第二話 凪に注ぐ星雨
――その男は月を背に立っていた。
両親が見ていないのをいいことに、丸窓に腰かけて半身を外へ投げ出していた心恩を見つめる瞳は、太陽に照らされた新緑を思わせる鮮やかな鸚鵡緑。風もないのに揺れる羽衣を纏った彼は、星家の広く――けれども簡素な庭の中で明確に浮いていた。
月の光を得て仄かにひかる、小さな白石の上を木履が歩く。当然鳴るはずの軽やかな音は、しかれど静寂を乱すことはない。庭を彩るために点在する盤石の上に乗っても尚、彼は呼吸音ひとつ漏らさずに心恩に近づいて来た。交友関係が広い父親の来客でないのは疾うに気づいていたけれど――微塵も敵意が無かったからだろうか。それとも、心恩がまだ幼く、無垢な子ども故だったのかは分からない――見知らぬ男の来訪に悲鳴ひとつあげず、彼はただただ幻のような緑を見据えていた。
男は半身を投げ出した心恩の傍に来ると、隠すことなく値踏みするような目を向ける。こうして近くで見ると、先ほどまで亡霊の類と見分けがつかなかった彼が、温度を有する只人であると心恩ははっきりと理解できた。霊の類であれば、心恩の命には興味があれど、彼自身のことはどうだっていいだろう。どんな理由があるかは分からないが、男は心恩に興味があるようだった。
心恩の手に無遠慮に触れると、大きさを確かめるように自分の掌に載せる。心恩は彼の白いしなやかな手が、想像していたよりずっと逞しく硬いのに驚いて、またしても動けずにされるがままになっていた。
「思ったより小さいな。――いくつ?」
「……もう少しで、六歳になります」
来月で心恩は幼馴染の梦蝶より一足先に六歳の誕生日を迎える。ささやかな生誕祭には彼女自ら(多分母親の手を借りながらだろうが)心恩の好きな焼饅頭を作ってあげると約束してくれた。正直に言えば心恩は焼饅頭よりも餃子のほうが好きなのだが、心恩の誕生日に梦蝶自身が一番好きな焼き饅頭を作ってくれるというのが、あまりに彼女らしくて可愛かったし、そもそも梦蝶が作ってくれるならそれだけで自分にとって特別な食事になる。だから「ありがとう」とだけ答えたのは、つい先日の話だ。
「幼馴染が六歳になるのは半年後で合ってる?」
心恩は咄嗟に触れられていた右手を強く引いた。勢い余って部屋側に転がりそうになる彼を、男が支える。「危ないよ」と添えるように掛けられた声は優しく、けれども少年の心の柔らかい部分に土足で入ってくる不躾さがあった。やはり敵意はない、と心恩は思う。心恩を害するつもりであれば、目が合う前に殺している。手に掛けるのが子供相手だから容易いという意味合いではなく、きっと心恩が屈強な男だったとしても、彼は容易く命を奪えただろうと思う。それほどまでに、彼の動きは主張がないのだ。いっそ、異常なほどに。
「ごめんね。悪気はないんだ。つい説明を省いてしまう癖があって」
本当に申し訳ないと言うように眉を下げて、男が謝罪する。心恩を支えるために重なっていた身体を離し、適切な距離を保つ。屋根のある場所に入ったせいで影が落ちた彼の双眸は、先ほどの神々しさとは裏腹に、何処となく不気味だった。生い茂る葉を陽が透かし、緑の面纱を纏ったひかりが降り注ぐさまはあたたかく、一見命に満ち溢れているように見えるのに、生き物が全くいない森――そんな印象を受ける。
「僕の名前は風 吹喜という。君のお父さんが働く明けの天柱省――って言って分かるかな。同じ祀部省で典礼のお手伝いしたり、予言を届けたりする仕事をしている」
予言、と聞いて心恩は自分の身体が僅かに強張るのを感じた。心恩が気づいたのだ。当然男も感付いただろう。答え合わせをするように「なるほど」と一言呟いて、笑った。
「僕は君に嫌われてしまうかもしれないね」
