第七話 深淵に唯一つ花を抱いて
「お断りだね」
朝暉が差し伸べた手を、太陽の熱を惜しみなく浴びた小麦色の逞しい腕が振り払う。既に怒りも悲しみもなく、先ほどまでの混乱はなりを潜め、月の瞳は水面のような穏やかさを纏い、金色を映していた。彼の口にした答えは想定の範囲内だったのか、朝暉はほんの少し肩を竦め、はあっとため息をつくのみで、がっかりした様子はない。
「理由を聞いても?」
一応、とあくまで"分かっている"と言う態度を貫きながら朝暉が首を傾げる。生意気なこなたの態度に眉を寄せながらも、銀爾は迷いなく断言した。
「オレが王にと望むのは日華だけだからだ」
――オレが王にしたいと思うのも。
そう言い放つと、地面にどかっと座り込む。長い銀の髪を乱暴にがしがしと掻く姿は、先ほどまで此方を殺そうと神経を尖らせていた狼とは思えぬもので、心恩は拍子抜けしてしまう。本当にこの人が、山賊集団と化した"白銀"の統領なのだろうか。いや、朝暉が現れるまでの死闘を思えば、疑いようもなくこの人が雲王――日華を"王"にした戦神なのだろうが。
「でもずっと此処に居るわけにもいかねぇだろ。晦日とジジイの行方、追わないのか」
「突き止めるに決まってるだろォ、るせェな……」
「じゃあおれと居たほうが一石二鳥じゃん」
「さっきから調子に乗るなよ小僧」
「全裸で凄まれても怖くねぇよ」
売り言葉に買い言葉とはまさにこういうことかもしれない、と思いながら心恩が立ち上がる。無駄な時間を過ごすつもりはない。朝暉は彼を仲間にしたいのだろうが、心恩はそもそも男を殺しにここまでやってきたのだ。
――最悪相討ちになっても良いというくらいの覚悟で。
「朝暉」
「心恩、今取り込み中なんだけど」
「僕が何をしに来たのか知ってるんだよね?」
「知ってる。でも待ってほしい」
「断るといったら?」
その時初めて朝暉が心恩の姿を映す。黄金の瞳は、凍り付くような温度に満たされていて、一瞬怯む。……が、此処で引けるほどの覚悟であれば、とうに諦めている。
「白銀を壊滅させるにはこの人の首が必要なんだ。狼族を黙らせるには力で証明するしかない。朝暉も知ってるはずでしょう?」
「そりゃあどうかな。銀族以外の狼種を刺激することになりかねないと思うけど」
「それはない。銀族の所業に一番迷惑してるのは同種だよ。むしろ滅んでくれたほうが助かる、くらいに思ってるんじゃないかな」
「おまえが求めてるのは銀族の壊滅でも銀爾の死でもなく、梦蝶とおまえの安全だろ。回りくどい言い方はやめろ」
ばっさりと切り捨てると、朝暉が心恩に近づいてくる。腕を組んで此方を睨むこなたは、珍しく苛々した態度を隠さない。困ったな、と思いながら心恩は長く伸びた糸を整える。怒りたいのは此方のほうなのだが、先に強い感情を出されると、どうもうまく自分の感情を表現できなくなってしまう。心恩の悪いところのひとつだ。
つとめて冷静を装いながら、痛みを呼吸で逃がしていく。
「……じゃあ、お願いしますって頼んだら従ってくれるの? 十年前、銀族の下っ端を殺戮した時点で僕は恨まれてる。そこの大狼がどうかは置いておいて、自分の群れを第一に考える人狼族が、おいそれと要求を呑んでくれるとは思えないな」
「心恩が言ったところで聞かないだろうな。でも、おまえが言った通り、狼族は力がすべてなんだよ。こんなちゃらんぽらんなアホが、隠居生活しながらずーっとグジグジしてんのに、統領の座から降ろされないのはなんでだと思う? "強いから"だ」
ばしばし、と朝暉が銀爾の古傷だらけの肩を乱暴に叩く。銀爾はげんなりした顔で朝暉を見、再び手を払い落とした。
「……おい、まさかとは思うけどよォ、オレに命令しろって言ってんのか? 冗談じゃ――」
「日華と晦日の情報、要らないの? 闇雲に探すならそれでも構わないけど、そのうちにあのジジイが死ぬかもしんないよ。おれが殺すかもしれないし」
チッ、と銀爾が舌打ちをする。たしかに、彼の命令なら銀族は間違いなく従うだろう。銀爾は、十年暗殺業をやってきた心恩ですらほとんど歯が立たない兵だ。それもそのはず、心恩は様々な依頼をこなしてきたものの、その多くは闇討ちで、相手に気づかれぬように近づいて仕留める殺しの手法だった。相手が戦闘態勢になる前に命を奪うのが心恩のやり方だ。対する銀爾は戦を経験している。いつ情勢が変わるかわからないなかで、何人もの戦士を相手取って大立ち回りを演じて来た狂戦士なのだ。一対一の互いの存在を認識した上での戦闘は、どう足掻いても銀爾に分がある。勿論、そんなことは分かったうえで挑んだし、準備もして来たが、殺すよりも懐柔するほうが現実的なのは確かだ。でも本当にそれでいいのか?
