第六話 欠けた季節が蕾むため
「――これで良し」
梦蝶はほっと溜息を吐き、小濡の腕にかざしていた手を静かに引く。彼女の掌から放たれていた紅梅色のひかりが消え、藤の蝶が麟庸の指先にとまって見えなくなった。小濡は再び"小と濡"――"ふたり"の姿に戻ると、ゆっくりと立ち上がる。穏やかな笑みを浮かべた小が恭しく礼をし、濡は不機嫌そうに視線を逸らした。
「ありがとうございます、姫。この程度の傷、私だけでもどうとでもなりましたが、朝暉さまが戻られたときに、少しでも差し支えが合ったら大変ですし、手伝っていただけて良かったです」
「一言多いってわからないのかな? とても水妖の血を引いているとは思えない愚鈍さだ」
「いいのよ、麟庸。私がしたくてしたことだから」
「……蝶々がそういうのなら」
梦蝶の肩にそっと触れ、麟庸が微笑む。一瞬冷ややかな視線を小と濡に向けたものの、ふたりは骨の繋がった手の動きを確認していて少しも彼を見ていなかった。呆れた、というように麟庸は肩を竦め、祠の中を覗き込む。
「それにしても朝の君は何処へいったやら」
「朝暉様の行くべきところへ行ったに決まっているじゃないですか」
「……まあ、あの人が考えなしに何かするとは思えないし、目的があってのことだろうとは思うけど」
であれば一言くらい声をかけてくれたら――そう思って、はたと気づく。
何故小濡にも梦蝶にも何も言わずに向かったのか。単純に人数制限のある術式だったのか、それとも……もし梦蝶に内容を話せば、邪魔されると思ったから?
なんとなく嫌な予感がする。朝暉が"殺すのを待ってほしい"といったのと何か関係がある? 私は何か重要なことを見落として――。
その時だった。
ざわざわと洞窟に話し声が響く。だんだんと近づいてくる声の主は、ひとり、ふたり、三人、四人――十人ほどだろうか。いや、もっとかもしれない。小と濡も気づいたのか、けらけらとふたりで顔を見合わせて笑っている。此方の存在を隠すつもりは毛頭ないらしい。そもそも、人狼族は人間よりも何百倍も嗅覚と聴覚に優れているから、梦蝶たちの存在にはとっくの昔に気づいているだろうし、今更隠れても仕方がないのは梦蝶も理解している。だが此処まで好戦的だと、恐れ知らずというか、豪胆というか……。朝暉はもう少し彼女らの教育を見直したほうが良いんじゃないだろうか。梦蝶はそう思いながら、麟庸と視線を交わし、襲撃に備える。
「――みーつけた」
此方にわざとらしく松明を掲げながら、白銀の一味らしき男が笑う。灯りなど持たなくとも、その銀の瞳を使えば、この闇夜を昼よりも鮮やかに見通せるだろうに。梦蝶は嫌味ったらしい男たちの態度に腕を組んで応戦する。背後に控える人狼の身なりは、幼少期に梦蝶が見た山賊の格好と酷似していた。やはり、と睨みつけたところで、小がけたけたと笑う。
「それは此方の台詞ですよ犬畜生が。探しました。待ちました。退屈してしまいました。本当に」
「……濡、朝暉様を待っています」
「ハア?」
なにいってんだ、こいつ、と男たちが顔を見合わせて笑う。その質問には梦蝶も麟庸も、残念だが上手く答えられない。要は機嫌が悪いという端的な主張に過ぎないと思うが、真相は小濡にしか分からない。水妖と鬼の合いの子である幼き妖は、独自の倫理と信仰の上で朝暉に従い、その身を捧げている。彼らを容易く言葉の檻に閉じ込めて称するのは、命が幾つあっても足りないというのが梦蝶の判断だ。出来れば首と胴体が切り離されず、手足もきちんとくっついたまま、血を流さずに彼らと会話をしていたいので、余計な発言はしない。麟庸は梦蝶とはまた違った理由だろうが、同じように沈黙し、ただ「なんだこいつ気持ち悪」と言いたげな顔で、よく似たふたりを眺めているだけだった。