「……そんなことは」
「でも、祀部省に所属する天従として、嘘はつかない――つけないから、僕が言うことは本当だよ。そこは、安心してほしいな」
逆だ。"嘘をつかない"と分かっているから恐ろしかった。
生まれた時におりた"天啓"のせいで、どんな目に遭ってきたかこの人は知っているのだろうかと心恩は思う。きっと知らないだろう。神の言葉を代弁する天従は、あくまで天に従属する者で、神の代わりに人を救うわけではないのだから。起こり得る災害を知らせはしても、災いを帳消しにしてくれるわけではない。当たり前だ。人間も妖も神にはなれない。頭では理解しているけれど、それならば言わなくても良い未来だってあるはずだと心恩は思う。
――少なくとも、自分に纏わる予言は、両親に告げるべきではない厄難であったと。
「ねえ、心恩くん。君は、好きな子いる?」
とても恋の話をするには相応しくない筆路だった。けれども、その一言で心恩は気づいてしまった。彼が持ってきたお告げの範疇を。吹喜が何故、彼女の誕生日の話をしたのかも。
どうして自分におりる"天啓"は災いばかりなのだろう。
目をつぶって、開いてみる。月が陰り、暗くなる。変わらず煌々と光る見知らぬ男の読めない表情を見つめた。震える手足は悟られども、ぼろぼろと零れ落ちそうな心だけは感付かれぬよう呼吸する。たとえそのすべてが徒労に終わったとして、幼い彼の内側には乱せぬ星が輝いている。
自分のことならば幾らでも諦めよう。
けれども幼馴染の彼女だけは傷つけさせない。
「――なかなか良い目をするね、少年」
それが例え、神の形をしていたとしても。
◇ ◆ ◇ ◆
「……吹喜先輩」
「責めないでよ、後輩くん」
ただ名前を呼んだだけですが、と硬い声で告げた男を一瞥し、吹喜は微笑む。牡丹色の焼け付くような瞳は色そのものが持つ熱と反するように冷ややかで、吹喜に向けられた表情は隠すことなく侮蔑が籠められていた。それに気分を害することなく、吹喜は羽織っていた衣を沙发の背もたれに掛けると、そのまま身体を沈める。
「相手は五歳の子どもです」
「その子どもが生まれて間もないときに、一族を血で汚す"凶星"であるという啓示を代弁したのは何処の誰だったかな」
牡丹がぼとりと床に落ちる。彼のまなざしが逸れたのを見て取って、すぐに吹喜は「冗談だよ、しょうがないよね、君はあの時新人だったんだから」と笑った。
「……二十年、天日子の息子をやっていて、"新人"ですか。甘いですね、先輩」
「ただ『未来が視える』のと、『伝えるべき未来を視る』のは違うのだよ、衢麒」
「そんなこと分かっています――少なくとも今は」
「じゃあ、君は今回の天啓は彼にとって吉と出ると?」
「さあ。努力次第かと」
「――ふうん」
甘いのはどっちだよ。
からからと笑う男を、再び牡丹紅の瞳が睨め付ける。よくみると内側だけ橙に染まっている衢麒の鮮やかな目を、吹喜は愛していた。彼自身の人格を投影したかのような派手な色彩は見ていて心地良い。冷え冷えとした態度とは裏腹に彼は激情家だ。五歳の子どもに、自らの手で幼馴染の死を覆す選択を迫った吹喜のやり方を、彼は心の底から軽蔑している。そして、そうなる未来を予知した自分にも。
仕方ないことなのになあ、と、吹喜は沙发の手置きに肘を乗せて頬杖をつく。
妖の種族が代々受け継ぐ術式は、彼らの意志関係なく遺伝する。生まれた時から、彼は数カ月先の未来が縦横無尽に視えていただろう。天日子の一族は無暗矢鱈に予言を口にしない。彼らの能力は一介の人や妖が捌くにはあまりある力を持っている。加えて、いくら先が視えても、その未来を天日子の一族がどうにかすることは出来ない。故に、太古の昔から、天日子の一族からたったひとりだけ――神の言葉を代弁する天従に成った者のみが、四雲天国のための天啓だけをくだすことになっている。天日子以外の、神の"思し召し"や――それに似た何かを賜ることが出来る種族はすべてそうだ。