結局僕は、僕自身の手であの子を守れないのだろうか。自分の運命から逃れられず、誰かに頼り、救われるやり方でしか未来を切り開けないのだろうか。それで、本当にいいのか?
また間違えるだけなんじゃないか。彼女の優しさに付け込んだ時のように。愚かにも、哀れにも、自分可愛さに、間違えるのではないか。
僕は。
あの、うだるような夏の日。
馬車に揺られ、もう何十回も読んだ本に目を通しながら、必死に何事もないように神へ祈っていた。退屈そうな彼女の視線を無視して、今日のために半年間ずっと自分が行ってきたすべてのことを思い返していた。杞憂で終わればいい。祀部省の予知も、何もかも思い過ごしであればいい。彼らも神ではないのだ。間違いがあって然るべきだ。どうか思い過ごしであれ。彼女の誕生日を、ただ穏やかに過ごしたい。お願いだ、と思う。
指先が震える。
汗が落ちる。
馬車が、揺れた。やっぱり駄目だった、と思いながら、最初で最後になるかもしれないぬくもりを引き寄せる。こんな時なのに、一瞬気持ちが高揚してしまう自分の愚かさに、哀しくなった。
――昨日の夜、父から蘭家と婚約を結ぶ予定だと告げられた。
嬉しかった。梦蝶と結婚出来たら、どんなに素敵だろうと思った。読書をする彼の傍らで、庭を漂う低級の妖に躊躇いなく話しかける彼女が好きだった。遊んでいるうちに疲れて眠くなると、遠慮なく心恩に寄りかかって寝入ってしまう無防備な彼女が好きだった。梦蝶くらい社交的で明るい女の子なら、心恩以外にも友達はたくさん出来るだろうに、いつも何よりも優先して自分を選んでくれる彼女が愛おしかった。心恩が好き。心恩が大切。そうやって余すことなく想いを伝えてくれる、可愛くて優しい女の子が隣に居たら……それはもう当然、当たり前に、好きになってしまうと思う。ならないでいられないでしょう、それは。
梦蝶と違って、心恩は感情を言葉にするのが極端に苦手だった。
言葉にすれば、それはもうその言葉以上のものにならなくなってしまう。自分の内に湧いた感情を、適切に表現したいと思っても、どの言葉もそぐわないように思えてしまう。楽しい。嬉しい。悲しい。苦しい。愛おしい。美しい言葉の箱に収められるほど、心恩の想いは精錬されていない。仕方なく、心のひとかけらをそれぞれの箱に入れて、包みを選んで、帯をかけて……そうやって噛みしめているうちに、もうとっくにその話題は終わっている。そんなことの繰り返しだった。
だから、活字を求めた。
言葉を知れば、いつか適切な箱を得られるかもしれない。この無限に広がり、色を変え、絶えず形を変えてうつろい続ける心を、最初から"正解"の箱に収めて、彼女に渡せるかもしれない。彼女が心恩に届けてくれる、美しい心に見合うものを渡したい。梦蝶のそれより純粋で透き通ったものじゃないけれどそれでも、君への気持ちは本物なのだと、ちゃんと届けたかったから。
……勿論、少しは、物知りな男の子のほうがカッコよく見えるんじゃないかとか、そういうダサい気持ちもあったかもしれない。少しだけ。でも本が好きなのは本当だし、活字は自分の好きな調子で読めるから、何事も熟考してしまう心恩に適していた。
蝉の亡骸が落ちている。地面が赤く汚れ、不愉快な呻き声と悲鳴が入り混じる。滝のように流れる汗が気持ち悪い。何度も練習した動きは、狂いなく心恩の体に馴染んでいた。引き寄せて、滑らせて、手繰り寄せ、捻る。それだけで全部終わるのだから、あまりに簡単で苦しかった。
一瞬で終わる。糸を拭いても赤が落ちない。梦蝶は一言も言葉を発しない。恐ろしくて、振り返れなかった。洗いざらい喋ってしまいたくなって、でも出来なかった。梦蝶は喜ばないだろう。君を守るために人殺しの腕を磨いただなんて言ったらきっと、優しい彼女は泣いてしまう。絶対に無理だった。彼女は賢いから、いつかすべてを理解してしまうかもしれないけど。僕は、言えない。
