臣で、伊達家と最上家の和睦の際も上山城の代表として和議に尽力していた。

里見民部は謀叛を起こすと、満兼を和議に違反し、上山の御家を惑わす悪主として討った。

 庄内地方は大宝寺氏が治めていたが、当主、義氏に他の国人たちは不満を抱いていた。

「不満の原因は度重なる戦により、国人たちの疲弊が甚だしいということのようです。」

「なるほどな…。」

義光は少しの間、小首をかしげて考えていた。

「筆を持って参れ…。」

すらすらと書状を書いた。

「大宝寺の妹婿の前森蔵人の所にこの書状を送らせよ。」

書状にはこの度の戦のこと。庄内の国人たちを労る言葉とともに、最上家の敵は大宝寺義氏であること。最上家は義氏を攻めあぐねているので、協力をしてほしいことなどを細かく書いた。その書状を読んだ義長は謀叛を起こし、大宝寺義氏を自刃に追い込んだ。

「庄内地方はおぬしが治めよ。」

前森蔵人は東禅寺城主となり、東禅寺義長を名乗った。その後、しばらく、義光は庄内地方には軍役を負わせなかった。

 山形の北。天童の西に谷地城がある。そこの城主白鳥十郎長久は、義光に先立って、京都の織田信長へ使いを送り、出羽の国主としての地位を信長に認めさせていた。その話を聞いた義光は上洛の際に信長に訳を話し、白鳥十郎を討つ許しを得ていた。

「謀り事を語る白鳥十郎は殺すが良い。」

つい先頃、白鳥十郎の伺候を大いに喜び、数多くの返礼品を与えた信長は、今度は義光にそう言った。もとより、遠く出羽国の事情などこの頃の信長にはどうでも良かった。信長は争乱を勝ち残って来た者と対峙すれば良い。