橙の熱に照らされた漆黒よりも暗い黒の髪が靡く。
湖畔を思わせる青の瞳は既に髪の毛と同じ色で塗りつぶされ、ぎらぎらと光っていた。興奮と苛立ち、そして僅かな興味を宿した瞳が、悦に歪む。
「遊んでくださいよ。小と」
「遊んであげてもいい、濡が」
だって朝暉サマを待っているんですもの、と"小濡"が跳びあがるのと、男たちが鈍い銀の毛並みの獣に変貌するのはほぼ同時だった。"ひとり"と"ふたり"を繰り返しながら、狼を翻弄する小濡の身体を目で追う。
「殺さないでね。頼まれてるの」
踊るように武器を使い、唄うように術式を編むふたりに梦蝶が声を掛ければ、
「分かっています、姫様」
「……知ってる。うるさい」
と全く同じ、けれども性質の違う答えが返ってくる。麟庸がまた何か言いたげに口を開いて、梦蝶の視線に気づき、深くため息をついた。朝暉が居ない以上、小濡を制御するのは不可能だ。だが、彼らはこなたの命には絶対背かない。それを信じ、此方は自分たちのやるべきことをするしかないだろう。梦蝶は深呼吸する。小と濡が手練れだと判断した数匹の狼が、梦蝶たちに近づいて来ていた。麗しい男と小娘のふたりなら、濁流のような妖よりも容易く御せると思ったのだろう。それはそれは――。
「愚かね」
梦蝶は片手でぐるりと光の輪を描くと、肥皂泡をつくるように、丸の中心に優しく息を吹き込んでいく。吐息によって生まれた若草色の蝶が、小濡の戦線から漏れた狼たちの身体へまとわりつき、体内へ入っていく。鱗粉が表皮を溶かし、伸ばされた針金のような触覚が血を吸い上げて、毒を含んだ羽が、傷から蜜の如く侵入し、感覚が"研ぎ澄まされるよう"促す。
「ゥ、ァ嗚呼、ヴォ、エ、ガ?」
何が起こったか分からない、と言うように、狼たちがのたうち回り、頭を掻きむしる。地面を転がりながら耳を掻くと、鋭い爪で痛んだ付け根から鮮血が滴り落ちて、地面に無様な花を咲かせる。
音はより大きく。痛みはより強く。悲しみはより悲しみを纏い、絶望は地獄の神髄に達する。そういう術式だ。すべての感覚という感覚が研ぎ澄まされ、己の感じる己自身によって、狼らは攻撃されていた。痛い、苦しい、臭い、哀しい、怖い――痛い。その繰り返しが、脳を破壊し、また感覚を得る。
「大丈夫、殺しはしないわ」
梦蝶はのたうち回る狼の体に手を翳し、藤色の蝶で今度は治療を施す。血が止まると再び、大地を押して生まれたばかりの――植物の芽を思わせる、やわらかな色をした蝶が生まれ、耳の穴から入っていく。壊れる寸前で、すべてを元に戻す。蝶の蜜で汚染された心を"壊れている"と認識できるところまで、正気に戻す。痛さを知覚できる所まで"治す"。
それがいかに気味が悪い行為なのか梦蝶はよく知っていた。精神汚染の術式は、数多ある魔法の中でも極めて危険で、高難易度な術だ。癒しと破壊のさじ加減で、簡単に屠れてしまう。恐ろしく、そして生き物の尊厳を奪う、許されざる禁忌。けれでも梦蝶はこの術式を覚える必要があった。彼女自身の一番の願いを叶えるため、必要な力だった。
……だから、何度も練習した。自分の身を持って、この苦しみを味わってきた。
麟庸には何度も止められたし、"配分を間違えて"死にかけたときもあった。己で編んだ術式に堕ちるなど術師にあるまじき失態だ。でも何十、何百と繰り返したうえで会得した術式に、梦蝶は何度も救われた。
