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蝶と心の魅る夢  作者: 藤波
後日譚 水晶と狐の魅る夢
21/22

第八話 金色の鍵束を翳したら

 眩しいひかりをこれでもかというくらい収束させたかのような激しい金が、あたたかな茶を飲みながらふたりを歓迎する。

 同色の鮮やかな瞳は月を退けるほどの輝きを纏って、きらきらと瞬いていた。向き合おうとしていた陰惨な過去と、愚かさが作り出した悲劇とは到底似つかない閃光を受けて、璃空は途方に暮れていた。かの人が横たわっているはずの寝台はもぬけの殻で、いよいよ部屋を間違えてしまったのではという気になってくる。けれども、そんな璃空の推理を白紙に戻すように、こなたは「思ったより早かったな」と歓迎の言葉を口にした。

「……どうして、朝暉(ちょうき)さまがこちらに」

 一瞬璃空が玖を見て、また朝暉に視線を戻す。朝暉、という言葉ひとつで、彼女は状況を伝えてみせた。玖は食えない表情で此方を見ているこなたを、遠慮なく観察する。こういった視線にはなれっこなのか、隅から隅までを暴くかのような玖の荒っぽい視線に晒されても、朝暉は少しも怯まなかった。それどころか、璃空の質問を「まあ話せば長くなるんだけど」と笑って返す余裕があった。


 ――なるほど、"こいつ"が空水晶持ちか。


 あの日華(にっか)王の嫡子にして、流刑を生き抜いた王子。噂に違わぬ気骨の持ち主だなと思いながら、朝暉の振る舞いを眺め続ける。少しでも怪しげな仕草をすれば、何かしらの手を打つつもりで。

 こなたは立ち上がると、ふたりぶんの茶器に緑茶を注いでいく。玖と璃空は悩んだ末、朝暉にすすめられるままに腰を下ろした。勿論そんな場合ではないのだが、茶を一杯飲むくらいの時間を節約し、闇雲に飛び出したところで状況は変わらない。朝暉は明らかに何かを知っている様子だし、今のところそれを隠すつもりはなさそうだった。出来る限り状況を聞き出してからでも、立ち去るのは遅くないだろう。

 玖と璃空、それぞれの前に湯呑を置き、半分ほど中身の減った別の器を下げた。先ほどまで誰かと話していたのだろうか、と思案しながら、璃空は「それで……」と口火を切った。こなたは食えない表情で金箔の浮かぶ緑茶で唇を湿らせた後「梦蝶たちには?」と問うた。

 一瞬なんて答えるべきか璃空は躊躇ったが、誤魔化す必要もないと打ち明ける。


「……会いました。でも――」

「ストップ。別に責めるつもりはねぇよ。ただ、すれ違ってるとややこしいことになりそうだったから、聞いただけ」


 朝暉は宥めるように両手を胸の前で振る。深刻さの欠片もない仕草に玖は少し焦れた。「あんたはなんで此処に居るんだ?」と不愛想に詰問すると、鮮やかな檸檬の瞳が面白いものを見つけたかのように玖へ向く。品定めするような無遠慮な視線というよりは、玖たちがどんなやり取りをするか嘱目しているといった具合で、水妖のふたりとはまた異なる"やりづらさ"を感じ、璃空は心のなかで嘆息する。


「枳族の長子か。はじめまして。おれは、朝暉」

(らく)、朝暉だろ?」

「玖」

 玖が流刑を受けたものに科せられる"落"の烙印を口にすると、璃空は素早く咎めた。

 それくらいでああだこうだと言ってくる繊細な魂を持った輩は、そもそも流刑になったのに王都に舞い戻ったりしないだろう。回りくどい問答でこちらをからかっているのは日家の子どものほうだから、これくらいの嫌味を言っても構わないのではないか――と文句を言いたかったが、璃空の目は冷ややかだった。