言えない、と思って、そもそも一度だって口にした覚えがないのを思い出す。「好き」「大切」「可愛い」「しあわせ」。一言だって伝えたことがない。伝えられた試しがない。いつか、いつか、と先延ばしにして結局言えなかった。いや、違う。正しくは言わなかったんだな。言わなかった。怖くて。言わなくてもわかってくれるだろうと、驕っていた。そう、驕りだったのだ。すべて。
もう言えなくなってしまった、と思った。
彼女に人殺しの隣は似合わない。
玉座の誓いの後、心恩は内密に梦蝶の父親と面会し、いつかこの婚約を破棄する旨を伝えた。
契約の妖による制約は絶対だ。書類に不備があればすぐに見破られるし、偽物の書類を提出すれば捕まってしまう可能性がある。そう言った抜け穴を防ぐための術式であるから、彼らを騙すのは極めて難しい。故に、本当は王を騙し、実際には婚約関係を結ばずにいたいところだが、それは不可能ということになる。
そのため、ふたつ条件を設けた。この婚約が自動的に無かったことになる例外を書類状に記すことにしたのである。
ひとつ。この婚姻を結ぶ理由が消滅した場合。
ふたつ。婚約者の行方が分からなくなった場合。
このどちらかの条件が満たされた場合、この契約自体が"無かった"ことになるように制約を作る。契約の妖の術式は"守らせる"ことに特化している。破らせないように作り込まれた魔法なのだ。故に、破棄される条件を満たした場合は、必ず契約自体が無くなるようになる。
制約の妖が注目するのは「契約の正当性」「平等性」「守ることができる約束かどうか」の三点だ。
婚約を結ぶのは王の秘密を守るためだ。心恩が左手之剣でなくなれば契約を続行する意味はない。
また、婚約者の行方が分からなくなった場合、「婚姻」という手法に意味がなくなる。心恩と限定するのではなく、梦蝶という意味にも捉えられる「婚約者」という言葉を使うことで、平等性を主張できる。そしてこのふたつの条件はどれも起り得る未来だ。
結果的に心恩と梦蝶の父親が作った書類は通った。
時が来れば、必ず白銀と対峙しなくてはならない。どれだけ技術を磨いたところで、無傷という訳にはいかないだろうし、勝てたとして、王命に背き銀族を滅ぼして"お咎めなし"とはいかないだろう。最悪自死を視野に入れる必要がある。そう思いながら、結婚適齢期とされる17歳までに決着をつけられるようにと思っていた時だった。右手之智が任務で命を落とし、別の子が就任すると王に聞かされたのは。本来は知らせず、互いに顔を晒さずに任務にあたるのだが特別に見せてやろう、と玉座が見下ろせる一室で待機するように命令を受けた。向こうは知らないのに此方だけ知っているというのもどうなのだろうとは思ったが、王命に逆らう訳にもいかない。御意と頭を下げ、気配を消して隠しの術式が施された部屋で様子を窺う。
現れたのは梦蝶だった。
愕然として玉座を見下ろす心恩に少しも気づかず、王へ心恩を左手之剣から外すように願う。涙を流し、必死に叫んで、懇願する幼馴染は必死だった。あの子は人を殺すような子じゃないのだ――と、心恩が知る中で最も気高く美しい女の子が泣いている。胸が苦しかった。自分は何も出来ていないのに。何も説明できず、ただ梦蝶を縛り付けているだけなのに。傷つけているだけなのに、そんなふうに清らかに想ってもらう価値など無いのに、と思った。
だって、心恩は。此処まで来て尚揺れていたのだから。
人を殺した自分では梦蝶に相応しくないこと。守りたい、守らなくてはと思って進んできたくせに、心のどこかで、梦蝶に嫌われるくらいならば、ふたりで殺されてしまったほうが良かったのかもしれないと思う自分が居るのに気づいていた。この先どれだけ頑張っても自分にあるのは破滅だけだ。梦蝶とは添い遂げられず、母は狂い、父は既に家に関心がない。懇意にしていた蘭家とも、梦蝶と関係が切れればそれで終いだ。自分には何も残らない。何の意味があるのだろう? 梦蝶には幸せになってほしい。それは嘘じゃない。だけど。だけど僕は、ただ死ぬために戦う人形になるのだ。それでよかったの? それが、望んでいたこと?