この力のおかげで――右手之智に就任出来たのだから。
――王には右手之智と左手之剣という側近が居る。
右手之智には、王の右手となって、彼の代わりに術を行使する賢人としての役割が。
左手之剣には、王の左手となって、彼の代わりに武力を為し王に仇なす者を排除する使命がある。
王を守る手であるといわれる一方で、替えが効く義手でもある側近は、彼にとって都合のいい駒だ。つまりは、王の、王のための暗殺者。それが右手之智と左手之剣なのである。
先代の左手之剣が死に、心恩が任命されたとき。梦蝶は王に直談判をしにいった。心恩に人殺しをさせるのをやめてほしいと。虫一匹殺せないような魂の少年なのだと、場違いなのを理解しながらも懇願しに行った。それしかできなかった。子どもだったから。泣いて縋っても意味がないと分かっていても尚、阻止したかったのだ。
退屈そうに肘をつき、玉座から梦蝶を見下ろす王はただ笑った。
「それなら小僧の代わりにそなたが殺してみせよ、娘」
お前が正しくその感情が愛だというのなら。
心恩を心から想っているというのであれば。
そなたの持つ力のすべてをもってして守ってみせよ。あの男がこれから屠り、擂り潰し、抹消するすべてを、お前が代わりにやってみせろと笑った。愛しているのなら、出来るだろうと。
その瞬間、涙が止まった。震えが収まり、怒りも消える。金の瞳に映る梦蝶の瞳は昏く、無表情だった。静かに立ち上がり、王を見据える梦蝶の異様な様子を見て取って、王の側近らが近づこうとしたが――出来なかった。身体が少しも動かなかったのだ。
禍々しい魔力に包まれた少女を見て、王が更に笑う。邪気のない素直な喜びの声が、大理石の床に落ちる。跳ねる。梦蝶は思った。王の態度には腹が立つ。子ども相手に対する台詞ではない言葉の無神経さにも、腸が煮えくり返る。けれど、と。
けれど、この王は良く知っている。人を殺すのに向いていない心恩と違って、梦蝶が"殺せる"側の人間であることを。
「いつか必ず、お前を殺す」
何を言っているんだ、と従者たちが口々に騒ぎ出す。今すぐこの娘を連行しろ、つまみ出せ、刑部省に連れていけ――うるさい、うるさいうるさいうるさい。
「……俺は一向に構わんが」
「ですが、王! 我々は聞いてしまいました。何か起きたら――」
「……だそうだ、どうする、娘」
王が笑う。
太陽が満ちる。
梦蝶は瞳を閉じる。
……次に目を開いた時、玉座には変わらず此方を見て笑っている王が居る。
――否、王だけしかいない。
「許そう、娘。お前を俺の"右手之智"に任命する」
「間違えないで頂戴。許すのは私よ」
「ご随意に」
梦蝶は歩く。雲王の玉座がある雲の間を抜け、天柱省の廊下を抜け、歩く。息が詰まる。足が震える。書庫の扉を押して、僅かな隙間から室内に入る。窓際で一所懸命に書物を読み漁る、大好きな幼馴染の姿が見える。彼の瞳が梦蝶を映し、心配そうに名を呼んだ。
泣き崩れたかった。
私は。
「……梦蝶?」
あなたを愛しているというその一言だけで、簡単に何もかも捨ててしまえる傲慢を、胸の内に飼っている化け物だ。
――生き物の生殺与奪を握り、癒すも壊すも思うまま操れるのが"智"とはとても思えなかった。
けれど、自分は人を殺すのに向いている。
容易くできるくらいには、人として壊れているのだと、自覚している。
みっともなく痙攣している狼を見ても尚、梦蝶は怒りに満ちていた。きっと直接「あの日」に関わったわけではないだろうこの三下さえも、彼女にとっては憎き山賊の仲間だった。
