表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蝶と心の魅る夢  作者: 藤波
後日譚 水晶と狐の魅る夢
20/22

第七話 背中の翅が眩い所為

「本当はずっと、姉さまのこと、好きじゃないの」


 その言葉を聞いた時、玖が考えたのは璃空の心への心配でも、好きじゃないと言われた梦蝶のことでもなく自分のことだった。そのあまりに自分本位な思考回路と、脳と深く紐づいた心の傲慢さを苦々しく思わないわけではなかったが、喜びを隠すのは不可能だった。勿論、璃空が苦しんでいるのをあざ笑っているのではない。そうではなくて、自分がずっと弟ら――伊那たちから"言われたかった言葉"を璃空が口にしたからだった。

 誤解がない様に言うが、今この瞬間まで玖は、自分が欲していた言葉を知らなかった。璃空が本音を吐露する以前まで玖は、彼女の心が少しでも楽になるのを願っていた。自分の思い込みと、姉と言う虚像――梦蝶を知らない玖が、璃空の思う"梦蝶"を否定するのはいささか一線を越えているが――を前に、果てしない憧れを抱き、疲弊する彼女をどうにかしてやりたいとさえ思っていた。


 玖に言わせれば、璃空が犯した罪など大したものではない。

 幼い彼女の魔力と心の暴走を咎めるほど梦蝶も心恩も幼くないだろうし、蘭家の器も小さくないのだから、彼女の償いの形を共に模索してくれるだろうと思う。けれども、玖が引き出した璃空の"本音"は、愛憎と悲楽の入り混じった複雑な激情だった。そしてその発露は、不思議なことに二千四百年と十年もの間、玖が求め続けた言葉だった。


 許されたくない――否、許せないのだな、と玖は気づく。


 償いの形を探し、共に罪を背負い、許す家族や心恩を、璃空は許せない。責められ、詰られ、勘当され、縁を切ると頬を張られる。そうやって断罪されたいのに、誰もしないから、璃空は自分で此処まで来たのだと合点がいった。正しく清い形をした自分の周囲の人間が苦しく、その真っ当さから外れた己を何処までも憎んでしまうのだと知った。家族を――最愛であり深く敬う姉を「好きじゃない」と言った璃空をはじめて玖は、本当の意味で対等な「同輩」だと、思えた。


 玖の求めている灼熱を、彼女は持っていた。

 灼熱とは、亀裂。深い断絶だった。


◇ ◆ ◇ ◆


 玖は目が覚めた時から、一族の長であることを求められた。


 二千四百年もの間、夜籠りという特殊な状態であったものの、玖の病によって稲雅(いなみやび)は豊かな自然と穏やかな生命に恵まれていた。両親である火尹(ひなん)甚雨(じんう)でさえ、玖に感謝をし、けれどもそれと同時に眠りから覚める日を待ち望んでいた。他の兄弟たちも同様に愛していただろうが、最初に生まれ、一度だって言葉や視線を交わしたことがない玖を、両親は特別可愛がっていたという自覚が、玖にはあった。そんな玖の存在を、兄弟の誰もが受け入れ、両親同様深く愛し、敬っていた。眠っていても、彼らがどれだけ自分を愛してくれていたか、玖の目覚めを今か今かと待ちわびてくれていたかは、何となく覚えている。

 

 愛されるのは喜びだ。抱擁されるのは気持ちが良い。最初はそうだった。目が覚めた玖を、弟たちはあれこれ世話をして、優しく甘やかしてくれた。やがて一族の長になるのを疑わず、玖をもてはやし、何も知らない彼を尊敬し、愛した。ずっと見守って来た弟たちに慕われるのは嬉しかった。

 けれど、ある日気が付いてしまった。土地の魔力を巡って伊那と揉めた時、王都に助けを求めればいいと言い放った玖を見る兄弟たちの目は、信じられないものを見るかのように一様に見開かれており、そこには確かな落胆があった。