すべてを知ったうえで数百年ぶりの天従となった衢麒は、けれどもまだ『新人』だった。幾多の未来の中から、国のためになる天啓を探すのは難しい。多少の失敗は事故のようなものだろう。少なくとも吹喜が彼の立場であったなら、たかが子どもひとりの人生が多少でこぼこ道になったとしても気に留めない。良かれと思って口にした未来が、結果変化して別のものになることなど幾らでもある。その一つ一つを後悔していたら、天従など勤まるはずもない。
――が、衢麒は自分の口にした天啓のすべてに責任を感じている。
だからこそ、星 心恩が生まれた際視た星の瞬きを、そのまま彼の両親に伝えたのを今の今まで悔いている。
人間は簡単な術式以外自分で生み出せないために、その力に通ずる妖と契約し、術を行使する。しかし、どのような術式を持つ妖と契約できるかは、子どもの持って生まれた気質と才能に由来する。稀に妖と契約せずとも完璧な術式を編み出せる天才もいるのだが、そのような――仙人と呼ばれる人間はこの四雲に置いてごくごく少数に限られる。此処での説明は省こう。
星家は明けの上天――『人間』の貴族――の末席に名を連ねる一族だ。昔から治癒の術式を得意とする妖と相性の良い子どもが良く生まれた。故に長年祀部省の中核を担ってきた。妖と契約できず、術を使えない者も、医学や薬学を会得し所属するのが大半で、それ以外の道に進むものはほとんどいない。生と死を司る職業を主な生業とする彼らにとって、与えることはあれど奪うなどもってのほかであり、一族にそういった"穢れ"がないのが誇りであった。
だからこそ、星 心恩に与えられた才を、両親は受け入れられなかった。本家の一人息子である心恩がまさか"一族にとっての"凶星――奪う者の才がある赤子だとは思いたくなかったのだろう。王を守る刃となり得る魂だった。国に必要な存在だ。いくらそう説き伏せても母親は受け入れず、逃げるように屋敷へ戻ったそうだ。
吹喜はその際、たまたま祀部省を留守にしていた。部下から報告を受け、衢麒の仕事場である星見の間に入った時、彼は顔色ひとつ変えず、既に次なる未来のための精査に入っていた。
けれども吹喜は知っている。
その後何度も心恩が星家にひどい扱いを受けていないか――天啓が出たからには、天が心恩を国に必要な人材だと認めたということだと、部下を通じて何度も父親へ話に行っていたのを。
全く損な性格だとは思うが、吹喜は衢麒のそういうところを好ましく思っていた。不必要なことはしない吹喜とは反対に、衢麒は不要な努力を持って福を為そうとする。妖で有りながら非常に刹那的で非合理な思想だ。――まるで人間のように。
未来を視る妖の多くに、こういった傾向がある。先が視えるからこそ、それまでを歩むひとびとの道のりを愛おしく思うような視点。非常に面白い、と吹喜は思う。人よりもはるかに長い人生を歩む妖の多くは、瞬間の大切さを忘れる。そうしなくては果てしなく長い自身の旅路に飽いてしまうからだ。けれども天従たちは瞬間に歩みを見い出せる。それは紛れもなく美点だろうと、吹喜は笑う。もう自分にも――" "にも、そんな感覚はなくただ――。
気が付けば、ぼうっとしている吹喜の傍に、有能で不器用な彼の愛しい部下が来ていた。吹喜よりもずっと背の高い彼に見下ろされ、影に囚われる。
「……それより。本当にお辞めになるんですか」
「うん。そうだよ。最後の仕事っていったじゃない」
「いつもの質の悪い冗談かと思いまして」