ぱちん、と指を鳴らす。
――絶叫。
ぶるぶると下半身を奮わせて失禁する獣を見下ろしながら、甘露茶の瞳が悲し気に細められた。
「私のこと、覚えてる?」
「ヴォ、ォ、ァ、グァ? ボェ? アバグゥ、……ビボォ……ァアアア゛!」
「どうして私たちを襲ったの? どうして私たちだったの? あなたたちのせいで私も心恩も、なにもかも変わっちゃったの、責任とれるのかしら。心恩が……削って擦り減らして疲弊して失ったすべてを、返してくれる?」
狼が涎を垂らし、うつろな瞳で梦蝶を見る。眼球と瞼の隙間から、黄色く透き通った液体が流れ出て地面を濡らす。彼が獣臭い長い舌に、震える刃を突き立てようとするのを、梦蝶の手が止めた。自死など許すわけがない。突き立てられた茶色に汚れた歯が、彼女の腕を傷つけるのを見て、麟庸が「蝶々」と咎める。彼の指先から生まれた紅梅の蝶が、梦蝶の傷口を吸うようにして癒すのを無視して「返しなさいよ」と吐き捨てる。
「返せよ! 心恩の十年を……! やりたくもない暗殺の仕事をやらされて、傷だらけになって――! あんなに傷ついてるのに、心恩のお母様はずっと……ッ、あんたたちのせいよ! あんたたちのせいで」
「蝶々」
「何度も殺してやろうと思ったわ。私一人で出来るのならそうした。でも、もし……しくじったら? 私が死んだら? 心恩はもっと傷つく。そもそも――私が居なかったら心恩は暗殺者になんかならずにすんだのに! 私が――」
私が居なければ、と思った。
そもそも避暑地に行くのは最初、梦蝶の家族だけだった。梦蝶の6歳の誕生日にと父と母が計画してくれた小旅行だった。それなのに、梦蝶が言ったのだ。心恩も一緒じゃないと嫌だと。最近忙しくて会えなかったのが寂しくて。遊びに誘っても、お茶会に招待しても、いつも上の空で何か考え込んでいる彼が、遠くに行ってしまうようで哀しかったから。誕生日は一緒に過ごしたいだなんてわがままを言った。蘭家は星家の傘下に過ぎない。普通であれば、梦蝶の我儘は当たり前のように通らないものだったが、梦蝶の母と心恩の母親は幼馴染だった。だから、叶ってしまった。
それがすべての間違いだった。
あの時自分ごと、蘭家が山賊の手に落ち殺されてしまえばとさえ思った。母のことは愛している。父のことも。妹も大好きだ。だけど、心恩には敵わない。
この人を、望んでもない暗殺者にするくらいなら、一家ごと消えてしまえばよかったのだ。白銀だろうが銀爾だろうが誰だって良い。心恩を傷つける人間はすべて許さない。私が私の手で殺してやる。それは"梦蝶自身であっても"。
つま先から、腹へ至り、胸にのぼって心臓を抉るこの怒りと悲しみが、尽きてすべてが許されるまで、梦蝶は立ち止まることも振り返るのも許されない。心恩の仕事の分、自分が代わりに殺せばいい。そう思って、そう誓って進んで、でも足りなかった。心恩よりずっと向いているはずの梦蝶よりも、この仕事に適していない彼の方が仕事が早く、上手かった。それが皮肉だった。
だからもう、王を殺してしまおうと思ったのに。
朝暉と共に訪れた彼の玉座には誰もおらず、翌日王と帝の死が祀部省から国民へ発表された。
それは、王を選ぶ新しい戦いの始まりだった。
梦蝶の憎しみの行き先が、突如絶たれた。
ただ彼を殺すためだけに耐え、ただ心恩を自由にするために――否、梦蝶自身の贖罪のためにここまで歩いてきたはずだった。一瞬、間違えた。何もかも障害が消えたと錯覚してしまった。私たちに人殺しを命じ続けた男が居なくなったから、自由を得たのだと思ってしまった。もしかしたら、と。