「わざと人を貶めるような言い方をするのは、弱い人間のすることよ」

 ぴしゃりと諭され、玖は両手を挙げて降参する。璃空が正しい。

「……悪かった。苛々していたからといって、嫌味を言ったのは俺の未熟さだった」

「いいよ。おれの方こそ、回りくどい言い方して悪かった。つい、癖で」

「直したほうが良い。悪癖だろ」

「……玖」

「あはは」

 どうしてそう、わざわざ雰囲気を悪くするようなことを、と璃空は思ったが、今度は本当に悪気がないようだった。おそるおそる朝暉の様子を窺うが、こなたはやはり少しも気にしていない様子で、それどころか愉しげに笑っている始末だった。璃空と玖をそれぞれ見、「なるほど」と笑いを零している。ふたりは、朝暉の「なるほど」の意味をはかりかねながら、お茶を飲み、この不可解な時間を重ねていく。

「そうだな――璃空姫、枳族の玖、ふたりの願いをひとつ叶えるよ」

 その代わり、と金色の天秤が微笑む。「おれの望みをかなえてくれない?」

 玖は顔を顰め、璃空は考え込むように口を閉ざす。朝暉ほどの人間が、どうして璃空と玖に「願い事」など口にするのか、璃空には良く分からなかった。こなたならばどんな難題だろうと容易く攻略できるほどの頭脳と人脈が掌にあるはずだ。魔力だって、璃空に頼らずとも水妖らの協力でどうとでもなるだろう。玖の背後にある稲雅を味方につけたいという気持ちはあるだろうが、それは璃空の望みと一致する。度を越えた協力をするつもりはないが、姉さまと兄さまが懇意にしている朝暉を冷遇する気はない。つまり、――()()()()()()()()()()()()()()()。わざわざ頼むほどのことではないからだ。では一体、こなたの所望する"何か"とはなんなのだろう――?

 無理難題を科して、梦蝶(姉さま)心恩(兄さま)に協力するつもりじゃなかろうか、という疑いの目を向ける璃空と、単純に「うさんくさい」という理由で胡乱な者を見る目を向けている玖に、こなたは変わらない笑顔で応対する。

「もちろん、これは"取引"だから、道理に合わない要求はしねぇよ」

「口約束だろ」

「疑う気持ちは良く分かる。だから、ふたりが先に提示してくれればいいよ。おれから貰った物と見合わないと思えば、おれが願いを口にした時点で拒否してくれてもいい」

「それだと、私たちにあまりに有利では?」

「繰り返すけど、これは"取引"だ璃空姫。当然ふたりが求めたものと同等のものを求める。――逆を言えば、取引じゃないなら質問の一切に答えるつもりが無い」

 璃空が息を呑む。玖が、息を吐いた。

「おれは心恩や梦蝶と違って、贔屓はするけど甘やかさない」

「大人げないな」

「大人じゃないからね」

 朝暉が手元の茶を飲み干す。星よりも強い燦爛とした瞳に呑まれぬように、璃空が口を開いた。

「……じゃあ、私の願いを」

「そうこなくちゃな」

 おいおい、大丈夫か――という玖の心配を余所に、璃空は先ほどまでの迷いを打ち切り、毅然とした態度で朝暉と対峙する。

「――一連の真実を教えてください。心恩兄さまのお母上……灯皨(かしょう)さまは何処(いずこ)へ?」

 朝暉は願いを聞き届け、頷いた。若干"ひとつ"とカウントするには大きな願い事であったが――なにせ、こなたは甘やかさないけれど、贔屓はする性質(たち)だから。


◇ ◆ ◇ ◆


 慌ただしく旅立った梦蝶一行を見送った後、朝暉は背伸びをして心恩の屋敷へと向かった。蘭家の屋敷から星家の屋敷はそう遠くない。梦蝶は最後まで朝暉が同行しないのに文句を並べていたけれど、小と濡ならそれなりに上手くやってくれるだろうと朝暉は踏んでいた。心恩は璃空姫と長く交流があるし、これから義理とはいえ家族になる間柄である。性格的にも心恩は世話焼きなほうだし、烈火の如く怒っている梦蝶を放置できるほど冷酷でもない。小と濡も、実はああ見えて情には厚いほうなのだ。面倒だとか興味が無いだとか、文句は言うだろうけれど、なんだかんだ梦蝶の「妹の無事を確認したい」という気持ちは汲み取るだけの知性とやさしさがある。稲雅の枳一族にはそれなりの損害を及ぼすかもしれないが、そのあたりは我慢してもらうしかない。