「僕が居なくてそんなに寂しいの?」
「いえ。全く」
これっぽっちも、と告げた可愛い後輩は今日一番の笑顔を浮かべて吹喜から遠ざかる。これは、良い教育を施しすぎたかもしれないなとため息をついた。いつの間にか傍らの机に置かれていた白茶を口に入れると、柔らかな香りが口の中に広がった。
「――兵部省に行くよ。もう王族の世話は懲り懲りだからね」
「そうですか」
「君くらい有能な部下が居たら良いなー」
「使えそうな駒を見つけたから鞍替えするんじゃないんですか?」
「やだな衢麒。嫉妬かい?」
鞍替えとはまた随分な謂い様だったが、特に否定はしない。吹喜が気分で拾った若き天従は、効率が悪く情に流されやすい不器用な男だが、頭の回転はすこぶる良い。うっかりいろいろ話してしまうと、真意に辿り着きかねない。それは避けておきたかった。気分で天在省に在籍していた吹喜だが、いくら立場を隠すための仕事場だと言っても、嘘をつけない術式は彼にも有効だ。本音を言わないことで有耶無耶に出来ても、答えられないという事象が正答を導くのもままある。
「お元気で。吹喜先輩。……心恩のこと、頼みますよ」
「僕に出来ることはするつもりだけど、その後は彼次第じゃない?」
「あなたがたとえ自分の利益のためにしか働かない下種でも、自分のせいで子どもがふたり死んだら胸が痛む年寄りであることを願ってます」
「本当に言うようになったねえ、君」
流石の僕も、十もいかない子どもふたりに枕元に立たれたら寝覚めが悪いよ。……多分。
……悪いよね?
流れるような金の髪に、それよりも明るくあたりを照らすような黄金を瞳に宿らせた男は、白茶を飲み干しながら首を捻るのだった。
◇ ◆ ◇ ◆
目を覚ましてすぐ、梦蝶は嫌な夢を見たとため息をついた。
十年と少し添い遂げて来た大好きな幼馴染みに、君のことは何とも思っていないし婚姻を結んだのも全部幻だったと告げられる夢など、あまりに卑劣な悪夢だ。今日は友人の夢魔に頼んで、とびきりの良い幻で二度目の眠りにつきたい――そう、悪夢だ。全部転寝の際に視た幻想に過ぎない。
高らかな笑い声が胸の奥から湧いて部屋を満たす。ああもう、私ってば。想像や妄想の類が得意なのも、術師としてはとびきりの"才"だが、こうなってくると考え物だ。いけない。王が崩御してからというもの一切合切仕事がなくなって、発散する場が消えた故に、体内を流れる魔の流れがよくないのかも。そういえば身体もだいぶ鈍っているし――そうだ、明日心恩と一緒に遠出でも……。
「……姉さま」
「あら。扉を開ける時は合図をしないと駄目よ」
「したわ。姉さまがいつまでたってもその不愉快な高笑いをやめないから、扉を思い切り開けるしかなかったの。許してね」
「そんなに大きな声で笑ってたかしら」
「ええ。屋敷に響き渡るほどに。お父様とお母様が自室で怯えているわ。心恩様に…………されたから気が触れたんじゃないかしらって」
「なんですって?」
いま聞き捨てならない単語が聴こえた気がする。
梦蝶はため息をついて此方を見つめる妹に笑顔を浮かべる。彼女はひるむことなく梦蝶が眠っているベッドに近づいてくると、シーツに投げ出された手を優しく包み込んだ。
「お姉さま」
「なあに?」
「落ち着いて聞いて。姉さまは――」
それからの記憶がない。
どうやら妹の話によると、もう一度白目をむいて気を失ったらしい。
二度目の目覚めは、真っ青な顔をした母親と妹、そして痛ましい表情で手を握っている父親の家族全員に見守られて行われた。さすがにこの状況で「悪夢」という解決法は見いだせなかった。ずっと最悪な幻だと思っていた幼馴染との時間は現実で、実際婚約の際に書いた紙は不備があった旨が記された書類が一式父に渡されていたそうだ。