 思わず口を閉ざした玖へ、伊那が返した言葉が決定打だった。


「玖兄さんは、そんなこと言わない」


 笑うことも、返事をすることも不可能だった。ずらりと並んで座っていた兄弟たちは口々に「目覚めたばかりだから」「動転しているのです」「兄さんはまだ幼いからわからないだろうけど」と玖を擁護したけれど、玖は気づいてしまったのだ。自分は彼らをずっと"見て来た"。けれども、彼らは皆、玖を知らない。


 知らないのに、ただ長男であるから愛している。眠っていただけの、夜籠りという病に冒されていただけの狐を、家族だと認識して愛している。玖の内側を何一つ持ち得ないくせに、ただそれだけで、一族の長になるだろう未来を作り上げ、彼らの描いた玖を求めている。


 果たしてそれは玖なのだろうか?

 果たして彼らが愛しているのは、本当に玖なのだろうか?


 玖が、彼らの言う"本当の玖"であったなら。一体どんな答えを発したのか、玖には分からなかった。分からないのに、想像さえできないのに、玖以外の全員が、玖が言うだろう「何か」を知っていたし、求めていた。自分たちの中で補完していた。


 玖は、自分が幼いから何も分からないのだとは思っていなかった。

 確かに玖は多くの物事を知らない。稲雅の川の水量や、生息している魚の種類を諳んじられても、伊那らが知っている当たり前の知識の一片だって持ち得ない。それらは、これからゆくゆく知って行けばいい知識だ。けれども、実のところ、伊那たちが求めている「知識」とは、彼らの描く玖という像になるための「すべて」であり、一般教養の話ではない。


 玖は知っていた。

 玖が彼らの描く"玖"になれないのは、成長しきっていない未熟な狐だからじゃない。彼らが求めているのは親である火尹であり、甚雨だ。彼らのようになる玖を求めている。けれども玖は火尹(ひなん)ではないし、甚雨(じんう)でもなければ、伊那たちが求めている玖でもない。


 種が違うのだから、咲く花は異なる。

 秋桜に桜になれと言っても無理な話なのだ。


 玖は兄弟たちがいつか諦めてくれるのを願っていた。

 火尹でも、彼らが求める架空の玖ではなく、"玖"で妥協してくれる日を期待していた。けれども彼らは諦めず、ただ徒に(いたずら)十年の時が流れた。

 優しく穏やかであたたかな稲雅を心から愛していたけれど、この場所は玖を窮屈にした。土地は少しずつ力を失くしていき、長年貯め込んでいた枳族の力も、尽きていく。そうなったとき、再び強烈な眠気が玖を襲った。夜籠りによって結ばれた縁故(えんこ)は断ち切れていなかったのだ。飢えた土地は、玖の身体からさらなる魔力を奪おうと手を伸ばした。


 玖は拒まなかった。正直なところ、それもいいのかもしれないと思った。再び夜籠りの状態になれるかは分からないが、彼は眠っている時のほうがずっと自由に振る舞えていた。好きなように稲雅を眺めていれば退屈しないし、兄弟たちからの羨望を重く感じることも無い。誰かに期待されることもなければ、深い愛に尻込みせずに居られる。自分として、幸福になれるとさえ考えた。けれどもその提案を、伊那はあっさりと却下して、王都には知られず、内密に魔力を持つ人間から力を分けてもらい、土地を守る方法を模索し始める。


 幸い、そんな方法はやすやすと見つからなかったし、稲雅に強力な魔力持ちは存在しなかった。魔力に満ちた土地で育ったものの多くは、才能に恵まれない。力が強すぎると、土地の気に参ってしまうから、もし生まれたとしても別の住処へ移り住んでいく。土地の持つ魔力を掌握できるほどの天才であれば別だが、そこまでの強大な魔力持ちが生まれれば、郷土の魔力回路が揺らぐから、真っ先に伊那が気づく。残念ながら、稲雅の地に都合よく天才は生まれなかった。――玖を除けば、ただのひとりも。