 朝暉はと言うと、謀らずして璃空姫を嗾けた責任は感じているものの、放っておけばいいのではと考えていた。


 璃空姫のやり方は「構ってほしいです」と言わんばかりの稚拙さだったが、あの引っ込み思案な次女がたったひとりで稲雅という見知らぬ地へ乗り込んだのだから、そこには切実な何かがあるはずだった。が、齢十歳の少女が突然姿を眩ましたのだから、まずは連れ戻して何があったのか根掘り葉掘り聞きだし、正しい方向に導かねばと思う梦蝶の焦りも理解できる。双方の思考を何となく捉えた上で朝暉は「放っておけば」と思ったのだ。


 朝暉が王宮から追い出されたのは璃空よりも幼い時だった。王宮の中は陰謀と愛憎が入り乱れていたし、常に死の匂いがした。一見穏やかに見える戦場をなんとか生き抜いてきた朝暉を待っていたのは流刑で、真冬の寒さと空腹は、毒と飢餓に馴れた身体でもはっきりと暴力だと感じられる"厳しさ"だった。自分が特別幸せだとも不幸せだとも、朝暉は今まで一度だって考えたことはなかったが、どんな目に遭っても運の良さだけで切り抜けてこられた。運の良さは努力と言う言葉にも言い換えられたし、生きる欲望と言う熱にも変換できる。


 璃空が選んだのは、リスクの高い賭け事だ。与えられることに馴れた人間だからこその思考回路で、選択なのだ。梦蝶が過干渉するのも、結局梦蝶も勝ち取るのではなく、注がれる生き方をしてきたからだろうと朝暉は思っていた。誰かを導くなんて傲慢だろう。人は自分が持っているものさえ誰かに正しく与えられるか分からない。渡したと思ったら取り落としていたり、林檎を渡すはずが梨をあげていたり、新鮮なものだったはずなのに腐っていたりする。認知は容易く歪み、コミュニケーションはささやかな掛け違いで崩壊する。繋がるより断絶するほうが簡単で、与えるよりも奪う方がずっと楽だ。


 でも、"与えよう"と出来る人間を、朝暉は評価する。その行為がどれだけ傲慢で、自分勝手だとしても、自分の何かを切り崩してでも誰かに手を伸ばせる人間を、朝暉は尊敬している。繋がろうと出来る人間は真っ当だ。愛を求めるよりも、愛そうと思える人間は満ち足りている、と感じる。


 朝暉は自分の生き方を"真っ当"だとは思っていない。こなたからすると、梦蝶や璃空、心恩は正しい。愛を与え、愛を求めることに怯えながらも、繋がる未来を諦めない。欲望に満ちたその選択を、恥じながら、悩みながら、迷いながらも求められる魂を持っている。自分の掌は限られた大きさだと知っているから、その内にあるものを大切に出来る。


 朝暉は、出来ない。欲しいと思ったものはすべて欲しい。自信過剰で、自分はすべての人間に愛されて当然だと思っている。故に嫌われても恐ろしくない。自分が好きだと思った物だけが特別で、けれどもその"一等"は並列でいくらでも存在する。みんなを愛しているし、何もかもを愛しく思っている。掌に収まる世界で満足しない。世界の外側もみな、朝暉の"世界"なのだから。そういう自分の特性を、疎ましくは思わないが、美しい思考だとも思わない。朝暉のやり方は博愛に満ちているようで、ただの行き過ぎた偏愛にすぎない。狂っていると言ってもいい。朝暉を肯定するのは、きっとこなたのような者から目が離せないお人よしか、独自の倫理と情愛で生きる小濡くらいだろう。