最後、死ぬ間際に、僕は誰のことも呪わずに死ねるだろうか、と思ったら怖くなった。
これから訪れるだろうはるかな幸せと喜びの中へ、ひとりで進む彼女の背中を、呪わずに押せるだろうか。僕以外の誰かを愛する彼女を笑って、送り出せるのだろうか。
「好き」「大切」「可愛い」「しあわせ」。「嫌い」「壊したい」「醜い」「呪ってやる」。
だって祝いと呪いは、あまりに紙一重だった。
今すぐ死んでしまったほうが楽なんじゃないか。もう何もかもから逃げ出して、すべての厄災の根源である僕が消えればそれでいいんじゃないかと思った。
そこまで思ったのに。
「いつか必ず、お前を殺す」
梦蝶から生まれた禍々しい魔力が辺りを包み、一瞬で王以外の側近を握りつぶしてしまった。
骨ひとつ、細胞の一つすら残さずにすべてが闇に消え、金が笑う。
心恩は思っても見なかった。王を殺すなど。自分が死んで、左手之剣で無くなれば梦蝶が婚約を結んでいる意味はなくなるから、それでいいと思っていた。けれども梦蝶は、心恩を傷つけるものすべてを退けると言ってみせた。右手之智として、彼が生み出す屍の山を自分が肩代わりすると。そしてその原因を作った王さえも排除してみせるのだと啖呵を切ってみせた。
敵わない、と思った。
心恩は躊躇った。後悔した。でも梦蝶はしない。
きっと悲しむべきなんだろう。自分のために殺人を犯し、暗殺者の道を歩む選択をした彼女を止めるべきだった。それなのに心恩は、出来なかった。喜んでしまった。そこまで自分を愛してくれる人間がいることを。自分と同じところまで歩み寄り、それでも尚俯かずに進む彼女の強さを心の底から愛おしく想い、救われたと、そう思ってしまった。この先ずっと彼女を呪わずに居られるほどの、眩しいひかりを与えられた喜びに打ちのめされ、立ち止まってしまった。
今までにたくさん愚行を重ねた。罪に塗れ、人を傷つけ、迷惑を掛け続けた。その中でも最も最悪な過ちだった。
愚かなことに、心恩は――その姿を目の当たりにするまで気づきもしなかった。
梦蝶が、神さまでもなんでもなく、ただのひとりの女の子だということに。
王が崩御する少し前、風邪を引いた梦蝶の見舞いに訪れた時のことだった。薬を買いに行ってくるから、少しの間だけ梦蝶を見ていて欲しいと頼まれて、とりあえず扉を全開にしたまま、彼女の傍に座り、額に置いた布を氷水にさらして絞る。また、のせる、という作業を繰り返す。此処最近は異様に仕事が多かったから無理が祟ったのだろう。心恩がもう少し優秀だったら――と反省をしている彼の手を、不意に梦蝶が握った。
「……梦蝶?」
「心恩、大丈夫……私が、絶対、守るからね……」
彼女の声はか細く、今にも消えてなくなりそうで、心恩は言葉が出なくなる。必ず守る。助ける。まるで自分に言い聞かせるように、何度も繰り返して、目を瞑る。大して変わらなかったはずの掌は、既に心恩のほうがずっと大きく、かさついていた。
恥ずかしい、と思った。
自分はこんなにも小さい手に、いつまでも守られて。彼女ばかりに強さを求めて、押し付けて。悦に浸って、まだ必要とされているんだと安心して。なんて恥ずかしいんだろうと、思った。結局ずっと守られている。彼女に甘えて、いつまでも。