 だから玖は、早く魔力が尽きて、再び眠りに就けたらと思っていた。そこに、璃空がやってきた。彼女はその場にいた玖と伊那を見て、伊那を「長」だと勘違いした。伊那は動揺していたが、玖はほっとした。そうだよな、と素直に思った。伊那の方がはるかに成熟した肉体と精神を持っている。知識だって。枳一族がおかしなだけで、普通のひとには伊那が統領に見えるのだと思うと、救われた。

 訂正しようとする伊那を遮って、玖は自分が従者であるように振る舞った。長年枳族としか付き合いのなかった玖に"普通の感覚"を示してくれたというだけで、破天荒でおてんばな貴族の娘の戯れに付き合う理由が出来た。枳族には居ない性質(タイプ)の璃空との時間は、苛立つこともあったが不愉快ではない時間だった。……彼女が、大きく果てしない玖の魔力の器を簡単に満たせるほどの、同格の"天才"であるのに気づくまでは。


 そんな逸材を伊那が逃がすはずがない。しまったと思った時には既に、彼お得意である結界の術中にハマっていた。ご丁寧に魔力を極限まで引き抜いて、更に術のかかった腕輪をつけられているのだから参った。伊那は狡いけれど優しい男だ。璃空姫に稲雅を救う手助けをしてもらうには、彼女と親しくなって、同情を誘うのが最も適していると知っている。元々言葉の綾だったとしても、婚姻を望んで社へやってきた少女だ。貴族の申し出を袖にし、彼女の地位を貶めるわけにはいかない――とか何とかいって、上手くやりこもうとしているのだろう。共犯者として関係を結べれば御の字。そうまでいかなくとも、何らかの契約を交わせれば此方のものというわけだ。

 けれど、本人らの同意なしで進めるほど伊那は強引ではない。

 だから仮想空間となっている結界内に玖と璃空を封じ込めた。

 脱出するには当然、伊那の術を破る必要がある。玖であれば簡単に結界を抜けられるが、現状玖は伊那に引っこ抜かれたせいで無力だし、自分では壊せぬ腕輪のせいで、仮に魔力を貰い受けてもすべて土地へ還元されるだけだ。つまり、腕輪を壊さない限り玖は術を使えない。……いや、多少無理をすれば可能ではあるのだが、そうなると数日玖は使い物にならなくなるだろう。今倒れれば、眠っている間に何が起きるか分からない。出来ればそれは避けたかった。


 ではどうしたら腕輪を壊せるか。

 "見合い"と呼ばれる狐の儀式を行い、互いを知ること。そのうえで、儀式を除いても「真実」を相手から聞き出す必要がある。見合いと言う、"真実を否が応でも明らかにする術"が解けても、本音を投げかけられるようにならなければ腕輪は壊れない。

 腕輪が壊れなければ、結界は破れず、外に出るのは不可能だ。

 つまり伊那は、璃空と玖の間に、信頼関係を作り上げようとしていたのである。共犯関係――もしくは婚約を結ぶ足掛かりになるような条件を揃えてはじめて、結界から出られるように仕組む。そうすれば、例え只ならぬ関係にならずとも、璃空が玖への情で、手を貸してくれる可能性を残す。


 実にいやらしい――狐らしいやり口じゃないか。もうお前が(あるじ)でいいよ、と玖は思うのだが、伊那は認めないだろう。伊那は未だに、璃空と同様――けれども彼女よりもずっと信仰するように玖を見ている。一寸の狂いもない瞳で。


「本当はずっと、姉さまのこと、好きじゃないの」


 その一言を聞いた瞬間、彼女を家へ帰してやろうという想いは消失した。


 玖はずっとこの言葉が欲しかった。愛憎と悲楽の入り混じった灼熱で、断じてほしかった。ただ敬い愛するのではなく、嫌ってほしかった。両親の寵愛と視線を、ただ眠っているだけで一心に受けていた自分を憎んでほしかった。二千四百年もの間、自分との間に空白を作った玖を、見知らぬひとのように思ってほしかった。ただ純粋な憧れではなく、焦燥を欲していた。愛しているけれど、好きだけれど、好きじゃないのだと、断絶を設けてほしかった。