「さて…。」

白鳥氏は寒河江氏や天童氏と婚姻関係を結んでおり、容易には敵対できない。

「書状を…。」

義光はすらすらと筆を走らせる。義光の嫡男、義康の正室に白鳥氏の娘を迎えることにした。

「怪しいな…。」

当の白鳥十郎はこれを訝しみ何かと理由を付けて断っていた。その内、義光が病であるという噂が広がった。

「先だってより、病を患っていたが、ついに床に伏せってしまった。もとより婚姻の話は、病により後先を憂い、白鳥を息子の後見の一人として迎えたかったからである…。」

山形城よりの使者が持参した義光の書状にはそう書いてあった。

「お屋形様が身罷れる前に今一度、御面会下されませ。」

使者はそう懇願した。

「謀にございましょう。」

家臣は止めたが、白鳥十郎は使者と伴に山形城に向かった。山形城の居間では、義光が床に伏せっていた。

「(まことであったか…。)」

白鳥十郎が病床の義光の傍らに近づいたとき、白刃が煌めき十郎の命を奪った。

 その後、当主を亡くした谷地城は最上軍に攻められて落ちた。後ろ盾を無くした寒河江氏もまもなく最上軍に攻められて当主、基高は自刃した。残るは天童氏であった。

「たあっ!!」

義光が金砕棒を振り回して、戦場を駆けていくと、決まって天童兵の中から一人の武者が出て来る。

「またか…。」

その武者は身の丈は義光程ではないが、手に金棒を持っている。

「(あやつの持つ金棒は実の金棒ではあるまいか…?)」

義光の場合は樫の棒に鉄を貼り付けてある。しかし、その武者の物は長さは5尺程で打刀くらいだが、純粋な鉄の棒であった。

「退け!!」

最上軍はその武者が出て来ると退いて行く。一度、義光は彼と打ち合ったことがあるが、金砕棒を折られて、命からがら逃げて来た。

「延沢め…。」

武者の名は延沢城主の延沢満延であった。

「あの者がいる限り天童は攻略できぬ。」

義光は書状を送った。白鳥十郎のときと同じく、義光の娘の松尾姫を満延の嫡男、又五郎に嫁がせることにした。

「婚姻の前に一度、お互いに面会したい。」

義光は伴を連れ立って、延沢城の近くの山寺に出掛けた。

「(隙を見て殺すしかあるまい。)」

白鳥十郎のときと同じようにしようと企んでいた。山寺に着くと、満延は一人で待っていた。

「(一人…?)」

義光の周りには伴の者が5人いた。

「お待ちしてござった。」

座敷に上がる前に、義光が立ち止まった。

「延沢。おぬし相当な怪力というが、まずは力比べと参ろう。」

伴に合図を送ると、5人一斉に満延に飛び掛かった。

「(5人掛かりならば生け捕ることもできよう。)」

義光はそう思っていたが、その義光の横を伴の一人が空中を飛んで行った。

「な…。」

続いてもう一人が今度は右横を飛んで行った。

「(なんという馬鹿力じゃ…!!)」

既に他の3人も座敷の障子に頭を突っ込んでいたり、天井に頭を突っ込んだまま気を失っていたりした。

「残るは貴公一人ぞ…!!」

化け物のような満延が迫り来る。義光は慌てて、庭の桜の幹にしがみ付いた。

「そおら!!」

満延は義光の体を掴むとその体ごと桜の幹を引っこ抜いてしまった。

「俺が悪かった!!許してくれ…。」

子ども同士のけんかに負けたような義光を地面に下ろすと満延はその場に座った。

「条件がござる。」

又五郎に松尾姫を嫁がせて、最上家に降る代わりに、天童家当主頼澄の助命と最上八楯の者たちを処遇する際の満延への一任が条件であった。

「分かった。約束しよう。」

桜の幹にしがみ付いたまま義光はそれを受けた。

 延沢満延の寝返りにより、他の天童諸将も次々と最上家へ寝返り、最上八楯は崩壊した。小国城の細川家を討伐し、鮭延城の鮭延秀綱を降伏させて、ここに義光の出羽統一は、ほぼ成った。時は天正13(1585)年のことである。

 義光の謀略の数々はその智謀から生まれた。そして、その智謀は義光の繊細な内面から生まれていた。延沢満延などは怪力無双の士であり、満延に敵わないまでも義光も怪力の持ち主である。二人の異なる点は、満延は内面も剛勇であったが、義光は繊細であったことである。戦場においては鬼の如く駆け回る義光であったが、それは彼の繊細さの裏返しでもあった。当の義光はそれに気がついてはいない。義光の心は戦場においても平常においても、周囲の人々の心の機微に敏感に反応し、それに応える力を持っていた。それ故に、彼は他人の心情を汲み取り、察する能力に長けていた。それが義光の謀略であった。


 ここに最上家の支配域となった庄内地方がある。先だって、大宝寺義氏の弟、義興が東禅寺義長を攻めたが、これを最上家は攻め返し、義興を自刃させた。義興の敗死により、庄内地方は改めて義光の手に落ちた。

「鮭が食える。」

庄内地方は海につながっている。義光は子どもの頃に食べたこの魚が大の好物であった。その後は商人などから買い求めていたのだが、大宝寺氏を退けて以降、庄内地方に支配権を拡大させた義光はおおっぴらに鮭を手に入れることができるようになった。

「鮭を山形城まで運んで来てほしい。」

義光は東禅寺義長に書状を送った。まもなくして、鮭楚割さけすわやり(干物)、氷頭(鮭の頭の干物)、背腸(塩辛)、鮭子(筋子)が送られて来た。

「夢のようじゃ。」

それらを家臣に配り、伊達家に配り、義姫に書状を送った。義光は毎日のように鮭を食べた。

「鮭様。」

そんな義光を家臣はそう呼んだ。


 最上家の出羽統一があらかた出来上がった頃、畿内では、豊臣秀吉が関白の位に就き、天下には惣無事(私戦禁止)を呼び掛けていた。そして、九州の大友氏の懇請により、停戦に従わない島津氏を攻めて屈服させた。そのような頃、奥州では、義光の妻の実家である大崎氏に内紛が起こっていた。当主、義隆と大崎家執事、氏家吉継の間で争いが起こった。吉継は伊達家を義隆は最上家を頼った。大崎家は義光の妻の実家でもある。義光としては伊達家の大崎家侵攻は不満だった。