 真っ当に優しく生きられる方法があるのならば、その場所でただ生きればいい。

 でも、足りないのなら、煩わしく思うのであれば、博打を打てばいい。帰れる場所があるうちに失敗すればいいんじゃないか、と考えていた。だから、朝暉は璃空に会いに行かなかった。連れ戻したいと思わなかったし、帰って来なくて良いとも思わなかった。梦蝶も璃空も、朝暉が介入せずとも結局自分たちで答えを出してしまう。それが思い込みだったとしても、強がりだったとしても、間違えた時には立ち返れる素直さが備わっているのだから、心配はなかった。稲雅の狐たちも、幼い少女をどうこうするほど腐った一族ではない。むしろ、面白い方向に物語が動くのではないかと期待していた。梦蝶と心恩が心配で胸がつぶれそうなほど悩んでいる中、ひとりわくわくしている自分の非道さを反省しながらも、朝暉は"やるべきこと"を為す。


 例えばそれは、梦蝶の高度な治療術式が効かなかった心恩の母親――灯皨(かしょう)を元に戻す方法を探ることとか。


 曰く、灯皨は狂ったのだと言う。予言を恐れるあまりに。予言の通りになったせいで。

 曰く、灯皨は病んだのだと言う。心恩を憐れんで。父親の不貞を嘆いて。


 ただ朝暉の見解は少し異なった。たしかに、精神を"癒やす"のは至難の業だ。けれども、身体のように完全に治すことは無理だとしても、心もまた時間を掛ければケアできるはず。そのきっかけを作るには梦蝶の力は強大で、麟庸の術式はぴたりと一致していた。何か他の原因がある様に思えてならない。


 銀爾率いる――正しくは、彼は隠居同然だったため、下っ端の小遣い稼ぎにすぎなかっただろうが――賊になり下がった白銀(しろがね)を操っていたのは、晦日だろうと思っていた。今思うと安易な推理で恥ずかしくなるが、彼の息子の弄月(ろうげつ)は"月を眺めて楽しむ"という意味の名だ。てっきり日華に入れ込んでいた晦日を、銀爾はずっと愛しており、彼女に纏わる名を子に付けたのではないかと思っていた。隠しの術式が込められた特殊な真珠を使っていたのも、逢引の手段ではないかと疑っていたのだが、蓋を開けてみれば日華に強烈で屈折した執着を抱いた純粋で一途な獣だったのだから驚いた。

 彼が遥か昔、日華への恋心を断たれたというのは知っていた。けれども、その後晦日へと想いを移らせていたのではと思っていたのだ。でも、銀爾は変わらず、数百年経った今も日華を愛し、執着し、想い、悲しみに暮れ、焦がれていた。安易な勘繰りをしたことを、うっかり謝りたくなるほど彼は一途だったし、目が眩むほど熱烈で暴力的な好意は、真似こそ出来ないが一種の尊敬の念が湧くほど純粋だった。朝暉にはこの先一生得られない類の陶酔だ。彼に愛された日華を羨ましいと思うのは、自分があまりにも父親からかけ離れた個人だからか、と思いながらも、ただ素直にそう感じた。


 朝暉が日華王について知ることは少ない。

 晦日に関しても、把握しているのは梓海から聞いた情報と、僅かな逢瀬の記憶――そして、彼女もまた、どうしてか自分の父王・日華を愛しているという信じがたい事実だけ。"あんなの"の何処が良いのだと思いながらも、個人の趣味趣向に口を出すほど朝暉も野暮ではない。センスは無いと思うが。