 ――そうしたら玖は言えたのに。

 ずっと、お前たちが作り上げた枳 玖()でいるのが辛かったと、明かせるのに。



 俯く璃空の頬にはじめて触れた。気安い指先を彼女は咎めなかった。それをいいことに玖は、零れそうな涙を拭うように親指を滑らせる。

「泣いてない」

「どうだか」

 肩をすくめると、不愉快そうに璃空が視線を逸らす。その姿を見たら、俺は、という言葉は自然と零れた。璃空の瞳が、玖の霧のような(まなこ)を捉え、揺れる。

「弟たちが好きだ」

「……そうでしょうね」

「あんたの姉も同じだろ」

 璃空は息を呑んで、この世の誰にも聞こえないほどゆっくりと息を吐く。「……そうでしょうね」と紡がれた言葉は、諦めとも自嘲とも似つかない何らかの感情を描いて、そのままふたりの間に沈んでいった。突き詰めなくとも通ずるけれど、本当の理解はしかねる心が嬉しかった。

「だからこそ、遠ざかりたいとも思うけどな」

「……どうして?」

「それはあんたも良く分かってるんじゃないか」

 玖の言葉を聞いた璃空が黙り込む。好きだけれど遠ざかりたい玖と、好きじゃないから逃げていたい璃空の根本は似ている。似ているだけで、同じではないけれど。

「愛していたいから、離れたい」

 呟いた玖を、璃空が笑った。

「誰を? ……自分を?」

 いやな質問だった。自分も傷付け、相手も傷付ける。けれどもその傷は、互いが欲しかった亀裂だった。救いと言い換えても良かったかもしれない。

「自分"も"だよ」

 今度は璃空が肩を竦める番だった。

「では、私と来ますか。玖」

「あんたが俺と行くならな、璃空姫」

「……あら、もう姫は要りませんわ」

「従者に呼び捨てされる筋合いはないんじゃなかったのか」

 恭しく礼をしてみた玖に、璃空が手を差し出す。

「私たち、"同輩"ですから」

 おおよそ、いままで璃空が浮かべて来た笑顔の中で一等下手くそで、不格好な微笑みだったけれど、最も年相応の無邪気さに溢れた笑顔であることには間違いなかった。玖は腕輪のないまっさらな手で、璃空と握手を交わす。

 冷え切ったふたつの手は、触れ合うことで再び、決して熱くはないぬくもりを得た。


 築き上げられた脆く歪なふたりの関係を、伊那は計画した通りだと笑うだろうか。それでも構わなかった。ふたりは自由になるために、最も自分に亀裂を作ってくれる雑音のようなひとを道連れに選んだ。璃空は夢を魅るために。玖は夢を見ないために。行き先のない、果てのない未来を選ぶ。


「俺に力を送れるか。結界にひびを入れる。隙間が出来たら、俺と同じように攻撃して穴を広げてくれ。空間が壊れる前に、抜け出すぞ」

「分かりました」

「一回で覚えられるか?」

 両手で抱え上げながら、白百合の少女を見下ろす。璃空は不敵な笑みを浮かべて、威張ってみせた。

「――私を誰だとお思いで?」


◇ ◆ ◇ ◆


 玖は、思っていたよりも璃空と梦蝶は似ていないなと思いながら、伊那の傍に立っている男をちらりと見た。すらりとした体型に、穏やかだけれど隙のない雰囲気。金糸の瞳。間違いなく星家の嫡男だ。璃空が姉と義理の兄――のような存在である心恩を見て、緊張するのがすぐに分かった。気まずい雰囲気をわざと壊すように、斬りかかって来た水妖をいなし、水浸しになっていた床を綺麗に乾かす。璃空の魔力は玖の器に適した濁流だ。留まることを知らない滑らかで過激な力の流れをそのままに、思う存分暴れる。術を発すれば発するほど、土地が潤っていくのが分かった。久方ぶりの濃厚な魔力に稲雅が沸き立つのが分かる。喜びに満ちた土地の有頂天ぶりは笑えたけれど、今はそれどころではない。