「藤次郎は困ったやつよ…。」

 藤次郎。伊達家の当主政宗のことである。政宗は義光の妹義姫の子であった。政宗が重臣、留守政景を大将に大崎家の拠点中新田城に攻め寄せたことを聞くと、義光は伊達家を牽制しようと軍を出した。それにより、政宗は最上家に備えて米沢城を離れることができなかった。勝敗は伊達家の圧勝かと思われたが、大雪と桑折城主、黒川晴氏の寝返りによって、留守政景らの軍勢は壊滅した。

「少し懲らしめておくか。」

伊達軍の敗報を聞いた最上家は米沢城に向けて伊達領に侵攻した。中山峠で最上軍と伊達軍が対峙しているとそこに、一挺の輿が乗り入れて来た。

「なんだあの輿は?」

輿は両者の中央に止まった。中からは尼姿の女房が一人出て来た。

「妹ではないか!?」

政宗の母義姫である。

「喧嘩はお止めなされ。」

義光のもとに来た義姫は言った。

「(何十年振りか…。)」

伊達輝宗の死後、尼となった義姫だがその面影は幼い頃より変わっていなかった。

「こんなところでお主は何をやっているのだ?」

「それはこちらが言いとうございます。」

義姫の子、政宗にとって、兄の義光は叔父にあたる。

「身内同士で争うなど愚かにも程があります。」

「骨肉の争いは武士の宿命であろう。」

久しぶりの再会にも関わらずつい義光は声を荒げてしまった。

「それならば私を殺してから、米沢へ向かいなされ。」

いつの間にか伴の者によって戦場の中央には仮屋が建てられていた。義姫はその仮屋に向かって行ってしまった。

「(どうしたものか…。)」

しばらくすれば帰るだろうと思って放っておいたが、十日を過ぎても、義姫の仮屋暮らしは続いた。義姫に水や食事を運んで来ている伴の者たちの懐柔を試みたが聞かなかった。

「大方様は本気にございます。」

女中の一人が言った。

「(仕方ない…。)」

伊達軍に使者を送り、和睦交渉に入った。和睦は難航し、両軍が退却したのは義姫到着から80日後のことであった。その間も義姫はずっと両軍の間で仮屋暮らしをしていた。

「軍を退いたのは其方のためだった。」

山形城へ帰った義光は、義姫のもとにすぐに書状を送った。

 

 伊達軍との停戦が決まってまもなく、今度は庄内地方に上杉家の臣本庄繁長が大宝寺義興の子、義勝と伴に軍勢を率いて現れた。

「至急援軍をお頼み申す!」

義光は軍を率いて庄内へ向かった。その頃、大宝寺軍は庄内地方の諸城を落としつつ、庄内地方の最上家拠点である尾浦城に迫っていた。庄内地方の国人領主東禅寺義長は弟、勝正に軍勢を付けて迎え撃たせたが、内応者もあり、空城を大宝寺軍に攻められて、義長は討ち死にした。それを聞いた勝正も本庄繁長に一太刀浴びせて、討ち死にした。

「東禅寺兄弟討ち死!」

援軍に駆けつける途中、義光はそれを聞いた。

「仕方ない。退くぞ!」

最上軍は山形城へと退却して行った。

「(鮭が…。)」

庄内地方の鮭の味が義光の頭に去来した。


 天下では秀吉の下で号令が掛けられ始めて数年経つ。奥州の大名たちも豊臣政権の真であることを認識し、その威令に従い始めている。

「蘆名を攻めるだと…?」

伊達政宗から最上義光のもとへ書状が来た。会津の蘆名氏を攻めるから援軍を寄越せという。

「藤次郎の奴は時勢が分かっておらぬのか…?」

このとき、義光44歳。政宗22歳である。天下は秀吉の惣無事令により、大名同士の私戦は禁止されている。先の伊達軍との戦の後も、三河の大名徳川家康から窘められていた。