 銀爾と晦日の癒着の線が絶たれた今、朝暉の持っている手札は少ない。


 梦蝶と心恩は、白銀にはいきついたものの、白銀が誰かに依頼されて自分たちを襲ったとまでは"思わなかった"。辿り着きたくなかったのか、探りたくなかったのか、無意識化で避けていたのかは分からないけれど、たまたま自分たちが山賊――白銀に襲われたと思っている。けれども朝暉は、最初からそうは思っていなかった。白銀の住まう山からは少し距離があるし、確かに貴族の旅車は目立つだろうが、その分、それなりの護衛は連れていたはずだ。なのに()()()()()()()()()()襲われて、ふたりだけが取り残され、襲われた。

 しかもその一連の事件は、祀部省(まつりべ)省の予言(おすみつき)を受ける。吹喜が幾ら性格が悪くても、天従(てんじゅう)であるからには嘘をつけないし、恣意的な予言は不可能だ。祀部省がくだす予言は必ず、この国に纏わる災いか幸い、或いは空水晶――王に纏わるものと勝手が決まっている。

 心恩が王に与する希望の星だと神託がおりたのは、彼が生まれた時。であればその後、盗賊との一件の先読みは一体"誰のための"予言だったのか。そして、結果的に予知を準える羽目になったものの、心恩と梦蝶を陥れようとしたのは誰だったのか。


 その"人"はきっと、心恩にくだされた予言を知っていて、けれどももう一つの前触れは知らなかった者。

 心恩と梦蝶をよく知り、彼らの動向を誰よりも把握していたお人。


 最初は心恩と梦蝶の父親を疑った。彼らは先に避暑地についており、ふたりで優雅な時間を満喫していた。盗賊らに襲われる心配がなく、ぼろを出す懸念も必要ない。けれども梦蝶の父親は娘らを溺愛していた。心恩の父親も、善良な人間ではないものの、気が弱く、人を殺すほどの悪事を企てる程肝が据わっているわけではないから、早々に容疑者リストから外すこととなった。


 企てた者はもっと狡猾で余念がない。

 目の前で起こる悲劇を見届けた後で、その場を離れ、憐れな被害者を装い、決して自分の犯行が明かされぬよう徹底的に演じられる、度胸のある者。万が一にも犯人だと悟られぬよう、早々と議論の場からは退室し、痛んだ心を癒やすふりをして状況を観察する小賢しい悪人。

 "彼女ほどの"才女であれば、きっと虎視眈々と狙っているだろう。暗闇に潜み、牙を研ぎ、目を光らせて、次なる好機を探っているはずだ。


 ――ゆっくりと扉を開く。

 横たわった女は青白く、やせ細っていた。心恩によく似た穏やかな栗色の髪は、先の方に行けば行くほど桃の果実のような柔らかい彩光を帯びている。

「灯皨様」

 女がゆっくりと目を開ける。髪の先と同じ色彩を孕んだ双眸が朝暉を映し、僅かに見開かれた。そのほんの少しの変化を、こなたは見逃さない。

「本当は、狂ってなどいないんですね?」


 患っていなければ、病は治らない。

 気が触れていなければ、正気には戻らない。

 ――すべては女の用意した、とっておきの悪夢に過ぎないのだから。


 近寄る麗しい金色を女が笑う。そこには、狂った崩壊も、幻を見るような恍惚もない。

 そこにはただ、突然現れた異邦人を面白がり、こなたが繰り広げるであろう推理を待ち望む、朝暉と同種の"真っ当でない"御人が居た。


◇ ◆ ◇ ◆


灯皨(かしょう)様」

「灯皨でいい。そなたは?」

「朝暉」

 そう言った瞬間、堪えられないというように女が笑いだす。「朝暉ね、朝暉」――確かめるように名前を繰り返し、乾いた桃色の唇を水差しの水で湿らせる。先ほどまでの、生気のない姿は何処にもなく、爛々と輝く瞳は紅水晶と言うよりも、南雲地方に住まうという紅鶴のような鮮やかで生命力溢れる宝玉だった。朝暉は少々気圧されながらも「隠す気はもうなくなったの?」と気安く問いかける。