「じゃあ自己紹介する。俺は(ニー) (キュウ)。 稲雅山(いなみやびやま)大狐(たいこ)火尹(ひなん)甚雨(じんう)の息子で――此処に居る、璃空(リークウ)許婚(いいなずけ)だ」

 特に特別な話ではないとばかりにさらりと言う玖を、驚いた顔でその場にいる――小と濡を除く――すべての人間が見つめていた。許婚、という言葉を聞いて、璃空の姉兄ははっきりと顔をこわばらせた。それと反するように、璃空が噴き出しそうになっているのに気づいて、玖も笑いを零す。

「ちょっと、兄さん」

 例に漏れず伊那も動揺していた。仕向けたのは彼であるはずなのに、まさか本当にこうなるとは思っていなかったらしい。変なところで爪が甘いなと思いながら「なんだ」と返事をすると、先ほどの水妖が再び斬りかかってくる。相手をしようと身構えたところで、璃空が一歩前に出た。

 空色の蝶が集まり、大きな円を描く。水妖の切っ先が虚無に呑まれ、消えた。

「濡」

「分かってる」

 濡、と呼ばれた少女は飛び上がると、空中で大きな鎌のような武器に姿を変え、そのまま少年の身体に吸い込まれてぐちゃぐちゃに混ざり合う。先ほどの少年でもなく、少女でもない水妖は、死神の鎌を思わせる大きな鎌を腕が吹き飛ぶほど激しく横に振る。慌てて助太刀に入ろうとする姉兄を置き去りに、璃空は動じずに円を変形させ、鋭い透明の刃が根を張る様に伸びた平たい武器を、横に滑らせるようにして投げる。鎌と衝突した途端、水の刃は結晶になってばらばらと砕け、地面に落ちた。

 「すごいな璃空」と素直に玖は感心した。

 「魔力の流れの隙間に当てるだけですわ」と璃空はなんでもないように振る舞ったけれど、その口元はゆるんでいた。


 粉々に砕け、ただの水晶の欠片と化した刃を踏み、真白の砂にしながら、小濡がまたふたりに分かたれる。深いため息が淡いばら色の唇から同時に漏れ、絡み合って陰鬱な雰囲気を醸し出した。

「いったいどうなってるんですか?」

「……鬱陶しい。もう見つかったでしょう。帰りたい」

「たしかに。じゃあ、帰りますか」

 小が鞘に柄を戻し、濡と共に歩き始める。「ちょっと」と呼び止めようとする梦蝶を無視して、ふたりはあっという間に出入り口へ進んでいく。

「朝暉さまの命令は"璃空姫を見つけること"でしたので、僕たちは失礼します」

 「いや何処行くの。そっち、建物のほうなんだけど……」と消え入りそうな声で伊那が問いかける。

「朝暉様がいらっしゃる所へ行くだけ。動物には分からないでしょうね」

 ぴしゃりと伊那の言葉を跳ねのけると、青い水に姿を変え、そのまま床に消えるようにしていなくなる小濡を見て、玖と璃空は顔を見合わせた。伊那は「こわ……」と震えている。さっきまで全員を相手取ろうとしていた獣にはとても見えない情けない振る舞いに、彼の弟たちは床に座ったままため息をつく。もちろん、伊那は気づいていない(彼は床に散らばった水晶の欠片を拾い集めるのに大忙しだったからだ)。

 実際のところ、伊那は結界の術に優れているだけで、戦闘には向かない狐である。さっきまでは、玖の代わりとして、侵入者たちに舐められないよう虚勢をはっていたに過ぎない。とはいえ、玖が帰って来た途端に気を抜きすぎではないか、と小狐たちは心配になったが――あの小濡とかいう、水妖のくせに話を聞かない害妖の脅威がなくなった今、蘭家と星家が暴れ出すことは無いように思えたし、取り繕う必要は消えたから……大丈夫か、と考え直した。