「(誰に似たものか…。)」

義姫のことが思われた。

「大和守。」

そうは言いながらも政宗のもとへ家臣の安食大和守光信を援軍として差し向けた。

 政宗の調略の成果もあり、蘆名義広は摺上原の戦いに敗れ、黒川城を捨てて佐竹氏のところへ逃亡した。

 会津を手にした伊達家であったが、その翌年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まった。

「早く参上せねばなるまい。」

そう思っていた矢先、隠居して栄林と名乗っていた義守が死去した。前当主の死により、義光は葬儀に追われた。

「お許し叶わぬか…。」

心許なくも、秀吉が待つ宇都宮城へ夫人と伴に向かった。義光の参陣に先立ち伊達政宗は遅ればせながら参上していた。

「(こういうときだけ、藤次郎の奴めは…。)」

政宗の要領が良いのか自分の運が悪いのか。諦めながらも宇都宮城の近くまで来たとき、義光の到着を待ち詫びていた人物がいた。

「あれは…?」

徳川家康であった。以前より書状で家康と義光は親交を結んでいた。このときも家康に書状で父の葬儀により遅参する旨は伝えてあった。

「出羽守殿にござるかな。」

家康と会うのはこのときが初めてであった。義光は家康の手引きにより、秀吉と会見し事無きを得た。

「(親切な御方だ…。)」

小田原参陣による義光の印象は天下人秀吉よりも徳川家康の方が心に残った。秀吉はその後、宇都宮から奥州へ向けて伊達政宗を先陣、浅野長政を奉行とした軍を派遣した。これにより、奥羽の小領主たちは平定させられ、惣無事令違反により、伊達家は会津を没収、代わりに蒲生氏郷が入部した。その年から翌年にかけて、大崎、葛西、九戸などの一揆が起こったが、それらも豊臣の権力の前に鎮圧された。

「蘆名攻めが惣無事違反ならば、庄内攻めもそうなのではないか?」

そう思い、徳川家康を通じて、秀吉に申し入れをした。しかし、この庄内問題は秀吉の上杉家への信頼もあり、うまく行かず、庄内は最上家のもとへ戻ることはなかった。

「まことに力不足で申し訳御座らぬ。」

義光に尽力した家康は義光への書状にそう書いた。

「(徳川殿は謙虚な御方だ…。)」

かつて織田信長への忠義から自分の息子の処断まで断行したことがある、この自分を押し殺すことに長けた男への、義光の印象は好意的だった。

 もうひとつ、秀吉の奥州平定の際に、義光にとって人生最大の不幸ともなるようなことが起こった。陸奥の国人、九戸政実が一揆を起こしたときのことである。三戸城主南部信直からの急報を受けた秀吉は、一揆平定に、甥の豊臣秀次、徳川家康を総大将にした軍を派遣した。その秀次が最上家の山形城に訪れたときである。

「あの娘は何者ぞ?」

秀次の見初めた先には、幼気な少女がいた。

「我が娘にございます。」

義光の娘の駒姫である。

「あの娘を我が下へ差し出させよ。」

秀次はそう言って聞かなかった。

「娘はまだ幼い故に…。」

「ならば15にならば我が下に輿を入れさせよ。」

秀吉の次期後継者ともされる秀次の頼みを何度も断れず、15歳になったら秀次の下へ嫁がせることになった。

「父上…。どうなされました?」

「いや…。なんでもない。」

後年、この可憐な少女は秀次の謀叛事件に巻き込まれて儚い命を落とすことになる。

 秀吉の奥州仕置きが終わると、諸大名は京都伏見に屋敷を構え、夫人をそこに住まわせることになった。諸大名の多くも普段は国元より伏見の屋敷に住んだ。

「行って参るぞ。」

京都での義光は連歌の会によく出掛けた。当時、連歌は戦国大名たちの間で頻繁に行われていた。

「あつさをも知らぬ垣べの岩ね水」

「千尋の竹のなびくいく本」

「末もはたさかえもて行くうぢならん 」

そのようなやりとりが何百と続いていく。

「出羽守殿は達者にございますな。」

「滅相もございませぬ。」

義光のその繊細な内面と逞しい肉体から生み出される歌は秀逸であった。義光は数多くの歌を残し、その中には後陽成天皇から発句(始まりの句)を頂いたものもある。稀有のことと言って良い。彼は荒々しい気性と伴に素朴な心の持ち主でもあった。

「命のうちに今一度、最上の土を踏み申したく候。水をいっぱい飲みたく候。」

朝鮮出陣の際、肥前名護屋から山形へ義光が送った手紙である。義光自身は朝鮮へ渡海することもなく、名護屋での兵站輸送に従事していた。しかし、遠く出羽から端とも言える肥前の地にいた義光の心は寂しく望郷の念が渦巻いていたのだろう。