「日華の嫡子が現れるとは思わなんだ」

「それは嘘だな。誰がこの屋敷に出入りしてるかくらい把握してるだろ。おれが此処に来るのも知ってたんじゃないか」

 灯皨は答えなかったが、言葉の代わりにふわりと浮かべた優美な笑みが真実を物語っていた。吹喜とはまた違うタヌキかと思っていたが、これは完全に腹の探り合いではなく、一方的に内臓をべたべたと触られているだけだなと朝暉は嘆息した。朝暉は言葉遊びを愛しているが、灯皨はどうやら人間でお手玉をするのを好んでいるように見える。こういう人種には下手に勝負に出ず、なるべく素直に、機嫌を損ねないように真実を()()()()()()()ほうが建設的だ。


「なんで心恩を殺そうとした?」

「せっかちだな。(わたし)との会話は退屈か?」

 灯皨はわざとらしく肩を揺らし、落ち込んでみせる。被っていた布団がずり落ちて、羽織っている衣があらわになる。寝着にしては分厚く、余所行きだ。やはり算盤尽くだったか、と心の中で唸る。

「いや、楽しいよ。だからこそ、たくさん話したいなと思って。十年被って来た仮面を簡単に殴り捨てるってことは、何か新しい悪だくみを思いついたんだろ。あんたがおれの前から居なくなるまでに、いろいろと思い出を作っておきたいからさ」

「嬉しいことを言ってくれるね。私があと三十年若くて、そなたがあの日華の子どもでなければ、只ならぬ関係に立候補したかもしれない」

「そりゃ残念。来世で頼むよ」

「縁があったらね」

 合わせるように朝暉が微笑むと、美しく艶やかな髪をまとめながら、灯皨が寝台から起き上がる。美しい銀細工の簪を幾つも使い、丁寧に結い上げるのをぼんやりと眺めていると、片目を軽く瞑り、挨拶に似た戯れが返って来た。やはり食えない。

 灯皨はてきぱきとした手つきでお茶の用意を始める。止める理由もないので、大人しく椅子に座れば「心恩を何故殺そうとしたか、ね」と呟いた。深く甘い茶の匂いがゆるやかに辺りに広がって、夜の涼しさに溶けていく。


「――誰かを心底憎んだことは?」

 顔を上げたけれど、灯皨は伏せていた。見えぬ顔を覗き込むのは憚られて、少し思案した後「いや」と答える。身内を貶したことはある。尊敬もしていない。愛しているかと聞かれても微妙だ。乳母には感謝しているが、それ以上の感情は無い。父――日華も、母親も、死んでも悲しくないが、恨めるほどよく知らない。

「じゃあ、誰かを愛したことは」

「あるよ」

「その人のために、何かしたいと思ったことは?」

「ある」

「そういうことだ」

 灯皨は笑って、お茶を注ぎ入れた。ふたつの器に春の緑が咲く。

 いったいどういうことだよ、と朝暉は思ったが、話の腰を折れば、有耶無耶になる可能性もある。あくまで灯皨の興味を損なわず、会話を続けなくてはならない。朝暉は椅子の上で胡坐をかきながら、問いを考える。

 灯皨はお茶を一口飲み、此処ではない何処かを眺めるように目を細め、また朝暉を見た。おそろしいほどの静寂がふたりの間に漂い、断たれるギリギリを茶の湯気が繋いでいた。このぬくもりが消えないうちは、まだ朝暉に主導権がある。

「……あんたは、星家から人殺しの息子が生まれるのを怖がるような人間には見えない」

 灯皨は茶を飲んで、和菓子をつまんだ。水まんじゅうの表面を突き破って、黒文字が刺さる。ぱくりと器用に拾い上げて食すと、数度口を上品に動かして飲み込んだ。青白かった頬は既に朱が差しており、時間が経つほどに若返っていっているような錯覚に陥るほどだった。