もしかしたら、あの夏の日の前に戻れるかもしれない。
ただ純粋に互いを好きでいたあの頃に戻れるかもしれないと、夢を見てしまった。それが間違いだった。
心恩から婚約破棄を告げられて目が覚めた。私たちはもうあの時からずっと、道を間違えて来たのだと。そして時は絶対に戻らないのだと、当たり前のことを知ってしまった。彼を暗殺者に追いやった女を愛せるわけがない。彼は優しいから、情はあるだろう。でも、愛はない。当然だと思う。
それでも梦蝶は、婚約を破棄してあげられないのだ。
――右手之智に任命される前。
梦蝶は、すぐさま上位妖の集まる天在省へ向かった。宴の最中であるのを分かっていて、不躾な願いを口にした。どうしても、力が必要だった。心恩を守り、愛し、そして――彼を自由にする"力"が。
だから麟庸でなくてはならなかった。
不死の魂を持つ幽冥ではなく。底知れぬ知力を持つ吹喜でもなく。すべてを破壊する能力を持つ妖や、自然の力を流用して攻撃できる柔軟な術式を持つ怪異でもなくて、麟庸でなくてはならなかった。夢に誘い、相手を魅了し、自分の意のままに操り――"記憶を操作できる"、それでいて脳の負担を軽くする、唯一無二の治癒の術式を持つ麒麟の力が必要だった。
だから麟庸を選んだ。
麟庸でなくては、駄目だった。
辛く苦しく、途方もない殺戮の日々も。それを招いた愚かな婚約者のことも、嫌な記憶と共にすべて忘れ去ってほしい。でもそのためには結婚をしなくては駄目だった。
――婚約を破棄されては、持参金を渡せない。
星家の傘下に蘭家が入れたのは、蘭家が裕福だったからだ。事業に成功し、莫大な利益をあげ、当時はやり病に苦しみ財政が悪化していた四雲国へ寄付を行った。そのおかげで庶民に薬が行き渡り、事態が収束した。ただそのせいで、一商家にしては力を持ちすぎたのを危惧した王が、あえて祀事を司る星家の下へつくように命じた。要は監視しているぞという意味である。星家の当主――心恩の父はやり手の政治家だった。すぐに心恩と梦蝶の婚約を提案した。
星家の嫡男と結ばれれば、おのずと貴族の仲間入りをすることになる。梦蝶の父親は穏やかだが野心家だった。すべてを理解した上で、心恩と梦蝶の婚約を歓迎した。ふたりが六歳の誕生日を迎えたら、正式に婚約者として書類を作ろうという手はずになっていたらしい。心恩と梦蝶が玉座で誓うより以前から、そんな口約束が双方の家でされていた。先を見通す能力に長けた父でも、数年後、山賊に襲われたふたりがどんな運命をたどるかまでは分からなかったのだろう。ましてやその後、心恩の家族――星家が、当時の勢いを急速に失くし、今や没落寸前まで追い詰められるなど思っても見なかったと思う。梦蝶にだって、分からなかった。
星家は今や名ばかりの貴族になり下がった。あの夏の日以降、心恩の母は心を病んでしまい、まともに外に出ることすらままならなくなった。父親は彼女にも心恩にも無関心になり、多くの事業に失敗し始める。切れ者として有名だった星家の当主が何故、と囁かれたが、なんてことはない。星家の頭脳は実は心恩の母の方だったという落ちだった。頭脳を亡くした心恩の父は迷走し続け、祀部省に籠り切りで屋敷にほとんど帰らなくなった。聞けば家への送金もないという。母親の医療費を理由に、梦蝶の家へ金の無心に来るようになった心恩の父が、一体何に金を使っているのか――探ってみたら今度は山のような不祥事が露呈した。蘭家の名に響きかねない悪行の数々に、梦蝶の父は密告を余儀なくされた。このままでは共倒れだからだ。