 そのような義光の京都での生活にも慣れて来た頃、15歳になった駒姫が豊臣秀次の下へ嫁に来た。

「(そうだったな…。)」

人一倍娘を愛する義光の心の寂しさはひとかたならぬ物があった。そんな義光にさらに悲劇が襲った。それはまさしく悲劇という他ない。駒姫が秀次の下へ輿入れする直前、秀次が謀叛の罪で秀吉に咎められ、一族もろともに処刑が申し渡された。

「連れて行け。」

伏見の最上屋敷にいた駒姫は有無を言わさず刑吏に捕らえられてしまった。同時に義光にも謀叛の疑いがかけられて謹慎を命じられた。

「そんな馬鹿なことがあるか!!」

義光は使者を送り、駒姫助命を嘆願した。徳川家康を通じて秀吉に何度も請い願った。

「罷り成らぬ。」

駒姫の助命はならなかった。駒姫は他の側室と伴に三条河原に連行されて行く。しかし、それでも義光は諦めることはなく、秀吉の側室、淀殿に手紙を送り必死に嘆願した。

「娘はまだ輿入れする前にございました。」

淀殿に言われた秀吉は首を縦に降った。

「姫は尼にするが良い。」

秀吉の命令を受けた早馬が京都へ向かった。が、早馬が到着した頃には、既に処刑が実行された後であった。

「何と言うことだ…。」

義光は悲しみのどん底に落とされた。15歳の可愛い娘は連れて行かれたまま、もう帰って来ることはない。そう思うだけで、胸が張り裂けそうになり、気が狂いそうになった。

「(前世の報いか…。)」

そう言って必死に自分を慰めようとした。食事などは喉を通るまでもなかった。屋敷の賄い方などは心配して、義光の好物である鮭を焼いて出したこともあったが、義光は食らう意欲がなかった。

「(己に科せられた宿業であるか…。)」

父娘ともに科せられた宿命である。そう思い今は亡き娘と同じ苦しみを背負って生きるしかないと思った。義光にとっては、この身の苦しみこそが、極楽浄土にいるであろう姫と自分を繋ぐ糸であり、唯一姫のことを感じられる物だと思った。しかし、悲劇はこれだけでは終わらなかった。駒姫の母であり、義光の妻でもある大崎殿が姫が処刑された27日後に亡くなった。義光はその報せを伏見の屋敷で聞いた。

「後を追ったか…。」

死出の旅路に愛娘を一人で行かせまいとした大崎殿は駒姫の死を聞いて、自らも命を絶ったのだと思った。

 義光の謹慎は徳川家康の取りなしもあり、すぐに解けた。

「まことに残念至極…。」

家康は駒姫のお悔やみを述べに最上屋敷へ来た。

「徳川殿は実、律義なる御方にござる。」

「滅相もございますまい。」

たった二言の会話であったが、両者ともに、お互いの言いたいことは分かった。義光は家康を称え、暗に秀吉を誹り、それを家康も承知していた。この駒姫の事件を機に義光の心は秀吉を離れて、家康に着いた。これが後の関ヶ原のときに、家康に勝利を得させた一因となった。翌年起こった慶長大地震のときにも義光は秀吉のもとではなく、家康のもとに駆けつけた。


 秀吉政権の下、全国の諸大名の改易、転封、国替が行われたが、その中で伊達家は岩手に移され、会津、米沢には越後の上杉家が入部して来た。石高にして120万石である。

 その秀吉も没し、家康が台頭してくると、豊臣家臣と徳川家との間には戦が避けられない状況が生じる。そんな中、開戦に先駆けて、上杉家は領内の街道を整備し新たな城を築き始めた。

「上杉家に謀叛の兆しあり。」

大老筆頭徳川家康は大軍を率いて、会津に向かった。

「上杉家征伐に向けて軍勢を整えよ。」

奥州諸大名にも軍令が届いた。その途次、上方で石田三成の挙兵が起こり、家康は三成のもとへ向かった。

「徳川殿は西へ向かった。」

その報せを聞き、上杉家征伐に山形に集まっていた奥州諸大名もそれぞれ自分の領国へ引き返した。再び奥羽は乱世に突入した。

「恩賞となる領土は切り取り次第自由。」

そのような書状を家康から受けていた伊達政宗は行動を開始した。上杉家の陸奥白石城を攻めたのである。城主不在の白石城は為す術なく、伊達家に降伏した。その後、目的を達した政宗はさっさと上杉家と講和を結んでしまう。最上家も上杉家と講和を目論んだが、うまく行かなかった。上杉家は3万の軍勢を従えて山形に侵攻した。