「あの子は殺人には向かないだろうな、とは思っていたよ」

「――追い詰めておいてよく言う」

 あまりに興味なさげな返答に、流石の朝暉も少し苛立った。心恩がなりたくてああなったわけではないことは、彼女が良く知っているだろうに。そしてそれは、灯皨が望んだ結果でもないはずだ。それなのに、この関心の無さはなんなのだろう。朝暉をからかうための下劣な態度でもない。灯皨は本当に、ただそう思っているだけのように見えた。

「被害者だとは思っているよ。心恩も、梦蝶も」

「あんたがしたことの?」

「君は否定するかもしれないが、私もまた被害者に過ぎない。勿論、加害者じゃないと逃げる程愚かではないが、私にも意図がある」

「自分の息子よりも優先すべき"意図"?」

「そうだ」

 ――どうしようもないな、と朝暉は思った。

 どうしようもない。この人は、自分がどうしようもないと分かっていてやっているのだ。何もかも、分かっていて尚、自分の欲望を捨てられない。その願いを貫いた先に誰かが泣こうが、傷つこうが、運命が捻じ曲げられて苦しもうが、諦められないのだ。犠牲を犠牲と思わないほどの非道を持ち合わせずに、悲しみを悲哀として憐れみながら、多少胸を痛ませながらもやめられない。

 この人は、正気のまま歪んでいる。狂っているのではない。病んでいるのでもない。ただ、物凄く、歪んでいるのだ。

「がっかりしたか?」

「それなりに。でも、おれより灯皨のほうがそうなんじゃないの?」

「……"そう"とは?」

「がっかりしないの? 自分に」

 灯皨はもう一つ水まんじゅうを食べようとした手を止めて、黒文字を硝子の皿に置きなおした。先ほどまでの余裕そうな表情はなりを潜め、ただ、悪戯を叱られた子どものようなばつの悪い笑みがそこにあった。

「……するさ。それなりにね」

 朝暉は水まんじゅうをひと口で食べ、痺れかけていた足を崩す。張り詰めた緊張は消え失せて、ただ静かな懺悔と焦燥だけが横たわっている。

「本当はその人のために何かが出来るとは思っていないんだ」

「……」

「"その人"は私に何も求めなかったし、私を救ったのも気まぐれだ。ただ私が勝手に感謝をして、救われて、神格化して、完璧な"何か"のように慕って崇拝しただけに過ぎない。そうやって私の求める虚像を押し付け続けたまま、始めから私の場所ではなかった"居場所"が失われて、けれどもそれが――堪え難かった。気が付いたら全部失って……自分だけだったら諦められた。……と、思うけどどうだろうな。すべては結果論でしかない。でも、こんなにも歪まなかったとは思っている」

 朝暉に話していると言うよりは、なんらかの物語をなぞるように――お伽噺を読み聞かせするように、灯皨は呟く。

「その人から何もかもを奪った奴が許せなかった。今まで全部忘れていた自分も、のんきに幸せに暮らしていた自分も、消してしまいたかった。心恩が生まれて、予言を授かった時から、私は私じゃない私を知り始めた。自分が誰で、どっちを自分にして生きるのか――どんな夢を選んで、見続けるのか、常に選択を迫られた。選ぶのには、六年の時間がかかった。灯皨を捨てた時やっと、昔見えていた未来が姿を現した」

 だから、と灯皨は底に溜まった茶柱ごと、お茶を飲み干して、笑った。

「璃空姫が精神崩壊の術式で、姉と心恩を陥れた私に復讐しようとしているのを知った」

 璃空姫が、と朝暉は思案する。当時無力な赤子であった璃空が何故そこまでのことを出来たのかは分からないが、ここで灯皨が嘘を吐く理由もない。精神崩壊の術式と言うことは、麟庸に頼んだのだろう。

 何故彼女が彼と契約しているのか、朝暉はずっと疑問だった。梦蝶の真似事にしては安易だし、璃空の性格であれば、同じ妖と契約するよりも、姉に無い能力を身に着け、彼女を補佐しようとするだろう。だから、何故麟庸なのかというのが気になっていたのだが、先に契約していたのが璃空の方だと言われれば、納得がいく。