梦蝶が強いんじゃない。心恩が弱いのだ。
「ごめんね、梦蝶」
やっと口にした言葉が謝罪だなんて随分だと思う。でも、もう彼女を自由にしなくてはならなかった。
彼女が王を殺す前に、と乗り込んだ。
そこに居たのは――帝だった。
「もう王はいない。君も自由になると良い」
「……どういうことです」
「それは言えないな。その代わり、銀爾に会う方法を与えよう」
そう言って笑った美しき女に、青い真珠を渡された。
翌日、王と帝の訃報が祀部省から通達され、左手之剣の任も解かれた。かといって、白銀との決着がついたわけではない。
梦蝶に婚約破棄を告げ、その後すぐ、渡された真珠を飲み干す。
瞬きをした瞬間、既にその場所は王都ではなく隠り世へと繋がっていた。
何もない空間でただ、酒を飲み続ける大狼と出会うのは、間もなくのことだった。
◇ ◆ ◇ ◆
「なんかめんどくさいこと考えてるな、おまえ」
朝暉に声を掛けられ、反射的に笑顔を浮かべる。朝暉は心恩の下手くそな作り笑いを見ると、深くため息をつく。
「心恩もお姫さんも、もう少し話し合うべきだと思うけど」
「話すことなんてないよ」
「心恩がそういう態度だから、お姫さんも何も話せないんじゃねぇの」
「僕が聞いたところで何かできるとは思えないし」
だって僕は、彼女に何かを与えられる人間ではないのだから。心恩が沈黙すると、朝暉が「あのなぁ……」と頭を掻く。そのまま言葉を続けようとした朝暉を遮ったのは、驚くことに興味なさげな態度を貫いていた銀爾だった。乾いた笑い声をあげ、バカにしたような視線を心恩に向ける。あまりにも不躾な態度に、さすがの心恩も険を帯びる。
「なんですか?」
「いや? 自分が"求められている"と思える人間はイイねェってな」
「どういう意味です」
「何も返せないって思うってことは、本当は自分が相手のために何かできると思いあがってるってことだろ?」
イイ身分だな、お坊ちゃんと揶揄すると、銀爾がまた大笑いする。心恩は言葉に詰まり、視線を逸らした。
「何かできるとは思ってないくせに、"してあげた"って大騒ぎしてフラれてるヤツがいうと、重みが違うな」
「求められてないから尽くすんだろ。バカか? オマエ、モテないだろ」
「心恩、こいつのことやっぱ殺していいぞ」
朝暉が美しい笑顔を浮かべ、銀爾を蹴り飛ばす。「ッてェな!」と吠える男を無視して、白い真珠を取り出すと、心恩に渡す。
「これ、隠り世から出る術式。後からこの狼連れておれも戻るから、先飲んでていいぞ。おんなじ時間に戻れるよう設定してるから」
「……何か悪だくみでもするつもり?」
「まあね。友達でも話しづらいことってあるじゃん? 恋バナとか」
な、と同意を求められて、やんわりと無視をする。これ以上ははぐらかされるだけだし、此処に居ても意味はない。内臓の損傷がひどすぎて、あと数刻で動けなくなるのを考えると、また戦うことになるにせよ、一度撤退をするべきだろう。仕方ない。
真珠を飲み込み、目を瞑る。柔らかいひかりに包まれて、身体がほんのりあたたかくなる。
――何も返せないって思うってことは、本当は自分が相手のために何かできると思いあがってるってことだろ?