「(此度が死地となるか…。)」

義光は領内の兵に小城を捨てて山形に集結するように指示した。それでも、最上軍は7000に満たない。しかも、その大半を庄内からの軍勢に向けていたので、すぐには行動できなかった。

「(故郷で死ねるならば良いか…。)」

義光はそう思いもした。その間も上杉本隊は山形城に向かって来る。途中の畑谷城では城兵300人余が上杉兵1000余人を道連れに討ち死にした。畑谷城を落とした上杉本隊は山形城の南の長谷堂城を包囲した。

「長谷堂にいるのは、志村と鮭延か…。」

長谷堂城には志村光安と鮭延秀綱ら1000余の兵が籠もっている。志村光安は、義光が白鳥十郎の件で織田信長に謁見した際、伴にした家臣で弁が立ち智略もある。鮭延秀綱はもとは最上八楯の一人で、義光に抵抗した剛将である。この最上歴戦の勇士である二将はよく戦かった。

「かかれ!」

兵数に勝る上杉軍は力攻めで長谷堂城を攻め落とそうとした。しかし、長谷堂城は周りを深田が囲っており、最上兵は上杉軍の兵が深田にはまり足を取られているところを鉄砲で狙い撃った。城は簡単には落ちなかった。

「討ち取れ!!」

その夜、志村光安、鮭延秀綱率いる200数名が上杉軍に夜襲をかけた。この夜襲で上杉軍は混乱に陥り、本陣近くまで最上兵が攻め寄せた。

「鮭延の武勇、信玄、謙信にも覚えなし。」

このときの秀綱の活躍ぶりを上杉家臣の直江兼続は称えた。

「藤次郎の援軍はまだ来ぬのか!?」

義光は伊達政宗に再三、援軍を要請していたが、なかなか来ない。

「兄上。私が書きましょう。」

この頃、既に山形城に戻っていた義姫が言った。

「(返す返す申し候…。)」

義姫はこの最上家最大の危機に昼夜をかけて実子、政宗に書状を送った。やがて、伊達家からの援軍として、留守政景ら3000人がやって来た。

「我らも出るぞ。」

伊達家の援軍に呼応して、上杉軍本陣近くに布陣した。

「(刻がかかり過ぎている…。)」

上杉軍主将直江兼続は全軍に総攻撃を命じた。しかし、長谷堂城は落ちず、代わりに上杉の将も討ち死にした。その内に、関ヶ原での石田三成敗走の報せが奥羽にも届いた。

「やったぞ!!」

義光は歓喜した。大局が決した後ではこの戦も意味がない。上杉本隊は米沢へ向けて退却を開始した。

「追うぞ!!」

最上、伊達軍は追撃を開始した。

「追え!追え!追え!」

このときの追撃戦は後世にも語り継がれるほどの戦いだった。

壮年になってからは控えていたが、この最上家最大の危機から脱した義光は、今までの緊張感から我を忘れて、盛んに先陣を切り、疾駆した。対する上杉軍も、前田利益を殿に、直江兼続自ら鉄砲隊を率いて、追いすがる最上、伊達軍を追い払った。


カーン!!


「(何だ今の音は…?)」

後で気がついたが、このとき上杉軍の放った鉄砲の弾が義光の兜に命中していた。隣にいた家臣の堀喜吽は肩から胸を打ち抜かれて死んだ。あわや義光も死んでいたところだった。このとき義光が被っていた兜はかつて信長から送られた三十六間金覆輪筋兜であった。

「最上勢が弱すぎて、上杉軍を逃してしまった。」

後に伊達政宗が書状に書いた通り、前田利益らの奮闘もあり、直江兼続は米沢へ帰還した。

「庄内に参るぞ!!」

庄内には上杉軍別働隊がいた。本隊の退却を知ることなく、孤立していた谷地城の下秀久を志村光安が調略した。もとは北条家臣だった秀久は最上家に降伏し、先陣として、最上家の庄内攻略に参加した。