「でも、どうやって防いだんだ? 例え赤子相手でも、麟庸の術式は強力だろ」

「防いだ、というよりは効きづらかった、と言ったほうが分かりやすいだろうか。後から目覚めたところで、先読みの能力持ちの運命からは逃れられない」


 先読みの才を持った者は通常、その力が強ければ強いほど術式が使えない上に、魔力が効きづらい身体になる。術のすべてが効かないわけではないが、特に身体に介入する――傷の治療や、脳を弄る、精神を破壊するような術式は、例え発動したとしても、効力は通常のひとよりもかなり劣る。

 未来予知の力を持つ灯皨は、精神異常の術式を防ぐ――否、効きづらい肉体を持っていたために、精神崩壊の術式はすぐに解け、狂う前に元に戻れたという訳だ。


「てっきり、日華王の長子であるそなたは、よく知っているかと思ったが」

「おれは"効きづらい"どころか、全く効かないんでね」

 おかげでひと苦労だよ、と肩を竦めると、灯皨が一瞬険を帯びる。けれどそれは本当に瞬きほどの出来事で、朝暉が注意を向けた時にはすでに、先ほどまでの表情に戻っていた。違和を問い詰めるには、あまりにも直感に過ぎず、結局朝暉は別の質問に移る。


「灯皨――っていうのも、違うのか。難しい話だったけど、今のあんたは灯皨であって、灯皨じゃないんだろ?」

「灯皨の夢を見る灯皨と、そうでない私が見る私が在るんだよ。どちらも正しい。でも、私は私を選んだってだけだ」

「……じゃあ、改めてあんたの名前を教えてよ」

 朝暉は最後の水まんじゅうを食べると、痺れが治った足を伸ばし、再び椅子の上で胡坐をかいてみせる。唐突なこなたの要求に、かの人は驚いた様子を隠さなかった。

「……何故?」

「覚えておきたいから」

「私を?」

「あんたを」

 灯皨――否、灯皨であり、灯皨で無い女は、やはり困惑したまま――けれども朝暉から目を離さず、笑った。

「……日華の子どもにしておくには惜しいな」

「常日頃おれもそう思ってるよ。とっくに()家の名は捨ててやったけどな」

 立ち上がった灯皨が、洋箪笥に仕舞われた上等な外套を羽織る。そのまま扉に向かって歩いていき、美しい細工の施された把手に触れ、押す。部屋の明かりが外に漏れだし、星空の元へ彼女を送り出そうとする。朝暉は止めなかった。

「最後に話せて楽しかったよ」

「そりゃどうも」

「けど――恋人にするには賢すぎるな」

「それ、いろんな人に失礼じゃね?」

「違いない。……もうすぐ客人が来るから、君は此処で待っていると良いよ」

「そりゃご親切にどうも」

 客人ね、と思案する。その"客"は何も、朝暉に会いに来るわけではないだろうに、そんなものはお構いなしなのだろう。まったく、と呆れながらも、朝暉は手を振った。

 強い風が吹いて、外套が揺れる。金糸の細工が星の明滅を再現し、女はすべてを知っているかのように、濃密な蠱惑を象り続けている。寝台で横たわり、眠る様に灯皨を演じていた女とは似ても似つかぬ別人が、夢とうつつの狭間に立っていた。


「私の――俺の名は――赤星(あかぼし)


 おまけとばかりに呟いて、もう誰にも呼ばれぬ故人の名だよ、と謳い、消える。

 本が閉じるような激しい"結び"と共に扉が閉じた。


 もう誰にも呼ばれぬ夢幻(ゆめまぼろし)を生きると決めた赤星も、寝台に眠ったまま息を引き取った灯皨も、朝暉は忘れないだろうなと思いながら、招かれざる客人ならぬ、探し人でない他人をどう演じるか考えながら、茶菓子を物色していた。

2021/10/6 執筆

title by alkalism

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