……悔しいくらいに、その通りだった。
◇ ◆ ◇ ◆
朝暉の言う通り、バラバラに出発したはずだが、戻るときは同時だった。
柔らかいひかりに包まれ、朝暉と心恩、そして狼姿の銀爾がほこらの前に現れる。
辺りには、戦闘不能状態の狼が大量に倒れており、銀爾が一瞬息を呑むのが分かる。気絶した狼を積み重ねた山の上に座っていた小と濡が、朝暉を見つけるなり一瞬で間合いを詰め――銀爾に斬りかかった。すんでのところで刃を交わし、屈強な前足が小濡の身体を弾く。
「――誰ですか、貴方」
「朝暉様を傷つけた。朝暉様を傷つけた。朝暉様を」
「小、濡」
朝暉が両手を広げ、小と濡に向ける。ふたりは即座に"ひとり"になり、彼の胸へ飛び込んで啜り泣きを始めた。
「朝暉サマ、このお怪我はこの犬めのせいで? 小濡がお傍にいなかったから、申し訳ございません。申し訳ございません」
ぼろぼろと涙を流しながら謝罪を繰り返す小濡の頭を、朝暉が優しく撫で続ける。
「小濡。おれが居ない間、此処で待っててくれてありがとな」
「朝暉サマ。不甲斐ない小濡をお許しくださるのですか」
「そもそも怒ってねぇよ。おれが嘘をつくように見える?」
「いいえ」
顔をあげ、"ひとり"がまた"ふたり"へと変わる。
「おかえりなさいませ、朝暉さま」
「お待ちしておりました、朝暉様」
「うん、ただいま」
微笑みながら抱きしめ合う三人を見て、銀爾が距離を取る。君の異様なまでの執着も似たようなものだと思うけど、と心恩は思ったが、口にしないでおいた。
「……心恩」
狼の屍――正確には気絶しているだけだが――の中に、梦蝶と麟庸が立っていた。彼女が右手之智であるのは知っていたが、こうして戦場で会うのは初めてのことだ。心恩が腹を押さえながら近づこうとすると、彼女のほうから駆け寄ってくる。
「酷い怪我……」
すぐ手を翳し、藤色の蝶を生み出すと、心恩の傷口を癒やしてくれる。大丈夫、と断ろうとしたけれど、聞いてもらえそうになかった。
「いったい誰に――」
「オレだ」
隣に立つ狼が即答する。瞬時に梦蝶の冷たい視線が銀爾を突き刺した。反対側の手で別の術式を編もうとして、辞める。
その代わり狼の背後から、小の剣が首を狙っていた。
「朝暉さまの身体を傷つけたのも、貴方ですね」
「殺します」
「待った。そいつにはやってもらわなきゃいけないことがある。おれの顔に免じて、手を引いてくれ」
小と濡がすぐに手を下ろし、戦闘態勢を解く。けれど、梦蝶はいつでも若草色の蝶を飛ばす準備が出来ていた。
「こいつが心恩と私を暗殺者にしたのよ」
「分かってる。分かったうえで、手を引いてくれって言ってる」
「それなりのものを見せてくれるんでしょうね?」
手を引けというからには、それに見合った何かを見せてもらわなければ困る。梦蝶の主張に頷き、朝暉が大狼を見下ろした。気絶していた狼たちの大半は既に意識を取り戻しており、戦闘の怪我で動けずにいるものの、自分たちの長が居るのには気づいているようだった。
「聞け。今後一切この者たちに関わるのを禁ずる」
「長! そんな――」
「この子どものせいで群れの半数が死んだんですよ!」
「うるさい。それから、山賊まがいの行いは辞めろ。文句があるならオレに掛かって来い」
ざわついていた狼たちが一斉に黙り込む。やはり銀爾の強さはひとつ頭を抜けているのだろう。不満げではあるが、反旗を翻すものはいなそうだ。最初から銀爾に戦いを挑むのではなく、話をした方が良かったのだろうか、と思う。いや、朝暉が居なければそもそも交渉材料がない。こうするしかなかった、と首を横に振る。ひとりでなんとかしようとしたのがそもそも間違っていたのかもしれない。こなたの言う通り、梦蝶と話をして――。
うっすらとした敵意を感じ、顔を上げる。血や体液に汚れた地面に突っ伏している狼が、まっすぐ梦蝶を睨んでいるのに気が付いた。嫌な予感がする。梦蝶は心恩の治療に集中しながら、銀爾を警戒している。反射的に、梦蝶を庇うように前に出るのと、銀爾が飛び掛かって来た狼の首を落とすのは同時だった。伸ばされた爪が深く心臓のほど近くを貫通し、梦蝶に覆いかぶさるように倒れ込む。
「心恩!」
梦蝶の服が汚れる、と身体を離そうとしたが、動かない。視界が滲み、何も見えなくなる。上手く急所を外したつもりだったが、疲労と相まって、もう指一本動かすことができなくなっていた。僕は大丈夫だから、そんなに泣かないで。そう言いたいのに、また言葉が出ない。言わないと。言わないと、言わないと。今まで本当にごめん。君に甘えてばかりで、何もしなくて。救われてばかりで。僕が君に出来ることなんて何もなかった。
ああ違うな。そうじゃなくて。
結局、いろいろたくさん考えて、僕なりに本を読んだりしたけど、ごめん。これしか浮かばない。
僕に出来ることなんて何もない。分かってる。だけど、何かできたらって、思ってた。正直に言えば、今も思ってるよ。
君のことが――世界で一番、大好きだから。
2021/06/14 執筆
title by alkalism




