閑話 陽に陰る金砂
時は数日前に戻る。
これは梦蝶が心恩に婚約破棄を言い渡されるほんの少し前の出来事だ――。
「――で、いいの? おまえはそれで」
夜遅くに訪ねて来た心恩を見、朝暉は思わず苦笑する。心恩はただいつもと同じ穏やかな表情で小濡が用意した甘露茶を飲んでくつろいでいる。きっと彼を知らぬ者が見れば、長く背負っていた荷物をやっとおろせたような、そんな解放された仕草に捉えられるかもしれない。が、片時も本を離さず、下手をすれば歩きながら読書をしているような彼が、今日は一冊も本を読むことなくぼうっとしている時点で異常だ。きっとそれに気づくのは、朝暉とあともうひとり――幼馴染みの梦蝶しかいないだろうが、生憎彼女は何も知らずに家でお菓子作りにいそしんでいるらしい。数日後に心恩との茶会があるから、それに向けての練習だろう。可哀想に。まさかその楽しみにしている逢瀬で、婚約破棄を言い渡されるとは思わずに。
どうせ傷つけるなら、茶会の前にさっさとすべてを終わらせたほうが梦蝶に優しいんじゃないかと思ったけれど、それが出来ないのだからこうしておれのところに来ているのだろうとも、朝暉は理解している。だからこそ歯がゆかった。
あのさあ。あんたら、両思いなんだからさっさとくっつけよ。クソうぜぇ。
そう怒鳴ってふたりを一晩同じ部屋に閉じ込めて、腹割って話が出来る状況を作れたらどんなに良いだろう。そんなことしたら、この蟲一匹も殺せないような顔をした男に首を飛ばされ、朝暉は一足先に天国を拝む羽目になるのだからやるせない。
あんた、なんでそんな強いんだよマジで。
◇ ◆ ◇ ◆
今でも良く覚えている。
梦蝶と心恩が六歳を迎えてすぐ――あの、盗賊事件があったあと、左手之剣になった彼と朝暉が出会ったのは同じ年の凍えるような白い雪の降る冬だった。
銀世界のなかで、ただただ馬車に揺られ、死にそうな呼吸をしている母親とあてもなく進んでいた。飢えるほどではないが、満たされるとはとても言えない量の食料と、ほんの少しの従者と共に、ただ北へ進む。王宮から抜け出してばかりだった朝暉も、此処まで遠くまで来たことはなかった。これ以上進めば戻れなくなるのではないかと思ったが、そんな話が出来るような状況ではなかったし、朝暉に決定権があるわけでもない。ただ死ぬのだと思った。ただ死ぬために遠くへ、遠くへ向かっているのだと。
あのクソったれ狸ジジイの顔を見なくて済む場所で死ねるならいいのかも、と思いかけた時だった。馬車が停まって、困惑した従者の声と交互に幼い少年の声が耳に入る。
朝暉は勢いよく扉を開けて、馬車を出た。
吐く息が白い。吸った呼吸が刺すように胸に入って、けれどもそれが何処か心地よかった。
あの子を思い出す白銀のなかで、毛先のみ春のような栗毛が目立つ。
自分よりもずっと穏やかで優しい色の瞳が歪む。その一瞬を、朝暉は逃がさなかった。後ろに倒れれば、ほんのさっきまで首があった位置に、透明な糸が光る。目が良くてよかったなあと思いながら、躊躇いなく馬乗りになる、自分よりも小柄な少年を見た。ぽたりと水が落ちて、頬を濡らす。泣いているのかと思ったけれど、なんのことはない、空から降る埃のような雪が朝暉の温度に触れて融解しているだけだった。
柔らかい指が鍵盤を弾くように動いて、いつの間にか糸が首の周りを緩く三周していた。あと数秒後、このまま何もしなければ朝暉は肉塊になって雪道を赤で汚すだろう。別にそれでもよかったけれど、されるがままは性に合わない。毒を食らわば皿まで、とも言う。
朝暉は運命を背負って生まれてしまった。
であればその宿命を全うし、思うがまま生きればいい。あの人が恐怖しているように。あの子が願っているように。あいつが、嗤っている定めの上で踊ってやる。誰の真似事でもなく、この世にいやしない神さまとやらの筋書き通りでもなく、朝暉の織り成す物語の盤上で。