月に一度の茶会を暢気に楽しみにしていた梦蝶の手紙を読む傍らで、あの本の虫は婚約破棄を成立させる書類を集めていたというのか。
めまい・頭痛・吐き気に悩まされながら父親の話を一通り聞き、少しでも何か食べなさいと母と妹に焼き饅頭を勧められ、自分がかつて彼のために作った下手くそな焼き饅頭を思い出して泣いた。忘れもしない六歳の誕生日祝いだ。まあ、十年近く寄り添った幼馴染みとの婚姻を今更蹴るのだ。そんな思い出の欠片だって心恩は覚えていないのかもしれない。
歩く図書館なんじゃないかというくらい、様々な知識と豊富な諧謔に満ちた彼が、幼馴染との穏やかな思い出を忘れるなんて想像が出来ない。
……が、梦蝶の知っている心恩は、梦蝶に嘘をついて婚約破棄を突然告げるような無礼をする少年ではなかった。
本を読んでばかりで、梦蝶に少しも構ってくれない男の子だった。話しかけても最低限の相槌しか返ってこないし、たまに交わされる雑談も、話題提供はいつも梦蝶からだった。彼から話しかけられたのは、あの――燃えるように暑かったあの日だけ。
触れられたのも、あれだけ名前を呼ばれたのも、全部。
ああなんかもう、全部バカみたい。
何をしても婚約破棄という四文字が頭から離れず癇癪を起こし、大暴れして父親の大事な愛蔵品のひとつである廊下の壷を割ったり、母様が用意したお手製の漬物を零したり、優しく励まそうとする妹の手を跳ねのけた。最悪だった。梦蝶は聞き分けのいいほうではないけれど、それでも家族に対して此処まで当たり散らしたことなどただの一度も無かった。三日間家から出ずに大暴れし、四日目に気晴らしをしたほうがいい、と妹を連れて外へ出て気になっていた服を好きなだけ買った。五日目に父の部屋に忍び込んで秘蔵酒の入った壷を抱えて部屋にこもって、一晩かけて飲み耽ったら六日目に二日酔いで寝込み、七日目に風邪をひいて熱を出し、ああもう死ぬのかもしれないと思ったところで涙が止まった。
なんで私が失恋で死ななくちゃいけないんだ。
私を捨てた幼馴染なんて知ったこっちゃない。そもそも君の意見は聞いてない。書類の不備なんて直せばいいし、心恩がいくら違ったと言っても、十年近く傍に居て時間を重ねてきたのは紛れもない事実だ。返品不可能だろう。どう考えても。何を今さら。もっと早く言えなかったのか。約束を破るならなにも、王様が死んだ後じゃなくたって――。
そこまで思って、はたと気が付いた。
王が死んですぐに心恩が私との婚姻を破棄する理由はなんだ。
梦蝶の右手から淡い紫の魔法陣が浮かび上がる。いくつもの文字と記号を複雑に組み合わせたそれは、この四雲の世でたったひとり――梦蝶だけが紡ぐことが出来る、惑わしの妖への呼びかけを可能とするうつくしき調べ。
「――麟庸」
「……やあ、僕の蝶々。やっと呼んでくれたね」
長く美しい、闇をも弾く紫の髪がたなびく。章丹色の、果実のような瞳がひどく面白そうなものを見つけたように光った。梦蝶がため息をついて、四本の指をゆるやかに折り、小指だけをくるりと回す。指先に絡むように小さなひかりの蝶が溶けあって瞬時に消えた。
「今の私に白昼夢は不要よ、麟庸」
「残念だな。弱っている今なら甘い誘惑にのってくれるかと」
「生憎、最初の相手も終末を共にする男も決めてるの」
「揺るがないねえ……さすが"彼の"蝶々ちゃん」
愛でるように長い指先が梦蝶の髪に絡まって、そのまま耳を撫で上げる。髪の毛に隠れていた耳に揺れる桃色の蝶を見て、麟庸は笑う。人の弱さを愛する惑わしの妖――麟庸にとって、隙間があるからこそ他人の心は御しやすい。御しやすいから可愛らしい。けれどもそう思うのと同じだけ、人の逞しさを愛おしく思うし、満たそうとする欲望を好ましく感じる。