 それにしたって、しゃがみこんで水晶の破片を拾っている伊那の情けなさは凄かったが。


「璃空」

 腕を組んだ梦蝶が璃空をまっすぐ見つめていた。肩にとまった桃色のひかりの蝶が、ゆっくりと羽を震わせて、細かな色彩の粒子をちりばめている。

「ふざけたこと言ってないで帰るわよ。父様も母様も心配してる」

「姉さま。私は本気です」

 梦蝶が顔を顰める。「なんですって?」

「私は玖と協力関係を結びました。ふたりで旅に出ます」

「もう一度言うわ、璃空。ふざけたことを言うのは辞めて。帰るわよ」

 玖が口を出そうとするのを、璃空が止める。繋いだ手が僅かに震えているのに気づき、玖は押し黙った。自分と璃空は同輩。序列のない、対等な関係。助け合いはあれど、助け船は不要だということか。玖はひとり納得し、閉口する。


 私はもっといろんなものが見たいんです、姉さま。……私はずっと蘭家に守られて生きてきました。母さまと、父さまと、姉さまと……兄さまに。だから……。

 ――と、いつもなら思っても居ないなんらかの美しい言い訳を並べただろう。けれど、今日に限ってはどんな戯言(いつわり)も口にする気になれなかった。


「璃空」

 黙ったままの璃空を窘めるように、慈愛の声色が感情を探る。

「なにか嫌なことでもあったの? 話し合いましょう」

 璃空は静かに首を横に振った。何もない。何もないから――嫌なのだ。


 ごめんなさい、と璃空は心の中で姉に謝る。此処まで来てくれたのに。迎えに来て、探して、見つけ出してくれたのに。そのすべてを喜べなくてごめんなさい。


 そのまま、術を行使する。伊那たちが止めに入る前にふたりの天才は、あっという間に稲雅から屋敷まで移動した。

 



「……玖、具合は平気?」

「まあ、多少気持ち悪いが大したことない。あんたは?」

「来るときに一回味わってるから、平気」

 そう言って、深呼吸をする。目の前の扉を開けるのは――あの時は直接璃空が開けたわけじゃなかったけれど――実に十年ぶりだった。

 蘭家の屋敷に似ているけれど、ずっと古く広い星家の住まい。綺麗な夜空色の重たい扉に手を添える。この先に、あの人がいる。十年前、赤子だった璃空が魂を捻じ曲げてしまった被害者であり、心恩兄さまと梦蝶姉さまを陥れた加害者が。


 扉についた飾り窓から、淡い金糸のひかりが漏れている。そのやわらかいひかりは、けれども強く玖と璃空を照らしていた。白い頬に反射して、ぼんやりと浮かび上がる様に明らかになった璃空の横顔は頑なだった。玖は繋いだままの手をぱっと離して、璃空の頬を両手で挟む。大きな声で叫びかけた璃空は、今自分が何処にいるかを思い出し、喉の奥で声を殺した。そのせいで、蛙を踏みつぶしたかのような鈍い小さな鳴き声が玖にだけ伝わる。

「……なにするの」

 恥ずかしさを堪え、喉を整えながら、声を潜めて抗議する璃空に、玖が笑いかけた。

「開けてやろうかと思って」

 璃空が口を開けて、閉じる。ふいっと顔を正面に向けると、耳輪に掛けていた髪の毛が落ち、さらりと耳朶を覆い隠した。本当にこの人は、分かりにくい、と璃空は思った。ただ一言、緊張しすぎだと言ってくれればいいのに。落ち着けと窘めてくれたら。

 けどもしそうやって気を遣われていたら、こんなにも穏やかに自分の心が整うはずがないとも思う。それだけに、悔しい。同輩でありながらも、彼の方が上手(うわて)なようで。


 もう一度深呼吸して、把手に手を添え、押す。

 重たい扉からひかりが扇のように広がり、最後は直線となって、璃空と玖を満たした。

2021/10/2 執筆

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