番外 雲居を伝う柔い雨
今は昔。
朝暉と出会ってすぐのこと。川 小濡と、梦蝶に名乗った「ひとり」は次に会った時はふたりになっていた。初めて会った時は、いろいろと困窮とした状況だったから言葉を交わす暇もなかった。故に、双子だったのね、とはじめて彼らに声をかける梦蝶に、朝暉が笑って「違うよ」と否定した。
「小濡のからだはひとつだけど、ふたり別の人間が居る。おれはこっちのお喋りなほうを小、ずっとおれの左手を握ってる内気なほうを濡って呼んでるから、お姫さんもそう呼んであげてよ」
「よろしくお願いします、姫様。姫はあの星家の一人息子と懇意にしているとか。あの方にはいつも良くしてもらっています。この間も朝暉さまと私たちで――」
と、にこやかに延々と話を続ける"おしゃべりな方"――小とは対極に、濡は朝暉の手を握ったまま此方をじっと見るばかりだった。敵意さえも感じるほどの鋭い視線に動揺していると、朝暉の左手が濡の真白の頬を包み、中心に寄せる。形の良い唇が蛸のように変形したところで、小が笑い声をあげた。
「こら、濡。挨拶だけはちゃんとするって、おれとの約束だろ?」
「……失礼しました、朝暉様。……こんにちは」
よし、偉いな、と掴んでいた左手をぱっと離し、濡の頭を撫でる。濡はうっとりとした笑みで朝暉を見つめ、甘えるように背中に隠れてしまった。
「朝暉さまは濡に優しすぎます。この間も挨拶が出来なくて叱られたのに、また同じ過ちを繰り返し……もう少し厳しくしても良いと思いますが」
「小。濡が苦手なことは皆、おまえが上手くやってくれるだろ?」
「それは――勿論そうです。私が苦手なのはすべて濡が。濡にないものは私が。それが私と濡の天秤で、調律ですので」
「だからいいんだよ。濡も偉いし、小も偉い」
太陽のような明るい笑みを浮かべて、小の頭を右手で撫でると、それまでちかちかと黒に光っていた小の瞳が穏やかな鶯色に変わる。朝暉に擦り寄るように控える小濡――否、小と濡を眺めて、その歪でありながらも、きちんと保たれた均衡に感心した。朝暉はどちらも贔屓しない。ただ対等に愛している。故にこの「ふたり」は「ふたり」であり続けるし、それでいて「ひとり」にもなれる。どちらかを殺してしまえば成り立たない人格ゆえの"小濡"なのだろう。
微笑ましく眺めていると、ふと濡と目が合った。
「……朝暉様。濡と……どちらが大切ですか」
背中にくっついていた濡が梦蝶を見て呟く。やっと口を開いたかと思えば恐ろしい質問である。「そんなの濡ちゃんに決まって――」
梦蝶が咄嗟に口を開くと、刺すような視線にさらされて息を呑んだ。"濡"からでなく、"小"からの殺気だった。大きく踏み込んだ小が、長い刀を梦蝶の喉につきつける前に、朝暉の身体がふたりの間に割って入ってくる。
「朝暉さま」
朝暉に一秒でも刀を向けるなど許されないと言うように、不自然な角度で小の手首が曲がる。刀を落とし、派手な音が鳴る。梦蝶はただ呼吸を止めるしかなく、仄かに生まれた蝶の術式を抑え込むのに必死だった。
「……濡の、朝暉様への質問……邪魔、したからです」
「申し訳ございません、朝暉さま。頭に血がのぼってしまいました」
憤慨する濡に反して、小は本当に申し訳なさそうに朝暉に跪く。朝暉はくるりと振り向いて、梦蝶に手を合わせた。
「ごめんな、姫さん。うちの子たち、悪気があるわけじゃないんだけど、ちょっと血の気が濃くってさ。おれとの会話を中断されると、自制できなくなっちまうんだ」
「……いいえ、私も勝手に答えちゃったから。ごめんなさい」
あの刀、"身"が無かった。一瞬で透明の水が刃を作っていたように見えた。
自分"そのまま"の姿を生み出せる力といい――小濡は水妖の血を引いているな、と梦蝶は結論付ける。元来その性質から、理知的で穏やかな者の多い水妖にしては血気盛んだが――。
「怪我、大丈夫? ふたりとも」
小は左手を、濡は右手を痛めたように見えた。必要であれば手当てをしたい。癒しの術式は麟庸のおかげで、梦蝶の得意とするところだ。
「お気遣いありがとうございます、姫様。私と濡は鬼の血を引いているので、軽い怪我ならすぐに治癒致します。ご心配をおかけし申し訳ございませんでした」
平気だと言うように、捻った手をくるくると回す小の表情はにこやかだった。なるほど。水妖と鬼の混血であるというのなら、彼らの本能に従った――心のままの振る舞いに納得がいく。屈強な身体と、理性よりも本能が打ち勝つ激情の魂をもった種族・鬼族と、穏やかで理知的――かつ自由を好む、流れるような対人関係を是とする水妖。
水妖にとって「質疑応答」は重要な意味を持つ。故に、それを妨げた梦蝶に怒りをあらわにした。そしてその怒りが、鬼族の鮮烈な情によって何倍にも膨れ上がり、瞬時に殺意になったと――そういう構造か。なかなか難儀な性質をしている。
「濡。小濡とお姫さんどっちが大事か、だったな?」
「……はい」
「そんなの、どっちもに決まってるだろ」
梦蝶は、えっ、と大きな声を出しそうになったのをぐっと堪えて目を見開く。もし遮断したら今度こそ首が飛ぶこと間違いない。
「おれにとってはおまえも梦蝶も心恩も全員大事だよ」
なにいってんだとばかりに断言して、地面に転がった刀を拾い上げると小に渡す。小と濡はじっと朝暉を見つめ、同じ顔で――揃って"笑った"。ふたりがどちらからという間もなく一瞬で"ひとり"になり、刀を腰の定位置へしまうと朝暉へ傅く。
「――それでこそ、小濡の朝暉サマです」
うっとりとした笑みで小濡が礼をする。
小のように丁寧に。
そして、朝暉の手の甲にキスをする。
濡のように恍惚して。
きっと陶酔という言葉に形を与えたら、このふたり――否、三人の関係性になるのではないだろうかと梦蝶は思う。
朝暉はふたりからの敬愛を当然のように受け取って、手を繋ぐ。再びふたりになった従者は、さきほど起こったすべてを忘れたかのように自然体だった。なんなんだろう。梦蝶も自分が"まとも"な方ではないと思っているけれど、この三人はとびぬけて変わっている。
「なぁ、梦蝶。今日暇? こないだのお礼も兼ねて、飯でもいかない? 心恩も誘ってあるからさ――」
なによりふたりからの異常なまでの愛に触れてなお、それを当たり前のように享受している朝暉ってなんなの。
一言突っ込みたかったけれど、流石にもう一度刀を抜かれるのは嫌なので「焼き饅頭がある店にして」とだけわがままを言い、心恩と合流すべく屋敷を出た。
2021/05/02 執筆
2021/05/06 加筆修正