誰かに従うのを是としない種族でありながら――誰にも縛られない生き方を好いている妖でありながら、麟庸はこうして小さな蝶に手を貸し続けていた。
本来契約の妖になる者の多くは、術師から貰う魔力をよりどころとする力の弱い妖だけだ。学ぶ努力とほんのすこしの才――体内に"魔"という力を保有できる才があれば、周囲に住まう低級の妖に呼びかけて、契約無しに術式を借り受けることが出来る。少しの魔を提供する代わりに、妖が保有している術式を借り、術を行使する。梦蝶のような者を四雲では"術師"と呼んでいる。
術師は人か、人と妖の合いの子だけがなれる職業だ。何故なら、基本的な術式だけ借り受ければ、応用して様々な術式を編み出せる人と違い、妖の術式は生まれに起因する。例えば惑わしの妖である麟庸は、人や妖を翻弄し操ったりする能力――そして癒しの力には長けるが、何もない所から水を出したり、火を使うような術は編めない。その代わり強く濃い血で生まれれば、人から"魔"を与えられずとも、自分自身で魔を増幅し、運用できる。
つまり、夢魔という低級妖と麒麟――妖の中でも三本指に入るほどの強さと気高さを誇る種族の血を引き継いだ麟庸は、梦蝶の力を借りずとも、術を行使し続けられる猛き妖なのだ。
妖にとって"魔"は生命力そのもの。故に妖は魔に飢える。しかし、麟庸に魔は必要ない。その血の濃さ故に、何百年と生き続けられる力が生まれた時から備わっているからだ。
強い妖が契約を必要としないのは、人が居なくとも何百何千と生き続けられる魂を最初から持っているからである。
それでも、麟庸は梦蝶に術式を貸し続けてくれている。
――もちろんそれには、彼なりの意図と欲望があるのだが。
◇ ◆ ◇ ◆
蝶はある日突然現れた。
身一つで国一番の武芸の達人・七雲将――そして妖の長を交えた妖の宴に乗り込んできて、誰に臆することもなく、小さな手を床について頭を下げた。まだ小さな子どもであった彼女を誰も追い返せなかったのは、幼さ故ではない。
愛してる男の子がいる。その人を救いたい。
そのためだったらなんだってする、と言った彼女の瞳は純粋と断じるには傲慢で、弱いと吐き捨てるには真っ直ぐすぎた。何でもすると言ったくせに、私の心と命はあげられないというのだから、宴に参加していた低級の妖はこぞって笑い、我らが長の顰蹙をかって追い出された。退屈そうに絢爛豪華な座で頬杖をついていた統領が、ただ一言「何が欲しい」と問いかける。少女はあろうことか、傍らでのんびり酒を飲んで笑顔を振りまくだけの麟庸を指さしたのだ。
「力が」
ただそれだけが欲しい。守り切るだけの力が。
彼女は幼馴染を「助けて」とは言わなかった。あくまで救うのは自分だと言ってみせた。
不死の魂を持った我らが統領の前で。
妖の中で最も強く清らかな力を持つ男の前で。
お前ではなく、横に立つ麟庸が欲しいといったのは、幼い子どもに似合わぬ明確な打算が見て取れた。人も妖も、肉体を壊すのは難しい。小さな子どもの手で行える程度の暴力などたかが知れている。
けれども、心は容易く壊せる。やり方さえ間違えなければ。
そして心を砂に出来れば、肉体などどうにでもなる――"どうにもしなくたって"解決する場合もある。
故に彼女は麟庸を選んだ。
「手伝ってほしいことがあるの」
君にしか出来ないの。
彼女はいつもそう言って、麟庸に答えを選ばせる。無理やり従わせるのも出来るだろうに、必ず。
そして麟庸はいつだって、こう答えるのだ。
「喜んで」
――僕らの、いいや、"彼のための"蝶々ちゃん。
2021/04/25 執筆
2021/04/27 加筆
2021/05/06 加筆修正
title by alkalism