「なあ」
手が止まる。ぼろぼろの爪から鮮血が少しだけ滲んで、糸が淡い桜色になっているのに気づく。こんなに寒い日なのに、彼は滝のように汗をかいていた。涼しげな顔で。
「おれと一緒に、あいつぶん殴ってやらないか」
その時初めて、彼の表情が動いた。
そんなの無理だというような、諦めの笑顔。胸が苦しくなるくらいの、疲弊がそこにあった。
朝暉は彼と同い年くらいだろうけれど、こんな子どもにこんな顔させる馬鹿が、自分より価値のある大人だとは思えなかった。周りの奴らは全員無能なのか。子どもに人殺しをさせて、平気で笑ってられるのか。だとしたらあんたら全員、死んだほうがいいんじゃないか。
「約束するよ」
たとえきれいごとだと言われようが、構わなかった。思い上がりだと言われようが、どうってことない。おれという子どもを。そして、こいつという、子どもを救うための約束をしたかった。他の誰もしないなら、おれがやる――と、朝暉は決めた。
「約束する。おれが必ずあんたを自由にする。救ってみせるから、あんたはおれを救え」
躊躇うことなく寝返りを打ち、背中を見せる。一瞬慌てたように少年が糸を緩ませたおかげで、首は斬れずにすんだ。いい腕だな、と思いながら、服を捲る。
「――何を」
「見えるだろ」
すべての元凶である"それ"が。
全部を狂わせた神さまとかいう存在からの贈り物が。
「それを、あんたに預ける」
約束の代わりに。
長い間の後に、少年は躊躇いなく"それ"を持ち去った。
血の滲んだ白のなかで朝暉は、激痛に耐えながら笑っていた。
もし神さまが今おれを見ているならばこう言いたい。
――残念でした!
◇ ◆ ◇ ◆
「……いいって、何が?」
心恩があの日に似た涼しげな表情で笑ってみせる。下手くそなのに綺麗な笑顔。朝暉はこれに弱い。こんな顔を見せられたら、意地でも最高の結末に持っていきたくなるだろうが。あんたはそれを手にするだけの努力をしてきたし、愛されるだけの優しさを持った人間なのだから。
「あっそ」
この期に及んで頼らないなら、好きにさせてもらおう。
おれの百倍何かをいいたげな小の唇に人差し指をあてて、濡に微笑んでみせる。濡は素早く心恩に近づくと、片手でお茶を飲んでいる彼を抱え上げ、部屋の外に移動させてしまう。我が従者ながら見事な動きだ、と朝暉は感心する。
「え」
「んじゃ、悪いけどおれはお姫さんの味方するわ」
「ちょっと朝暉、何考えて――」
さあて、なんでしょう。
生憎朝暉は、素直でまっすぐな梦蝶姫とも、優しくて穏やかな心恩とも違う。
いつだって恣意的に動いてきた。自分の目的のために、自分の好きなように振る舞って、今日この日まで生き延びてきたのだ。これからもそうやって進んでいくだろうし、そのためにならなんだってやる。こういう手段を選ばない所は、もしかしたらふたりに通ずるかもしれないけれど。
だから。
「指くわえて待ってろ、本の虫が」
あんたが思っているより、周りはあんたを愛してる。幸せを、心から願っている。
せいぜい待っていると良い。
心恩がたとえ許さずとも、幸福は既におまえの周りで、おまえだけのために存在しているのだから。
扉を閉めて、ふたりからひとりになった、朝暉の唯一無二の従者が笑う。
「朝暉サマ」
「なに?」
「楽しそうですね、とても」
――そういう顔をしている時の朝暉サマが、小濡は一番大すきです。
彼であり彼女でありこなたである水妖が、歌うように愛を紡いだ。
そして朝暉は今日も、その際限のない愛に容易く答えて、ありがとう、と微笑んでみせるのだ。
2021/05/05 執筆
2021/05/06 加筆修正