「(鮭が食べられる!)」

駒姫の一件より時が経ち、義光もこの頃には、好物の鮭が食べられるようになっていた。

 関ヶ原の戦後の論功行賞では、最上家は上杉家を牽制した功が認められて、攻め取った庄内地方も加えて、57万石の大名となった。


 こうして、出羽山形藩57万石の藩祖となった義光であったが、その後、まもなく家督相続問題が生じてしまう。

「(何故にこのようなことになってしまったのか…。)」

悲嘆ともとれる義光の、その発言通り、この家督相続問題は周囲の人々に振り回される結果となってしまった。義光の嫡男、義康は長谷堂城合戦の際に伊達政宗への使者を勤め、直江兼続の銃撃から義光を救うなど武勇にも優れた勇将であった。しかし、泰平の世が訪れると、いつのまにか、家中には義康の派閥と義光の派閥ができて、両者がお互いに争うようになった。そこから、最上家の家督相続問題に発展したのである。

「(どうしたものか…。)」

悩んだ義光は朋友徳川家康に相談した。

「家督争いは騒動の基である。早急に対処するには嫡男といえども、廃嫡することも考えねばなるまい。」

かつて、自らの息子を泣く泣く生害させたことのある家康はそう言った。自分の身に起こった不幸が、義光の場合にも適用されるとは限らないが、後々まで、長男、松平信康のことを悔やんでいた家康は、この話を聞いたとき、意地悪だとは思いながらもそう口にしてしまった。あるいは、義光の次男家親が幼少の頃より、家康の下に奉公していたこともあり、政治的にも、嫡男義康より、次男家親が出羽山形藩二代目藩主になる方が都合が良いと判断したのかもしれない。

 家康のこの発言もあり、義光は山形へ帰り次第、義康に高野山に行き、僧になるように告げた。

「承知仕りました。」

僅かな伴と高野山へ向かった義康であったが、その道中で、襲撃を受けて、命を落としてしまった。義康を襲撃したのは、最上家臣、土肥半左衛門の一派だったという。

「(何故このようなことになってしまったのだろう…。)」

義康の死を聞いた義光は、その後、義康の遺品から父、義光の安否を気づかう内容が書かれた日記を見つけて涙したという。義康を襲ったとされる土肥半左衛門は後に成敗された。

 その後、義光は家臣に命じて、庄内平野の開拓や最上川の開削などを行い山形の内政に務めたが、度重なる苦労からか徐々に体を壊し、病に伏せっていった。

 慶長18(1613)年。義光は病の体を押して、江戸へ参勤し、将軍徳川秀忠に拝謁した。その後、駿府まで赴き、大御所徳川家康にも謁した。

「最上出羽守少将、遅れながら年始の御挨拶に罷り越し候…。」

このときの義光の体はもうほとんど死期が近づいていた。しかし、それでも、かつて世話になった家康への答礼に赴いたのである。

「少将殿。さあ。」

このとき、家康と義光は同じ杯に入った酒を二人で分け合い、上半分を家康が、下半分を義光が飲んだという。家康から多くの返礼品や薬などを賜り、山形へ帰国した義光であったが、その翌年の慶長19(1614)年、正月。69歳でこの世を去った。

「一生の居、敬をまっとうし

 今日、命天に帰る。

 六十余霜のこと

 花にむかい手を拍して眠らん。」

「有といひ 無しと教へて 久堅の 月白妙の 雪清きかな」

義光の辞世の漢詩と句である。生まれたときと同様、義光が故郷山形の地で没したとき、城の外は真っ白な雪に覆われていたという。


 義光の死後、出羽山形藩は次男、家親が継いだ。しかし、家督相続から3年後、家親が急逝してしまうと、最上家には再び家督争いが起こった。そして、ついに最上家の家督相続問題は収まらず、義光の死から9年後に、出羽山形藩最上家は改易となってしまう。

 改易となった後、最上一族、家臣たちは諸藩に預けられ、彼らは藩家老、あるいは幕府高家、幕府旗本などとなり、その後も、細々と命脈を保っていったという。

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