刑部省へ告発する前に、心恩を蘭家に呼んで話をした。心恩はただただ謝っていた。彼は何も知らされていなかったのに。
父親が逮捕され、星家の評判は更に悪くなった。当然父から婚約破棄の話題が上がったが、梦蝶は退けた。彼は梦蝶を助けた命の恩人である。その一点だけで、彼を救う理由はあるだろうとつっぱねた。父は非常に頭が良い野心家だが、子煩悩でもあった。故に、心恩との婚姻を白紙にするのであれば、家を出ていくと梦蝶が言うと、渋々折れてくれた。
もはや風前の灯である星家を建て直すには、蘭家のお金が必要だ。梦蝶と結婚することで得られる膨大なお金が。愛などなくても構わない。本当ならば蘭家との間に子を作ったほうがいいのかもしれないが、心恩にその気がなければ、彼が愛した人を家に招き婚姻関係を結んで、その間に出来た子を次期当主とすればいいだろう。四雲国は配偶者の同意があれば重婚も認められている。持参金を使い終わったら離縁したっていいし、蘭家には定期的に顔を出さなくてはならないだろうが、もし一緒に住むのも厳しいとなれば、領地の端に別邸を建ててもらうことにはなるが、そこに住んだって構わない。
星家を滅ぼすわけにはいかない。これ以上心恩の居場所がなくなるようなことはしない。
彼が左手之剣であったのを知っているのは、王と、刑部省の吟詞という妖、私と、朝暉、そして祀部省のみ。祀部省は何も言ってこないだろうし、吟詞はそもそも私たちに興味がない。実質心恩自身から左手之剣であった記憶を消せば、何もかもうまくいくのだ。
彼と、彼の母親の記憶から、何もかもを消す。記憶と密接に絡みすぎていて、梦蝶のことも忘れざるを得ないと思う。それでも構わない。そのために今日この日まで、術式を磨いてきた。事故か何かにでもあったのだと説明して、数年、仮り初めの妻として自分を置いてくれたら、それでいい。
梦蝶は、失恋では死ねない。
梦蝶は、ただ自分の愛のために死のうと思っている。
けれどもこれが本当に愛情なのかと問われると困ってしまう。
梦蝶は、こんなやり方しか知らない。
「……蝶々」
気絶した狼を治療しながら、顔を上げる。悲し気な表情で自分を見つめている優しい妖に、微笑みかける。梦蝶の傲慢な計画の全容を知っているこの妖は、一度だって彼女を否定せず、彼女の傍らで悲しげに笑う。哀れみなのか、労わりなのか、慈しみなのか。どれでもなく、どれでも正しい気がして、参ってしまう。
「麟庸。最後まで付き合ってくれる?」
覚悟はある。決意も持ってる。勇気も、きっと。
けれども、それでも――怖いのだ。だから。
あなたが居るということを、支えにしてしまう私の弱さを許してほしい。無理やり笑顔を浮かべる梦蝶の目尻を、美しい指先が拭う。
「……あら。泣いていないわよ?」
「どうだろう。僕には見えたよ」
悲しむ権利のない私の"哀しみ"を見てくれるあなたに、救われている。確かに。
小と濡が、山のように積み重ねた銀狼の上で座り、お喋りをしている。既に起き上がっている者はおらず、あとは朝暉を待つのみ、というところで、祠の周りが淡いひかりに包まれる。
ああ、と息を吐く。そうじゃないかとは、思っていた。
ひかりのなかから現れたふたりを見て、梦蝶は、掛けるべき言葉を必死に考え続けていた。
2021/6/13 執筆
title by alkalism